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なぜ徳川家康は正妻と嫡男を自害させたのか…戦国時代にも存在した「上司への忖度」という悲劇

プレジデントオンライン / 2023年4月14日 10時15分

築山殿の肖像(写真=西来院所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

徳川家康は正妻の築山殿と嫡男の信康を自害させている。歴史学者の黒田基樹さんは「ほとんど類例をみない、極めて異常な事態が起きたのは、天下人となっていた織田信長への忖度があったからではないか」という――。

※本稿は、黒田基樹『徳川家康の最新研究』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

■正妻と嫡男を幽閉し、自害させた家康

築山殿・信康事件というのは、天正7年(1579)8月4日に、家康が岡崎城主であった嫡男・松平信康を、「逆心」を理由に追放し、次いで幽閉し、同時に家康の正妻で信康の生母であった築山殿を幽閉したことにはじまり、同月29日に築山殿を自害させ、続いて9月15日に信康を自害させた、というものである。

この事件は、「築山殿事件」「信康事件」「築山殿・信康事件」などと称されている。戦国大名家の当主が、正妻と嫡男をともに同時に自害させるという事態は、ほとんど類例をみない、極めて異常な事態である。ではどうして家康は、このような措置をとったのであろうか。

しかしながら事件については、関係史料がほとんど残っておらず、真相は現在でも判明しない。具体的に把握できる事柄は、家康が織田信長の側近家臣である堀秀政に宛てた書状から、天正7年7月に、家康は筆頭家老の酒井忠次を、近江安土城の織田信長のもとに派遣して、信康は「不覚悟」であるからとして、信長から信康追放について了解をえて、信康を追放した、ということにすぎない(『愛知県史 資料編11』1336)。

■信長は家康の処罰申請を了解しただけ

事件の背景について記しているのは、江戸時代成立の史料にならないとみられない。そのなかでもっとも成立が早いのは、『三河物語』になる。

そこには、信長の長女で信康の正妻であった五徳(ごとく)が、信康の不行状を十二ヶ条の条書にまとめて信長に訴訟し、信長からその真偽について酒井忠次が尋問をうけ、酒井がすべて事実であることを認めたため、信長は家康に、信康を切腹させるよう命じた、と記されている。

この内容は、その後の江戸幕府関係の史料に踏襲され、近年まで通説をなしてきた。そのためこれまでは、信長はどうして信康を切腹させたのか、ということが考えられてきた。

ところが家康が堀秀政に宛てた書状や、「当代記」「安土日記」(『信長公記』の古態本)など信頼性の高い史料によって、信康処罰は、家康から信長に申請したもので、信長から、家康の考え通りとしてよい、と了解を得たにすぎないことが明らかになっている。したがって処罰の意志は、家康にあったのである。

このことから『三河物語』の内容は、信康処罰を信長の意向によるとすることで、処罰の意思が家康からでたことを隠蔽しようとしているものとみなされる。その後に成立した徳川家関係の軍記史料や編纂記録のほとんどは、この見立てを踏襲してきた。しかし実際には、事件は徳川家中のなかで発生したとみなされるのである。

■事件の遠因は徳川家家臣の謀叛事件

それではなぜ、家康は信康そして築山殿を処罰することにしたのであろうか。さらには自害させたのであろうか。

真相を伝える当時の史料は存在していないので、そのことを追究するには、当時における徳川家をめぐる政治情勢、徳川家における築山殿と信康の立場、などのことから導き出していかなければならない。これについては近時、『家康の正妻 築山殿』において詳しく検討したところである。

ここではその成果をもとに、事件について取り上げていくことにする。なお同書では、谷口克広氏(『信長と家康』)・本多隆成氏(『徳川家康と武田氏』)・平山優氏(『武田氏滅亡』)・柴裕之氏(『徳川家康』)を多く参照しているので、あわせてそれらの研究にもあたっていただきたい。

事件の遠因は、大岡弥四郎事件にあったと考えられる。これは、徳川家家臣で岡崎町奉行の一人であった大岡弥四郎や信康の家臣らが、敵対する武田勝頼と内通して岡崎城を武田方にする謀叛事件を企てていたことが発覚し、捕縛されたうえで処罰された、というものである。

■武田勝頼が送り込んだ巫女のお告げ

『三河物語』は、大岡弥四郎事件について築山殿の関わりを記していないが、「岡崎東泉記」『石川正西聞見集』には、そのことが記されている。

天正3年(1575)になって、甲斐の口寄せ巫女(神仏の意思を語る巫女)が岡崎領に大勢きていて、それにつけ込んで武田勝頼が、巫女を懐柔して、築山殿に取り入らせた。それは築山殿の下女にはじまり、奥上﨟(おくじょうろう)(女性家老)にまで達して、ついに築山殿に目見えするまでになった。

そこで、「五徳を勝頼の味方にすれば、(勝頼が天下人になり)築山殿を勝頼の妻とし、信康を勝頼の嫡男にして天下を譲り受ける」という託宣を述べさせた。

天正元年4月時の徳川家領国図
出所=『徳川家康の最新研究』より

また西慶という唐人医で築山殿の屋敷に出入りしていたものを、この談合に巻き込んだ、とある。そしてこれに続いて、大岡弥四郎らを大将分として、勝頼から所領を与える判物が出されたことが記されているので、西慶が大岡らに働きかけた、ということであろう。

■17歳の信康が謀叛を画策したとは思えない

大岡らが企てた謀叛は、たしかに勝頼の調略をうけたものであろう。それは築山殿に出入りしていた唐人医の西慶を通じてのものであった、という。

ちなみにこの時期、築山殿は岡崎の築山屋敷に居住していて、浜松城在城の家康とは、別居状態になっていた。けれども西慶は武田家家臣ではなく、そうした者の働きかけを簡単に信用するとは考えられない。またその西慶を謀議に引き込んだのは、勝頼から指令をうけていた巫女であるといい、そのこと自体はありえなくもない。

ただその巫女は、築山殿に取り入って、武田家に味方するよう吹き込んだことは記されているものの、築山殿と信康にそれ以上の働きかけをしたことは記されていない。しかしそれだけで、家老や町奉行、家老の家臣が謀叛を企てるとは考えがたい。

事件の深刻さをみれば、そこに築山殿の意向が働いていたとしか考えられない。「岡崎東泉記」には、勝頼の調略が、築山殿に伸びていたことがみえているからである。そこには信康は登場していないから、信康は関知していなかったであろう。信康はまだ17歳にすぎなかったので、主体的に家康への謀叛を考えられたとは思えない。

これらのことからすると、信康家臣団中枢に謀叛をはたらきかけたのは、築山殿であった可能性が高い。築山殿が武田家に内通し、謀叛事件を画策したことは、おそらく事実と思われる。

■徳川家の滅亡を覚悟していた築山殿の選択

では築山殿が、謀叛を企図したとして、それはどのような理由からと考えられるであろうか。「岡崎東泉記」は、その前提として、家康との夫婦仲が不和であったことを記しているが、それは家康と築山殿が別居していたから不和と認識しているのであろうから、十分な理由にならない。

巫女による託宣の内容は、築山殿と信康のその後の進退に関わることであった。そうすると考えられることは、信康のその後における存立であったに違いない。

この時期、徳川家の存続は危機的な状況に陥っていた。そのため築山殿が、徳川家の滅亡を覚悟するようになっていたことは十分に考えられる。それへの対策として、築山殿は武田家に内通し、信康を武田家のもとで存立させる選択をしたのではないかと思われる。

■家康よりも信康のほうがはるかに大切だった

軍事的劣勢に陥っていた戦国大名家・国衆(くにしゅう)家において、嫡男や有力一族が、敵方大名に内通して、当主を追放したり滅亡させることで、存続を果たすという事例は普通にみられた。そのことを踏まえるならば、ここで築山殿がそのような選択をしたことは、ごく当たり前のことであったといってよい。築山殿にとっては、夫家康よりも、嫡男信康の存立のほうが、はるかに大切であったに違いない。

またその託宣では、築山殿は勝頼の妻になり、信康は勝頼の養子になることがみえている。こうした働きかけが有効であったのかどうかはわからない。ただ武田家と徳川家の同盟の証しとして、築山殿が勝頼の妻の一人になるという選択肢は、ありえないことではない。そうした事例も当時、広くみることができるので、築山殿が勝頼に再嫁するという選択肢は、十分に存在したとみなされる。

これらのことからすると、築山殿が武田家に内通したことは、ほぼ確かなことであったと思う。それは嫡男信康の存立を考えてのことであった。築山殿は、武田家のもとで、信康を当主に戦国大名徳川家の存続を果たそうとしたと思われる。

■謀叛は失敗、夫婦関係は決定的に悪化

しかし謀議は露見して謀叛事件は未遂に終わり、大岡ら主謀者は処罰された。しかし謀議の大きさのわりには、処罰されたのは中心メンバーにすぎなかったといってよい。おそらくは多くの信康家臣団が参加していたことであろう。しかしそれをすべて処罰してしまっては、信康家臣団は崩壊してしまうし、何よりも武田家との抗争のなかで、それはできなかったのであろう。そのため主謀者だけの処罰とし、また事件も大岡弥四郎の個人的な野望によるものと矮小化させたのであろう。

この事件に、築山殿が関与していたことは、家康も十分に認識したに違いない。しかし築山殿を処罰すれば、それは家中の大混乱を生じさせ、さらなる叛乱を引き起こしかねなかったであろう。家康はそのように判断して、築山殿の行為については不問に付したと思われる。

しかしそれは、築山殿と家康との関係を、決定的に悪化させることになったであろう。けれども家康は、築山殿を離縁しなかったし、あるいは築山殿に代わる妻を迎えることもしていない。その理由をどのように考えればよいかはわからないが、正妻を簡単には離縁できなかったのだろうし、それに代わる妻を簡単には立てられなかったのであろう。こうしたところに、正妻の地位の重さをうかがうことができるように思う。

■信康の「反抗期」で、父子関係にも暗雲

こうして家康と築山殿とのあいだに、信頼関係は失われることになった。築山殿の存在は、嫡男信康の生母という立場に特化するようになり、信康の存在に決定的に依拠するようになったことであろう。

大岡弥四郎事件の翌年の天正4年から、信康について、粗忽(そこつ)な行動が記録されるようになっている(「当代記」)。これはその後に問題とされていく、信康の「不覚悟」の始まりとみられる。そうして信康は、家康の命令を聞かず、岳父の信長を尊重せず、家臣に迷惑な行為を行った、といわれるまでになっていくのである(同前)。

『石川正西聞見集』にも、「行状が悪く、家臣が苦労した」と記されているので、信康の不行状は、おそらく実際のことだったのだろう。ちょうど不行状が始まるのが、大岡弥四郎事件ののちからであることからすると、その根底には、家康と築山殿の不和があり、それが家康と信康の関係にも影響するようになったとも考えられよう。

松平信康の肖像(写真=『新編 安城市史1 通史編 原始・古代・中世』 勝蓮寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
松平信康の肖像(写真=『新編 安城市史1 通史編 原始・古代・中世』 勝蓮寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■五徳が楊枝を取るかどうかが政治問題に

そのうえでさらに、信康は妻・五徳とも不和になっていった。その理由について「松平記」は、五徳が続けて娘を産んだことを理由にあげている。たしかに、天正4年(1576)に長女福姫(登久姫(とくひめ)、のち小笠原秀政妻)が、同5年に次女久仁(くに)(熊姫、のち本多忠政妻)が生まれているが、これは信用できない。

これからもまだ出産は可能であり、そこで男子が生まれる可能性もあるからである。娘しか産まれていないことを理由にあげているあたりは、「女の腹は借りもの」とする江戸時代特有の観念をもとにしたものと考えられる。

信康と五徳が不和になった経緯について、もっとも真実味のある内容は、「岡崎東泉記」にみえているものになる。そこには、信康が五徳に、築山殿に楊枝を取るよう指示したが、五徳はそれを無視したため、信康は五徳をなじり、五徳はそれに腹を立てたことが記されている。

これは一見すると、他愛もない夫婦喧嘩とも思えるが、信康と五徳では、五徳のほうが政治的地位は上であったから、それはすぐれて政治問題に転化しえた。信康はそうした五徳との関係を蔑(ないがし)ろにしたことになる。信康がのちに、信長を尊重していない、といわれるようになっているのは、こうしたことを指しているのかもしれない。

■隠されていた謀叛事件を信長が知ることに

黒田基樹『徳川家康の最新研究』(朝日新書)
黒田基樹『徳川家康の最新研究』(朝日新書)

そして五徳は、信康への腹いせに、信長に、信康の不行状を記した十ヶ条の条書を送るのである。ちなみに『三河物語』ではそれは十二ヶ条となっている。

そしてその条書には、「岡崎東泉記」「松平記」などによると、かつて天正3年に築山殿が武田家に内通していたことが記されていたことがみえている。「岡崎東泉記」『石川正西聞見集』が、築山殿の武田家内通と築山殿・信康処罰を一連の過程で記していることから、それは事実であったとみてよいであろう。

五徳がこの訴状を出した時期は明確でないが、信長は天正4年末・同5年末・同6年正月と、集中して三河吉良に鷹狩りに訪問してきており、それは五徳の問題に関わってのことと推測され、おそらくは同6年正月に、五徳は信長に訴状を出したのではないかと思われる。

信長はその内容について酒井忠次・大久保忠世(1532~94)に尋問し、内容が事実であることを認識する(「松平記」など)。こうしてひょんなことから、築山殿の武田家内通の過去が、信長の知るところとなってしまった。

■信長への忖度で、家康は妻子を処罰へ

もとより信康自身は、かつて武田家に内通したわけではなかったと思われるものの、内通事件では、築山殿と信康はともに武田家に味方することになっていた。そのため家康は、両者を同罪とみなさざるをえなかったのであろう。

すなわち、信康が実際に武田家に内通したことがあったかどうかは問題外で、築山殿が武田家に内通した際に、信康もそれに味方することになっていたことが問題であった、ということであったろう。

それは端的にいえば、信長への忖度ということになる。家康としては、「天下人」信長に対し、かつて謀叛を企てたことがあった以上、処罰せざるをえない、と考えたに違いない。

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黒田 基樹(くろだ・もとき)
歴史学者、駿河台大学教授
1965年生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。著書に『下剋上』(講談社現代新書)、『戦国大名の危機管理』(角川ソフィア文庫)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国北条五代』(星海社新書)、『戦国大名北条氏の領国支配』(岩田書院)、『中近世移行期の大名権力と村落』(校倉書房)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』(以上、平凡社新書)、『お市の方の生涯』(朝日新書)など多数。

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(歴史学者、駿河台大学教授 黒田 基樹)

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