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なぜ日本人はいくら勉強しても英語を話せないのか…養老孟司が考える「日本の学校教育はココがおかしい」

プレジデントオンライン / 2023年4月19日 10時15分

養老孟司さん(右)・藻谷浩介さん(左) - 写真提供=毎日新聞出版

日本の学校教育はどこに問題があるのか。解剖学者の養老孟司さんは「子供を椅子に座らせ、暗記で知識を詰め込む教育はもうやめたほうがいい」という。エコノミストの藻谷浩介さんとの対談を収録した新刊『日本の進む道 成長とは何だったのか』(毎日新聞出版)から一部を紹介する――。

■なぜ日本では「読み書きそろばん」というのか

【藻谷浩介(以下、藻谷)】日本の英語教育は、発音能力、会話能力、ディベート能力を鍛えません。だから学校で教える英語は意味がないという意見は少なくありません。先生からみるとこの辺りはどう思いますか。

【養老孟司(以下、養老)】学校で何年も英語を習っているのに英語がちっとも上手にならない、しゃべるのが上手にならないと言われますが、そんなことは当たり前でしょう。昔から日本では「読み書きそろばん」と言っていたように、「読み」が中心になっています。そのことを疑問に思った人はいませんでした。

ギリシアは二千年以上前からお金をとって弁論術を教えていました。しゃべることを教えて金になる国でしたが、読みが中心の言語は日本語の他にあるのでしょうかねえ。

「あの国ではできているのに日本では」などとよく言いますが、もともとそうに決まっていますよ。つまり、日本語を教えている段階で、何を教えているかがわかっていないのでしょうね。日本語を教えているということは、日本の文化そのものを叩き込んでいることです。

僕はそのことを漫画を例にして指摘してきました。なぜ日本で漫画が発達するかというと、日本語は音読みをするからです。漢字のもとは象形文字です、すなわち「漫画」です。それにいろいろな「音」を振るのが日本語の特徴です。

■ニッポンの漫画は日本語そのもの

【養老】欧米の言語などは音が先にあってそれを表記する表音文字ですが、日本語は逆になっていて、ある意味のある図形があって、それに対して音を自由に振っていきます。その振った音が漫画の吹き出しです。だから吹き出しの中には難しい漢字を入れてはいけない。

アメリカの漫画を見ると吹き出しはセリフというよりもト書きになっていますが、日本の場合はト書きではなく、音と意味の文芸になっています。だから、僕たちが日本語を読むときには、仮名に対応する表音文字の部分と漢字に対応する意味の部分の二カ所の脳を使って、図形と意味を直結しているわけです。

国語の先生は「漫画を読んでいても字を覚えてないからだめだ」と言いますが、僕は、漫画は日本語そのものだと思います。つまり、日本で国語教育をすると漫画寄りの訓練をしていることになります。日本で平安時代から漫画が成立するのは、音訓読みが成立したからでしょう。僕は長年そう言っていますが、あまり聞いてもらえません。

■英語は挿絵のない論文をいきなり読むようなもの

【藻谷】なるほど。象形文字=面であって、いろんな音や意味を振れる漢字と、表音文字のかなを組み合わせた日本語はその構造自体が、面と吹き出しを組み合わせにした漫画と同じ。

そういう日本語で思考している日本人が、表音文字のみの英語での思考に切り替えるのは、漫画しか読んだことのない人がいきなり挿絵一つない論文を読むようなもの。そういうことですね。実際にも、漫画も日本語も要点をとらえて速読できるし、画像処理と言語処理を両方伴うので、英語より複雑なニュアンスを伝えられる。

しかし私の場合には、意図して読む方ではなく話す方の英語を鍛えたおかげで、頭を切り替えることで漫画も論文も両方読めるようになって、世界が広がりましたが。

私はカタカナと漢字だけの戦前の文章を読むと頭にすっと入って来ないのはなぜかと思っていましたが、戦後はカタカナは外来語にあてるようになったので、カタカナ語はいわば第二の漢字として、象形文字的に脳が理解しているのかな、といま気づきました。

「イノベーション」とか典型ですが、「進歩」とかいうのと同じで、意味不明なのに一つの固まった概念としてすっと頭に入ってきます。これが「いのべーしょん」とか「しんぽ」と書かれていると、思わず「どういう意図なんだろう」ともう一段深く考えるのですが。

■日本の学校教育がハマった「個性」の落とし穴

【藻谷】ところで先生は、日本の学校教育そのものはどうご覧になっていますか。

【養老】教育という言葉の意味にもよりますが、日本は「倣う」とか「真似する」とか「顰に倣う」というように、「学ぶ」より「倣う」ことに重きを置いてきました。古典芸能の教育が典型的ですが、師匠のやるようにやれということになっています。

言い方を変えれば、人真似を突き詰めると最後はオリジナルになるしかないという考え方があるわけです。徹底的に師匠の真似をしていくと、どこかで真似できないところに出る。それが師匠の個性であり、弟子の個性でもあるという考え方です。

しかし、戦後はずっと、そういう考え方は「封建的だ」という批判があり、「封建的でなぜ悪いんだ」とは言い返せませんでした。

【藻谷】その反動で「個性」を言い始めたら、子供たちが「普通ではいけない」「人と同じではいけない」と無理をして「個性」を出そうとするようになったりしてますね。

【養老】中高生に「個性」なんてそれほどありませんよ。昔、ある学生に「誰も君の隣の人と間違えないだろう、それが君の『個性』なんだよ」と言ったことがありますが、個性はあるに決まっています。逆にいうと、「その人はその人である」という個性に対する信頼感が消えてしまったのでしょうね。個性はあるに決まっていると思えば、個性を問題にすることはありません。

■点数がよければいい、知識だけを教えればいい…

【養老】「個性」とか「その人らしさ」は、だいたいは生まれつき変わらないものを言っています。

しかし、そういう価値を教育の中に持ち込むと、一番重要な価値に教育は関係ない、つまり教育は人間の本質的なことには関われないという常識ができてしまい、教育はいらないことになってしまう。それならば教師のやる気がなくなるのは当たり前です。

【藻谷】たしかに、個性というものは生まれつきの違いなのですから、個性尊重なのであれば、そこに教育は携わらない、知識だけを教えてればいいということになりますね。

【養老】そうです。だから教育が極めて表面的なものになって、点数がよければいいということになってしまう。

なにしろ日本は明治維新以来、外国からいいものが入ってきたら、それを摂ればいいという考え方でやってきたわけですから、教育はないですよ。だから、すぐに「他所ではどうやっているのか」という話になるわけです。

しかし、その意味では日本の教育は成功したんじゃないでしょうか。池田清彦くん(生物学者)が書いていますが、結局、戦後の日本の教育は卒業したらおとなしく会社に勤め、上司の言うことを聞いてきちんと働く人を養成したわけです。特に1960年代、70年代の大学紛争で懲りた国は、子供たちにそういう教育をするようになりました。

学生
写真=iStock.com/smolaw11
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/smolaw11

■机に向かうだけの教育はもうやめたほうがいい

【藻谷】その教育が、経済や企業を発展させるために、ものの見事に役に立ったということですか。

【養老】そうです。実際にそういう大人が育ったわけですから、日本の教育は有効だったということじゃないでしょうか。しかし、その教育はもういい加減やめたほうがいいと思います。

【藻谷】日本の学校教育はもともと、百数十年前のヨーロッパの教育の仕組みを日本に持ちこんだものでした。目的は富国強兵。当時の資本主義、軍事覇権主義むき出しの世界を、国としてサバイブするためだったのでしょう。

【養老】そうです。子供を椅子に座らせて教育するという、いまでも日本の学校で行われている方法は、19世紀のイギリスで産業革命とともに始まったと言われています。彼らはいまになって、「椅子の生活は不自然だから文明人の8割は年を取ると腰痛になる」といっています(笑)。

僕の記憶でも、小学校に入って初めて椅子に座って机に向かいました。しかし、畳での正座の仕方を教わったことはありますが、椅子の座り方は一度も教わった記憶がない。覚えているのは、椅子に座って頬杖をついたら、嫌と言うほど先生に叩かれたことです。

■子供がウロウロするのは自然なこと

【養老】そういう教育でも僕たちの頃がよかったのは、子供が自由に遊びまわっていられたからです。当時の大人は生きるのに必死だったから、子供に構う暇がありません。学校がなくて放っておかれたら、僕たちは毎日、川に行って魚を釣ったり蟹を採って遊んでいたはずです。

そういう子を集めて学校でおとなしく座らせておくことには、子供にとってそれなりの意味がありました。僕は学校があったから静かに座って本を読むことを覚えました。

ところがいまは家に帰っても椅子に座ったまま、ゲームをやったりスマホをいじっています。学校に来ている子供は、むしろ外で遊ばせなければバランスがとれません。本も読みたくない子には無理して読ませることはありません。

物事にはタイミングがあるから、本が嫌いな子に無理やり読ませても、さらに嫌いになるだけです。

その意味では、いまの公教育は根本のところで崩れていると思います。そのうえ、教室で元気で自由に動き回る子供は、注意欠陥多動性障害だということになりました。教室の中で立ち上がってウロウロするのは、子供にすればごく自然なことです。子供は立ち上がってウロウロしているものですよ。

■大人しく座らせ、暗記をさせるのが教育なのか

【養老】僕はいまでも講演の時は1時間半、ウロウロしながら話しています。それが人の自然の状態です。椅子に座ってじっとしている状態は決して自然ではない。それを自然な状態と思い込まされて、自分でもそう思ってしまっています。

教室
写真=iStock.com/tiero
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/tiero

ところが、アメリカでそういう子供に意識覚醒効果のあるリタリンを飲ませています。200万人の子供に飲ませていると読んだことがあります。

【藻谷】ウロウロしているのが正常だと。何でも薬でいいのかとは思いますが、その基準なら最近の日本の大人しいいい子たちは、みんな病気ということになりますね。中高一貫のお受験校なんて、全員がそうだったりして。

その真逆で、とにかく大人しく座って一方的に聞いて暗記してなさいというような日本の教育システムを、もう少し能動的な人材を育てるためにも、作り直すことはできるのでしょうか。

【養老】学校教育では親と先生の役割が非常に大きい。だから、先生方と親が考え方を変えれば、いまよりもっと子供にとってハッピーな学校ができるとは思います。

太田敏という監督の『夢見る小学校』という映画を見ましたが、フリースクールのようなスタイルをとっている公立の小学校を丁寧に追いかけています。校長先生を中心に、ほかの先生や親が協力して、子供が何でも話し合って自由に決めて実行していく。例えば、話し合いには先生も加わりますが、最後の多数決を取るときは子供も先生も同じ1票です。

■子供がすくすく育つ学校の共通点

【養老】先生が子供のやることに口を出さないから、子供たちの学びへのモチベーションが高まっていくわけです。フリースクール的な学校で学んだ子が伸びると言われますが、当然です。そこには自分で考えることを教えているからです。

【藻谷】いまの文部科学省の教育指導要領でも、それが可能なのですか。締めつけが壊れてきているので、そういう公立学校も認められるようになってきたということなのでしょうか。

【養老】いや、壊れてきているというよりも、本来、学校指導要領はがちがちではなく、いまの決まりの中でもフリースクールに近いような教育もできるようになっています。つまり、先生方が考え方を変えれば公立学校がそちらの方向に動けるんです。文科省は公立学校でそうした教育が行われることを妨害しているわけではありません。

【藻谷】制度としてはできるはずなのに、子供にとっても先生にとっても苦しい教育になっています。

【養老】教師や親、みんながもう少し素直に本音で話さないといけないのでしょうね。現場の先生方が、「書類を書くために教師になったんじゃない、子供を育てたくて教師になったんだ」とか言い出せばいいのじゃないでしょうか。

■教育の方法を変えれば子供は伸びる

【藻谷】さはさりとて、戦前の教育と戦後の教育は大きく変わったと言われています。先生がご覧になって一番変わったのはどこだと思われますか。

【養老】一番変わったのは教育の価値観――教育というものの重みではないでしょうか。戦前の教育はいまより遥かに重たかったし、戦前の方が集団的でした。全体を重視する教育をしていましたが、いまは個人重視の教育になりました。

【藻谷】社会全体で構成員全員の教育のレベルを上げよう、という意識が高かったということですか。

【養老】そうですね。現代はそうした意識が希薄で、それぞれの人や家庭の事情によって全体よりも個人の能力を伸ばすように変わってきていると思います。

さきほど言ったように、個性主義が教育全体の価値を下げてしまったから。教育はやる側が一生懸命になっていることが子供に伝わる。そのことは明らかなので、学校も出来たばかりだといい生徒が出るんです、先生が熱心だから。教師のその「熱」に子供は影響を受ける。そういうことが忘れられている。

私も大学の解剖の実習を教えていたけれど、解剖の実習は非常に手間がかかる大変な授業です。2カ月くらいつきっきりで指導するわけだから。そのやり方は元があってだいたい決まっているのですが、あるときに、それを変えようという話になった。

やり方を変えると変えた年は、学生に必ず良い結果が出ます。それは、変えようと言った人は自分の責任だと思って一生懸命にやるからです。でも何年かすると惰性になって普通になってしまうと、学生もまたもとに戻ります。

■教師と親の「熱」が子供のモチベーションを高める

【藻谷】なるほど。私も講演のたびに、熱意を持って何とか事実を皆さんに伝えようと頑張っているのですが、確かに講演回数が月に50回を超えていたような時期には、何か湧き上がってくるものが足りなくて、ただでさえ伝わりにくい話がなおさら伝わらなかった感じがありますね。

それが20回ぐらいまで落ちてくると相当に熱意が復活してきます。……というのはちょっと私が特殊に病的に伝えたがりなのかもしれません(笑)。でも実にいろんなテーマで話していることが、確かにやる気のもとになっています。

つまり、カリキュラムの内容よりも、カリキュラムが新鮮なことで先生が熱心になるのが大事。そこが子供の本質的な何かに触れるわけですね。

【養老】そうだと思います。私の経験では、東日本大震災のあと東松島の小学校でも似たようなことがありました。亡くなった作家で冒険家のC.W.ニコルの「アファンの森財団」が援助してその小学校の裏山を校庭にし、校舎は全て木造で作り直しました。

そこで学んだ卒業生の話を聞いたり、ほかの調査をしていると、例えば「将来、人の役に立つ仕事につきたい」といったモチベーションが高い子供が多いことが分かりました。

■今の教育は惰性の極みである

【養老】それは、大人たちが自分たちのために特別に新しい木造の学校を造ってくれたことに反応しているのではないかと思います。つまり、特殊な学校であることが大事なのではなく、特殊な学校を造ったということが大事なのだと思います。

養老孟司、藻谷浩介『日本の進む道 成長とは何だったのか』(毎日新聞出版)
養老孟司、藻谷浩介『日本の進む道 成長とは何だったのか』(毎日新聞出版)

【藻谷】前からあることではなく、新しく始めたことに、初期に学んだ子供たちが感心する。残念ながら普通の場合、いまの教育は惰性の極みのようになっています。

【養老】そうだと思います。いまは教育そのものではなく、制度の維持に専心している感じです。だから、先生が夏休みでも休まずに学校に行くというバカな話になる。子供がいないのになぜ学校に行くのかという疑問を誰も呈さない。

【藻谷】生徒が休みだからと言って先生が休んでいるのはずるい、といわれるから出勤することにしようとかだとすると、正に教育そのものではなく制度の維持が主眼になっていますね。

【養老】そう、税金泥棒と言われるから登校しているとかね。僕が入った中学校はできて4年目でしたから、学校の敷地の整備に子供たちが取り組みました。教育にはそういうことが大事なのではないかと思いますね。

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養老 孟司(ようろう・たけし)
解剖学者、東京大学名誉教授
1937年、神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学名誉教授。医学博士。解剖学者。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。95年、東京大学医学部教授を退官後は、北里大学教授、大正大学客員教授を歴任。京都国際マンガミュージアム名誉館長。89年、『からだの見方』(筑摩書房)でサントリー学芸賞を受賞。著書に、毎日出版文化賞特別賞を受賞し、447万部のベストセラーとなった『バカの壁』(新潮新書)のほか、『唯脳論』(青土社・ちくま学芸文庫)、『超バカの壁』『「自分」の壁』『遺言。』(以上、新潮新書)、伊集院光との共著『世間とズレちゃうのはしょうがない』(PHP研究所)、『子どもが心配』(PHP研究所)など多数。

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藻谷 浩介(もたに・こうすけ)
日本総合研究所調査部主席研究員
1964年、山口県生まれ。東京大学法学部卒。日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)などを経て現職。日本全国のほとんどの町を歩いて回り、地域活性化やまちづくりのあり方を提言している。著書に『里山資本主義』など。

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(解剖学者、東京大学名誉教授 養老 孟司、日本総合研究所調査部主席研究員 藻谷 浩介)

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