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《実録》死を覚悟して見えた「残りの人生でやりたいこと」

プレジデントオンライン / 2023年4月14日 10時15分

フリーアナウンサー 大橋未歩氏(藤中一平=撮影)

人はいつ死ぬかわからない。だからこそ、生きているうちに「やりたいこと」はすべてやっておきたい。しかしそれは、簡単には見つからないものなのかもしれない。「プレジデント」(2023年5月5日号)の特集「夢をかなえる習慣」より、記事の一部をお届けします――。

■34歳で脳梗塞になって180度変わった「生」の価値観

人間と自然は別ではなく自然の中に人間がいる

大橋未歩さん(フリーアナウンサー)

脳梗塞を発症したときのことは、今でも鮮明に覚えています。夜寝る前に顔を洗っていたんですが、右手が左手に触れた瞬間、「あれっ?」と思ったんですね。左手の感覚がなかったんですよ。自分の体なのに、マネキンに触っているみたいな。

「おかしいな」と思いつつ、洗顔クリームを取ろうと思って手を伸ばしたら、摑めずに床に落としてしまったんですよね。拾おうと思ってかがんだ瞬間、ガクンと力が抜けたように倒れて。家族がすぐに救急車を呼んでくれたんですが、大事にしたくないから「大丈夫」って言ったはずが「らいじょうぶ」と呂律が回らず、顔の左側の筋肉が、麻痺して垂れ下がっていたみたいなんです。

15分ぐらいでそれも薄れて、意識も鮮明になってきたのですが、後日MRI検査を受けたところ、4カ所の脳梗塞が見つかりました。原因は「内頚動脈の狭窄」によるもので、実はその2年前、番組で人間ドックを受診した際に、すでに病変は見つかっていたんです。ただ、「要経過観察」ということもあって、放置してしまっていて。今思えば、ちゃんと病院を回って調べるべきだったなと。そこから10日間入院をして、実家で療養した後、首にステントを入れるための検査入院、実際の手術などを含め、約8カ月間会社を休みました。幸い後遺症は残っていません。

ただそれまで、「仕事が生きがい」っていうタイプで、休みも欲しくなかったので、「働けなくなる」っていう現実を突きつけられたのがすごいショックで。働けない毎日を送っていること、番組に穴を空けていることに罪悪感を覚えて、入院中の期間はずっと司会者がいる番組は観られなかったですね。

発症したのは34歳で、体力的にも全然問題なかったんですが、当時は「精神面で疲れていた」ことも、原因のひとつに挙げられるかもしれません。「オリンピックの取材に行きたい」という動機でテレビ東京に入社して、ありがたいことにアテネ、北京、ロンドンと3大会の取材に行くことができました。ただ、その後「今後自分はアナウンサーとして何をしたいんだろう」と、目標を見失ってしまいまして。スポーツビジネスを学ぶために大学院(早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程)にも通うなど、キャリアを模索していましたが、どこか心と体がちぐはぐな状態が続いていましたね。

■テレビの中じゃなくて、社会に目を向けるように

復職してからは、いろいろな価値観が変わりました。仕事のことで言うと、それまではずっと視聴率競争の渦の中にいて、テレビ東京が「万年最下位」と言われていたのを脱却させるために尽力する、っていうモチベーションがあったんです。ただ、命と対峙する期間を経験したことによって、「どんなコンテンツが本当に世の中に必要なのか」と、テレビの中じゃなくて、社会に目を向けるようになりました。

それからは医療系の番組だったり、医療シンポジウムに積極的に参加したりと、今までとは違う分野に惹かれるようになりました。会社組織のことで言うと、それまで「テレビ東京に私の代わりはいない」くらいに思っていた時期もあったんですが、いざ土俵から降りてみると、まったく変わらずに正常に動いているのを目の当たりにしまして。自身が傲慢だったんだなと反省しましたし、そうして誰かが抜けても人材がいる場所に身を置くありがたさと、組織としての健全性も感じました。

趣味の面でも変化があって、当時は「仕事が趣味」くらいに話していたんですが、自然がすごく美しく感じられるようになったんですよね。それまで「人間」と「自然」に切り分けていたものが、自然の中に人間が存在しているという感覚になって……本当、不思議ですよね(笑)。今は、夫(上出遼平氏)と山にトレッキングに行くのが趣味になっています。

そうした価値観の変容があったことで、「地に足つけて、自分の人生の主体性を取り戻したいな」っていう感覚が芽生えてきて、フリーになる選択肢を取りました。局アナ時代は、ずっとテレビ東京で働き続けるものだと思っていたから、そんな決断をしたことにびっくりしていますし、それほど脳梗塞になった経験が自分の人生における大きなトピックスだったんだなと。

特に当てもなく独立して、最初は不安もあったんですが、『5時に夢中!』(TOKYO MX)のアシスタントや、やりたかったパラスポーツ番組のMCなど、フリーになってからの5年間は充実した毎日を過ごせました。信頼している先輩の佐々木明子さん(テレビ東京初の新卒採用女性アナウンサー。『WBS』などを担当)から「自分の中にスペースをつくれば何か入ってくるよ」と言われたことが、本当にその通りになりましたし、実力をつけて人間関係を構築できる力があれば、どこかで誰かがチャンスを与えてくれるんだなと実感しています。

■近々夫とアメリカに移住する予定

2023年3月で週4の生放送番組(『5時に夢中!』)は卒業して、次はインプットする時間が必要かなと思い、近々夫とアメリカに移住する予定です。向こうに行って何をするかは決めていないんですけど、現在と180度異なる環境に身を置いて、知見を広げていきたいですね。

もともと、先行き不透明なほうがワクワクしちゃうタイプなんですが、「経験」って、絶対に誰にも奪われない財産だと思っていて。年を重ねると、どうしても体力が衰えていくし、それと並行して、あらゆることへのモチベーションも下がっていってしまいそうで、それはすごく怖いことだなと。もう1度、今の立ち位置から離れて、生活に「余白」をつくって、経験を積んでいきたいなと思っています。

たぶん、日本の会社員の方って、「休むこと」への罪悪感がすごくあると思うんです。ただ、目の前の仕事や職場が世界のすべてになってしまうと、時に見栄や人間関係の渦に巻き込まれて、大切なことを見失ってしまうかもしれません。私も以前はそうでした。

でも結局それは、「健康、そして命」があってのもので、それ以上に大事なものなんてないと思うんです。もっと休むことを肯定してほしいし、たとえ忙しくても、今自分が本当は何を欲しているのか耳を澄ませるぐらいの余裕は持って、苦しくなったらちゃんと逃げて、心身を休ませてほしいです。

夫とアメリカに移住。「新しい環境」で「新しい経験」にワクワクしたい

■心筋梗塞で4回死にかけた男がたどりついた最高の生き方

2回目の心筋梗塞はICUで心肺停止

ケイ・グラントさん(ラジオDJ)

僕はこれまで、大きな心筋梗塞を4回経験しています。最初は1993年、34歳のとき。結婚して1週間後のことでした。

ラジオDJ ケイ・グラント氏
ラジオDJ ケイ・グラント氏(藤中一平=撮影)

自宅で寝ていたら、朝5時ぐらいに胃の裏をヤスリでジャリジャリとこすられるような痛みを感じて目が覚め、妻に救急車を呼んでもらい病院へ。最初は「胃が悪いんだろうな」と思っていたんですが、心臓の裏側の血管が詰まっているということで、カテーテル治療を行うことになりました。

当時は本当に働き盛りで、FMラジオ・TVを含め7本のレギュラー番組があるうえに、映画のトレーラーを一日で33本収録することもありました。ちなみにそれは、「33時(朝9時)上がり」となっていましたね(笑)。そんな、ほぼ睡眠時間がないような毎日だったので、ストレスの反動で強いタバコを吸ったり、朝まで、時には仲のいい力士たちとお酒を飲みまくったりして……体が悲鳴を上げたということでしょう。

それまで大病を患ったこともなかったし、水泳もボディビルディングもやっていたから、「自分は人より体が丈夫にできている」という思い込みもありました。だからいざ病気になったときは、ショックが大きくて。番組もクビになることを覚悟していたんですけど、ありがたいことに、みんなが待っていてくれて。幸い復帰までは1カ月と、さほど時間はかかりませんでした。

そこから生活習慣も見直して、比較的“良い子”にしていたんですが、7年後にまた心筋梗塞になってしまいましてね。それが2000年、41歳のとき。人から名前と顔を知ってもらうことも増えた、格闘技のリングアナとしてデビューする4カ月前だったんですよね。本当に病気のタイミングが悪い(笑)。

これは正月、僕の誕生日も重なって食べ疲れしたので、うちの弟が経営するスイミングクラブのプールで、体をリセットするため泳いでいたんです。そしたら突然「カチン」という音が体の奥で鳴ったんですよ。同時にアイスピックで刺されたような鋭い痛みが襲って、弟に「救急車を呼んでくれ」と言いました。

ただ、ピンピンしているように弟からは見えたんでしょうね、「えっ、そんな元気そうなのに呼ぶの?」と言われたんですが、「いいから早く呼んでくれ!」と。案の定、病院に運ばれたら、ICUで一時は心肺停止状態。心臓の中でも大事な血管が詰まっていたようで、元総理の大平正芳さんが僕と同じ部位の心筋梗塞で亡くなったぐらい。

ただ、1回目の手術から7年の歳月を経て医療技術が発展していまして、ステント(ステンレスなどの金属で作られた医療器具で、血管を広げた状態を保つ)を入れたら回復に向かっていってくれて、結果2週間で退院することができました。

■医者から言われた言葉、年内死亡確率98%

3回目は49歳のときで、一番「死」を身近に感じる手術を受けました。移動する際、ちょっと歩いただけで、「なんか息苦しいな……」と思って病院に行ったら、急性心不全と診断されて強制入院。どうやら、仕事している中で、溶連菌に感染してしまったみたいなんです。

3回目の心筋梗塞でバチスタ手術を受け、入院したケイ氏。手術は6〜7時間にも及んだ。医者からは、「このままだと年内死亡確率が98%だね」と告げられるも、その年の大晦日には『Dynamite!!』のリングアナウンスに復帰した。
3回目の心筋梗塞でバチスタ手術を受け、入院したケイ氏。手術は6〜7時間にも及んだ。医者からは、「このままだと年内死亡確率が98%だね」と告げられるも、その年の大晦日には『Dynamite!!』のリングアナウンスに復帰した。

心臓の病気をしている人が溶連菌をもらうと、弁がやられてしまうみたいで、心臓から体に血液を送り出そうにも、普段の3分の1ぐらいしかプッシュできない。だから、病院に行く直前は、10メートル歩いただけで顔面蒼白になっていましたし、当時は『DREAM』のリングアナをやっていたんですが、貧血症状が出て、10試合中3試合しかコールができないということもありました。ならもっと早く診察に行けっていう感じなんですが(笑)。

それで、医者から「このままだと年内死亡確率が98%だね」なんて脅されて、6〜7時間ぐらいかけてバチスタ手術をしまして、無事に成功しました。僕のレギュラー番組でも、周囲の人たちにも詳しい病状は伝えてなかったんですが、兄貴と慕う鈴木雅之さんや、ブラザー・コーンさんなど、仲のいい人たちがお見舞いに来てくれたり、リスナーから励ましのメッセージをいただいたりして、本当に嬉しかったですね。特にコーンさんから言われた言葉で覚えているのが、「東京のタレントってのは、病気を明かして芸能活動をするもんじゃないんだよ」って言われたこと。それは、今でも心に深く刻み込まれている言葉です。

その年の大晦日に開催された『Dynamite!!』のリングアナウンスでは、元気な姿を見せることができました。復帰するにあたっては、ひとつ大きな原動力になることがありまして、音楽事務所「ビーイング」の長戸大幸さんの弟さんでもある秀介さんから「歌手デビュー」の話をもらっていたんです。カフェで話していたら「ケイ、おまえいい声してるな、歌えよ」って。何より、手術が成功して一番はじめに喜んでくれたのが秀介さんだったんですよね(その後10年に歌手デビュー)。

とまあ、しばらく調子がいいかなと思っていたんですが、すぐ翌年に4回目があったんですよ。自宅で風呂上がりにテレビを見ていたら、急に目の前がブラックアウトして倒れちゃって。本来なら、これまで診てもらっていた心臓血管研究所に行かなければならなかったんですが、僕に意識がない状態だったので、総合病院に運ばれちゃったんです。

あとから妻に聞いたんですけど、運ばれている途中に一瞬パッと気がついて、「至急心臓血管研究所に行ってくれ!」って言ったみたいなんですよね。なので、次の日の朝には、ちゃんとそっちのベッドにいました(笑)。原因は心室内細動によるもので、問題の部位が深いために外からAEDを使っても作動しないんです。だから、体内にICD、いわゆる埋め込み型の除細動器を入れなきゃいけなかったんです。何度かモデルを入れ替えて、いまでも体内にあるわけですが、細動を感知したら、突然「ドン!」と来るんです。

これが痛くて、最初はいつ来るのか憂鬱な気分になっていましたね。ちなみに4回とは言ったんですが、その後もいくつか出来事があって、16年に、bayfmでレギュラー番組の『低音レディオ』が始まって数カ月経ったぐらいかな。夏に記録的な大きさの台風10号が上陸したんです。その気圧の変動のせいで、細動が頻繁に起きちゃって最高1日35回も「ドン!」って作動しちゃって。結局、心臓の機能を半分殺そうという流れになって、溶接みたいな感じで、7カ所くらい焼いたんですよ。最終的には、30カ所以上悪さしていたところを焼いたんですよね。

その年の後半は、病院とラジオ局を往復する生活をしていましたが、今では懐かしい思い出ですね。あと、3度目でバチスタ手術をした際に、2リットルほど輸血をしたんです。それが原因なのかは不明ですが、白血病になっちゃいまして。こいつが結構厄介で、疲れやすくもなるし、いつ急性転化するかもわからない。子どもたちには、もしかするかもしれないから、強くいてくれよと話していました。ただ幸い、自分に適応する薬が見つかったというのもあり、ここ4年間、白血病の細胞は未検出で、「寛解」には至っています。

■映像作品に出て自分を残していきたい

こういう病気になってから、20代のころにしていた享楽的なことがほとんどできなくなりました。タバコ、お酒はもちろん、現在は「ノーソルト(無塩)」の生活を送っています。これは2回目のコロナ感染後、ウイルス性の胃腸炎で高熱が出た際に腎機能が低下してしまったことが原因でした。家族と外食に行っても、自分だけお願いして調味料を使わないメニュー。素材そのものを楽しむほかありません(笑)。傍から見たら、何が楽しくて生活しているのかという感じですけど、僕は「今が一番幸せです」と断言できますね。

これは病気になってから明らかに変わった価値観で、病気前に「幸せ」と感じていたことは、振り返れば一瞬の出来事。周りの人の助けによって生きながらえている今は、毎日仕事して、過ごしているだけで幸福感に満たされています。

今、仕事とか、この先の人生を考えて憂いている人は結構いると思うんですけど、誰も未来なんてわからないんだから、「今日も生きていて幸せだ!」くらいに思っていてほしい。僕なんて、みなさんが食べているカップ麺もたまにしか食べられないわけで(笑)。自分を騙すぐらい、底抜けにポジティブなマインドを持っていると、不安とか心配ごとなんて杞憂に終わりますよ。自分は、最後の死ぬ瞬間までそうありたいですね。

もう先輩方はどんどん亡くなっていっているんですが、葬式にはあまり行かないようにしていまして。行ってしまうと、その人の「死」を認めたような気になるから、どうも抵抗があるんですよね。ずっといい思い出のまま、「今は会えないけど、きっといつかまた会える」っていう気分でいたい。だから電話番号も消さずにそのままにしていたりします。僕のときも、家族だけでこぢんまりやってもらって、友人たちは呼ばないでほしいなあ。

今のライフサイクルとしては、レギュラーのDJに加えて、バイクや車など、好きなものに囲まれているこのガレージでインスタライブをしたり、『Clubhouse』で話したりしています。家族からしても、家にいなくていいから、元気で好き勝手にやっていてほしいみたいです(笑)。そりゃ、塩分が摂れない人と食卓を囲むのも気を使うだろうし、自分としても性に合った時間の使い方です。

ケイ氏のガレージ兼趣味部屋。自宅にいるときはここで過ごすことが多いという。インスタライブや『Clubhouse』の配信も、この場所で行っている。
ケイ氏のガレージ兼趣味部屋。自宅にいるときはここで過ごすことが多いという。インスタライブや『Clubhouse』の配信も、この場所で行っている。(藤中一平=撮影)

今後は、ドラマとか映画など、自分の声や姿が作品として残せればと思っていますね。孫にも「これがおじいちゃんだよ」と言いたいので。正直、撮影で何時間も待つようだと、自分の体力が持たないと思うので(笑)。だから通行人役とか、それこそDJとか、ちょっとした役柄でもいいんです。

昔、木村拓哉さんが主演して大ヒットした『ロングバケーション』というドラマでも、ラジオDJとして声出演したこともあるんですよ。僕の番組のリスナーって、結構自分と近い年齢の人も多くて、末期がんの宣告をされた人とか、なぜか似たようなルートをたどっている人も多いんですが(笑)、そういう人たちを励ますために、いや“励まし合う”ためにも、自分の声で発信することだけはやめないようにしたいですね。

病気をしているリスナーには決まって同じことを言っているんです。「大丈夫、大丈夫。俺もあなたもいまこうやって生きているんだから、死ぬまでは大丈夫だよ」ってね。

底抜けなポジティブマインドで生きれば、不安や心配ごとも杞憂に終わる

■ステージ4のガンを抱える会社員が絶対に仕事を辞めない理由

辛い結婚生活の報いは地獄の始まりだった

ニコラス・ケイイチさん(会社員)

最初にガンが見つかったのは49歳のときです。子供のころから足の甲にシコリがあり、特に気にするわけでもなく放置していました。離婚を機に心機一転、「ついでにとっておくか」という軽い気持ちで病院へ向かったのです。担当した医師いわく、子供のころから今まで悪影響を及ぼしていない腫瘍であれば悪性のはずがないとの判断で、先に切除してしまい、念のため切除後に腫瘍を病理検査するという流れでした。

ニコラス・ケイイチ氏
ニコラス・ケイイチ氏(藤中一平=撮影)

3日ほど入院し腫瘍の切除手術を済ませ、1カ月ほどたったある日。病院から電話がかかってきました。病理検査結果は悪性。目の前が真っ暗になり、私にとっては地獄と思える日々が始まりました。

診断結果は「軟部肉腫」でした。希少ガンのひとつであり、医学会では5年後の生存率は50%ほどとされています。化学療法や放射線治療は効果が期待できず、周りの正常な部分も含め腫瘍を取り除く「広範切除」というのが唯一の治療法でした。

20年余りの結婚生活は幸せとは程遠く、とても苦しいものでした。会話はほぼなく家庭内別居状態でした。夫婦の営みも子供を授かるためにしただけです。私が自由に使えるお金は月の小遣いの3万円のみ。年収は1000万円ほどありましたが、実質は36万円です。元妻の機嫌が悪いときはその小遣いさえももらえず、年収がゼロのときもありました。近くに住んでいた姉にお金を借りて凌いでいたくらいです。

こんなに苦しい結婚生活を耐えられたのは生まれてきた子供のためです。そして辛いときもありましたが、それなりにいいお金を稼げる仕事だけは楽しく、生き甲斐だったのです。やっとの思いで離婚調停に入り、離婚を成立させ、お金も時間も自分のためだけに使える。そんな自由を得た直後のガンの発覚でした。経済的DVに耐え続け、苦しんだ結婚生活の報いがこれなのかと、どん底に落とされました。

■切断すれば、一旦ガンから解放される

担当医師と治療方針を決める面談では、「義足が着けやすいようにどの部分から脚を切断するか」が主な内容となり、根治の可能性がある切断が前提でした。「切断すれば、一旦ガンから解放される」とも言われたのです。医師としては患者が治療後も長生きする可能性が少しでも高い方法を提案するのは当然であるとわかってはいました。しかし、同時に切断後の生活の質(QOL)とのバランスも患者にとってはとても大切なことです。面談を繰り返す日々は、残された自分の人生にとって何がもっともQOLを高めてくれるのかを考える時間になっていきました。

真っ先に浮かんだことは旅行です。学生時代に欧州をバックパックで巡った体験が忘れられず、離婚後は行ける限り国内外へ旅行しようと決めていたのです。気のおけない仲間との旅行を想像したときに、義足で歩いている自分の姿は想像できませんでした。私にとっては自分の脚で仲間と旅行することが一番大事だったのです。

客観的に見ると「命より旅行が大事なんて」と思うかもしれません。しかし、49歳で独り身、仕事も充実して収入も安定し、時間もある。脚を切断しないことで残りの人生が短くなるリスクを抱えたとしても、自分自身のことだけを考えて生きればいい状況は、今までの人生において初めてのことだったのです。

脚を切断しても、ガンが他の部位に転移して再発する可能性はゼロではありません。もし切断してしまってから再発しようものなら、悔やんでも悔やみきれないとも思いました。私が脚を切断しない意志を伝えると、担当医師も受け入れてくれました。残りの人生のQOLを高めることと、根治の可能性に懸けて脚を切断し少しでも長く生きること、私にとって究極の選択です。その2つを天秤にかけさせられ、結果的にQOLを高めるほうへ全振りしたのです。

思い返すと、脚を「切断する、しない」という決断に悩んでいるときがもっとも苦しく、私にとって地獄と思える辛い時期でした。切断しない決断をした後は、効果はあまり期待できないけれども何もしないよりはいいとのことで、患部への放射線治療を1カ月半行いました。放射線治療が2週間を過ぎたあたりから、自分の脚から死臭が漂い、黒くただれはじめ、とうとう分厚い足の裏の皮がズルッとすべて剥けてしまいました。一晩中「痛い」と叫び続け、寝つけぬまま、次の日の午前中には放射線治療のために再び通院し、午後は痛みに耐えながらなんとか会社に出社するという日々でした。

肉体的には相当辛かったのですが、それに比べても「切断する、しない」という決断を迫られていた精神的な苦しみのほうが、私にとっては辛かったです。逆に考えると切断しない決断をした後に訪れた肉体的な苦しみは、自分自身で選んだ道だったので、腹を括れていました。それが身体的な苦しみを乗り越えられた理由だと今になって実感しています。放射線治療を終え、足の裏の状態も落ち着いて、やっと旅行ができるようになり、残りの人生の身の振り方を真剣に考え、行動に移すようになりました。

仕事面ではまず収入を上げるために転職をしました。勤めていた会社が早期退職を募り、通常より多くの退職金がもらえることも大きな理由でした。転職先の会社は、転職後に昇進試験を受けるには少なくとも1年の実績が必要でしたが、私にそんな猶予はありません。一旦は落ち着いているとはいえ、いつガンが再発するのかはわかりません。健康な人に比べ、残された時間は確実に少ないという自覚が芽生えていたのです。

3カ月ほど勤務した後、上司に直談判をした末に特例で受けた昇進試験に合格し、役職と収入がさらに上がりました。他の人と同じような働き方と意識では、私の場合は到底時間が足りないと思っていたからです。そして、私には「自分がどんな状態であろうが、可能な限り稼ぎを増やす」という矜持があります。

私はそのために生まれてきて働いていると言っても過言ではありません。昔からお金を持っていれば「勝ち」という考えで生きてきました。その稼いだお金で、旅行をしたり、友人に美味しい食事をご馳走したりして、楽しい時間を過ごしたい。私にとっての幸せを積み重ねるためには、お金を稼ぐ必要があるのです。

入院中と退院後のニコラス氏。手術の傷痕は生々しい。入院中は友人たちから励ましの手紙が届いた。旅行中はガンを忘れて楽しむ時間なので国内線はリッチにプレミアムクラス。
入院中と退院後のニコラス氏。手術の傷痕は生々しい。入院中は友人たちから励ましの手紙が届いた。旅行中はガンを忘れて楽しむ時間なので国内線はリッチにプレミアムクラス。

治療後、プライベートの面では「人生のロスタイムラジオ」というネットラジオ番組の配信を友人とはじめました。私は子供のころからラジオを聴くのが大好きでした。死ぬまでにいつか自分でもラジオをやってみたいという思いが心の片隅にありました。素人でもネットラジオであれば簡単に世の中に配信できる時代です。これまでの人生を振り返り、QOLを高めるための考えを声で配信するという行為は、文章で残すよりも感情が伝わりやすいと感じています。

ネット空間に音声をアーカイブしておくことで、死後も私のことを思い出した友人が聴いてくれる可能性もあります。裏を返せば、私は死後に友人から忘れられてしまうことが怖いのです。今はリスナーと一緒に番組のイベントとして、自分の生前葬を行うことが残りの人生の目標の1つになっています。

■最後は肺に転移すると医師には言われていた

最初のガンの手術、放射線治療後の1年ほどは転移もなく、落ち着いた日々を送っていました。そのときに転機が訪れました。同じ業界の別会社からヘッドハンティングの話が舞い込んできたのです。再び収入を上げるチャンスでもあるので、オファーを受けました。勤務地と共に通院する病院も関東から関西へ移り、3カ月に1度のペースで定期検査を受けていました。その定期検査で鼠径部リンパ節への最初の転移が見つかったのです。

転職から約2年後、最初のガンから約3年後のこと。想像よりも早かった転移は単純にショックでした。それにすべてのガンというのは、ほかの箇所に転移した時点で「ステージ4」になるのです。そのうえ、私のガンの場合は転移すると切除する以外に治療法がありません。その覚悟はしていたので、すぐに切除手術を受けました。

■転職先は激務

転職先は激務でした。そのストレスで免疫力が落ちてしまい、転移してしまったのではないかと思っています。しかし、そんな状況に耐えかねて再び転職を考えていたら、偶然にも同じ業界から再びヘッドハンティングの話がきたのです。渡りに船とはこのことで、引き留めにもあいましたが再転職することにしました。

肺の部分切除手術を受ける際に、病院からもらったパンフレットの1ページ。たくさんの機器や管が付けられるようだ。
肺の部分切除手術を受ける際に、病院からもらったパンフレットの1ページ。たくさんの機器や管が付けられるようだ。

しかし、勤務先と通院する病院も再び関東に戻り、その紹介状を書いてもらうのと同時に受けたCT検査――。そこで肺への転移が見つかりました。1度目の転移からたった2カ月後のことでした。転移の速さ、転職先の内定が取り消される可能性が出てきたことへの不安が重なり、また苦しみを味わうのかと再び目の前が真っ暗になりました。それに、最後に転移する場所は毛細血管が集まる肺だということは以前医師から言われていたのです。

とはいえ、私のガンは切除さえしてしまえば、再び転移が見つかるまでは体には手術以外の負担はありません。転職先へガンや手術のことをなんとか隠し通そうとはじめは思いましたが、不可能だとわかり正直に打ち明けました。このときの葛藤は精神的にはかなり追い込まれ、苦しかった。しかし、私が働いているのは製薬業界ということもあって理解があり、内定には「問題なし」と判断されました。そして、運よく転職も2度目の転移の手術も、両方うまくいったのです。

死を覚悟する選択をしたからといって、転移と再発の恐怖から逃れることはできていません。1度は自分の死を受け入れたつもりでした。しかし、半年ごとの検査が迫るたびに、背後から死の恐怖に追いかけられているような感覚に陥ってしまいます。残りの人生を充実させることとは別に、その恐怖から逃れるため、直近の半年間は毎月のように旅行の計画を詰め込んでしまっています。その姿を見た友人からは「生き急いでいるように見える」と指摘されましたが、CT検査で再び転移が見つかるかもしれない現実を一瞬でもいいから忘れていたいのです。

「5年生存率50%」のガンが見つかってからの5年間

■友人の存在の大切さがあらためて身に染みた

そして独り身の寂しさも加わり、旅行先の街では風俗店に通いまくってしまうのです。単純に性欲を発散させているのではなく、寂しいのです。まやかしの愛とわかっていても、それを求めてしまうのです。そんな私を見かねた友人の女性は「もっと心の距離が近くて、密なコミュニケーションが取れる場に身を置いたほうがいい」とアドバイスをくれました。友人の存在の大切さがあらためて身に染みています。

例えるなら私は、テレビゲームをクリアしていくようにガンと向き合っているように思います。このゲームは、各ステージをクリアするほど難易度が高くなります。これからは転移と手術の回数が増えるだろうし、年齢も上がれば体力も衰えてくるでしょう。ガンを乗り越えることが難しくなるのは必然です。けれど、1度ガンになったからといって人生が大きく変わったとは思っていません。自分の人生を俯瞰して見てみると、2度の転移と3度の切除手術、転職や旅行などいろいろな経験をした先に、現在があります。私が途中で人生に絶望しなかったのは、たったひとつの出来事ですべてを判断しなかったからだと思います。

ここまで読んでくれた方には、私がそうであったように、1つの出来事だけで判断を早まり、人生に絶望する必要はまったくないということを、伝えておきたいです。

一つの出来事に翻弄されず、判断を早まらずに生きていきたい

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大橋 未歩(おおはし・みほ)
フリーアナウンサー
1978年、兵庫県神戸市生まれ。上智大学卒業。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士取得。テレビ東京に入社後は、スポーツ、バラエティ、情報番組を中心に多くのレギュラー番組にて活躍。2013年に脳梗塞を発症し、約8カ月間休職。同年9月に復帰した後、18年3月よりフリーで活動開始。現在、夫婦でアメリカ移住の準備中。

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ケイ・グラント ラジオDJ
1959年、東京都生まれ。水泳コーチ、ボティビルトレーナーとして活動していたが、地元のカフェで友人と喋っている声を聞いた関係者からスカウトされ、88年、開局したばかりのJ-WAVEでDJデビュー。2000年からは『PRIDE』や『DREAM』などの格闘技イベントのリングアナとしても活躍。現在も『低音レディオ』(bayfm78毎週土曜日20時〜)のレギュラーDJを継続中。

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ニコラス・ケイイチ 会社員
製薬会社に勤める50代管理職。49歳のときに軟部肉腫が発覚。2度の転移と3度の手術を経験。半年に1度の検査のたびに転移の恐怖に怯える。趣味は旅行と珈琲とラジオを聴くこと。自身の生前葬が今後の目標の1つ。

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(フリーアナウンサー 大橋 未歩、ラジオDJ ケイ・グラント、会社員 ニコラス・ケイイチ 構成=東田俊介・藤中一平 撮影=藤中一平)

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