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医学部に進む理由は「偏差値が高いから」…元東大教授・養老孟司がみた「日本型エリート」の本末転倒

プレジデントオンライン / 2023年4月21日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mizoula

この数年、医学部の人気が高まっている。東京大学名誉教授の養老孟司さんは「偏差値が高いという理由で医学部を選ぶ学生が多いのだろう。それでは本末転倒だ」という。エコノミストの藻谷浩介さんとの対談を収録した『日本の進む道』(毎日新聞出版)から一部を紹介する――。

■いい教育とは教育しないこと

【藻谷】何だか論語の問答みたいになってきましたが、先生のお名前は孟子にちなんでいるわけですから、弟子になった気分でどんどん聞きます。先生は、いい教育とは何だと思われますか。

【養老】小学生くらいなら何もしないことですよ。有機農業の不耕起と同じようにやったほうがいい。高等教育についても「教育」しないことです。東大の伝統は結局は「自分でやれ」と言うことです。モチベーションのある人が自分でやる、それを周りが手助けする。それだけですよ。

学校は、基本的に子供に好きなことをさせる場にして、大人は見守るだけでいい。「この学年ではこれを覚えなさい」なんてナンセンスだと思います。

【藻谷】たしかに、皆で同時に同じことを習って同時に覚えると褒められ、どうせあとで完全に忘れてしまうのにそのときには責められない。これでは何一つ血肉として定着しませんよね。

私は、当時はお受験勉強が盛んではなかった田舎で育ったために、そのころは受験に出ることのなかった日本地理や英会話やディベートの類に好きに注力できた幸運な人間でして、それがその後にどれだけ役に立ったことかと思うのです。

しかし大学で受けた法学の教育は、まさに同時に覚えて一斉に忘れるの典型で、苦痛でしかありませんでした。教養課程はとても面白かったのですが、専門課程の卒業には1年余計にかかりました。

■偏差値の大学ランキングは意味がない

【藻谷】何でそんな大学のそんな学部に行ったのかと言えば、当時世に登場して間もなかったところの「偏差値」が高い学部であるがゆえに、通るというのであれば通っておけば、そういう数値を絶対視するような連中にも後々足元を見られずに済むだろう、という実に受動的な考えからでした。

その後ますます社会に深く浸透している、受験時の偏差値によるランキングはどう思われますか。

【養老】全く意味がないですね。あれは、いまの大学システム――同じ大学に入りたい人をどうやって選別するかという問題が生じてしまったために便宜的にやっているだけでしょう。だから僕は、現役の時に入学試験を通ったら卒業証書を出せと言っていました。そうすれば、本当に勉強したい学生だけがお金を払って残りの4年間学びますから。

【藻谷】卒業証書だけ欲しい人は入学したらすぐにもらう! それでも勉強したい人だけが残って勉強しなさいと。最高の皮肉のようにも聞こえますが、圧倒的に偏差値の高い東大医学部でずっと教授をされていた上でのご実感であり、つまり真実をついている。

私も、偏差値が基準の大学名で人を判断することは、本当に一切しないで生きています。ですが世の大半の人は、教育の主目的を偏差値による能力のランクづけみたいに思っている。

【養老】そう、それが日本的な教育の在り方だと思います。

■東大医学部には医学に興味のない学生がいっぱいいた

【藻谷】日本のいろいろな地域の親、特にお母さんたちと話していて、いちばん認識が時代遅れだと感じているのは教育の話です。東大医学部で、偏差値だけは高い困った学生といっぱい向き合ってきた養老先生が、どういう認識でおられるかなんていうことに、彼らは興味はない。それこそ入学と同時に卒業証書を持って帰ってきたら、そんな親御さんたちは大喜びで、「東大に行ってよかった」なんて言うのでしょうね。

【養老】大学で新たに医学を学ぶモチベーションがなくても、偏差値が高かったからというだけで入学してくる学生はいっぱいいますから。

【藻谷】偏差値が高いだけで、大学で学ぶモチベーションがなければ、大学に来る意味はないはず。なのに日本の教育は、そういう生徒を「優秀」として選抜してしまう。自分がそうだったのを棚に上げて言いますが、これでは本末転倒ですね。

【養老】そうです。

【藻谷】入試の時点でモチベーションがなくて、あとから急に湧いてくる人もいますが、それが専門課程に進学する時点だとは全く限らない。

【養老】そういう人はその時に勉強を始めればいい。

【藻谷】そうですよね。僕は、子供をいい大学に行かせようと言っている親には「そうではなく、あなたが行けばいいのに」と言っています。いま、あなたがそういう気になったのならあなたが勉強すればいい。実際に、いわゆる「いい大学」にも、社会人入学のコースはいろいろありますから。

養老孟司さん・藻谷浩介さん
写真提供=毎日新聞出版
養老孟司さん(右)・藻谷浩介さん(左) - 写真提供=毎日新聞出版

■「みんなで考える教育」に対する違和感

【藻谷】まあそうはいっても、子供に幼いころから受験をさせて、学歴エリートにしようとする親御さんは、エリートになるとよほどいいことがあると信じているのでしょう。いや、エリートになれないとよほど損すると信じているのかな。

そう言っている本人には、よほど損したという自覚があるのでしょうか。よく成功した芸能人が子供にお受験させるという話がありますが、年間数千人も卒業する東大生の中で、その芸能人ほど成功する人が何%いると思っているのでしょうか。

日本のどこかの「エリート校」でも行われているという「エリート教育」とは、いったい何なのでしょう。西洋でエリートと言えば「自分で考えて判断し、自分の責任で行動する人」だと思いますが、日本もそういう人を教育しようとしていると、言っている人もいますね。

【養老】それは嘘ですよ、全部違います。私はさきほどお話しした、髙橋秀実さんの『道徳教育』(ポプラ社)をみんなに薦めていますが、彼は、戦後の日本の教育――特に道徳教育は「みんなで考えましょう」というフレーズがよく出てくると書いています。

小さいときから「みんなで考えましょう」とやってきました。でも、どうやってみんなで考えるのでしょうか(笑)。僕は「考える」というのは一人でやることだと思っていますから、「みんなで考えましょう」には引っかかります。

■「地震待ち」という日本人の悪癖

【藻谷】全くその通りですね! 日本の会議だとかパネルだとか、問題提起の報道番組だとか、どれもこれも結論が「みんなで考えましょう」で終わることが、異常なまでに多い。英語で言えば“Let us think together”ですか。英語圏では逆に、一切聞いたことがないフレーズですね。

同じみんなで考えるにしても、「みんなでどうやって考えるんだよ」と脳科学者がおっしゃっていたことについて、考えたほうが良さそうです(笑)。

【養老】「みんなで考える教育」を受けてくると「俺は知らない」ということになります。

【藻谷】なるほど、みんなが考えるわけですから、一人一人は考えなくていいことになりますね。各人の考えは、どのみちみんなの考えではないし。

【養老】そう、そちらに働いていきます。さらに「自分で考えないでみんなに合わせましょう」ということにもなります。特に自分が関心のない話題についてはそうです。非常に狭い日常が現実になっていて、そこに出てこない問題は「俺は知らない」となってしまう。

だから私は「地震待ち」だと言っているわけです。「俺の食い物がない」という現実に直面しないと、本気で自分で考えようとしませんから。

渋谷
写真=iStock.com/CHUNYIP WONG
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/CHUNYIP WONG

■考えても役に立たない結論しか出てこない

【藻谷】「みんなで考えよう」って、「自分は考えられないので、誰か指示してください」というのと同じです。これって、ハラリ教授の言う「虚構の共有」(第1章参照)の最終形態ですね。

そもそも「みんなで考える」と、あまりに先入観通りの、役に立たない結論しか出てこないというのが実感です。考えるだけで行動にもつながらない。

ですが、結論部分が「みんなで考えよう」となっているような論文なんていうのも、日本では多々実在している印象があります。大学の先生方は学問の修業、博士課程などの間に「みんなで考える」ようになってしまうのでしょうか。

【養老】もっと小さいときからじゃないですか。

【藻谷】困ったことに、「みんなで考えている人たち」には、みんなで考えていることと違う現実が起きたときに、現実の方が頭ごなしに否定する傾向があります。前にも触れた通り、アベノミクスは日本のGDP(世界共通基準たるドル換算)を2割減らしたのですが、日本では与野党問わず「アベノミクスで経済は曲がりなりにも成長した」と「みんなで考えている」ので、誰もその事実に気づく気配すらない。

「みんなでやる」ならいいですし、「みんなで事実を確認し認識を共有する」のでもいいですが、「みんなで考える」のは時間の無駄でしかない。これは戦前からそうなんでしょうか。

■まるでイワシの群れのようだ

【養老】たぶんそうでしょうね、いまの自民党がそうですから。

【藻谷】おっしゃっていた通り、自民党は「みんなで考える党」ですからね。

【養老】そうです。

【藻谷】「みんなで考えて」と言いながら実際にやっているのは、横目で他人を見ながら横並びで、目の前のことに条件反射すること。

その際に考えているのは、「みんな」とのつかず離れずのペース合わせだけ。それが「考える」ということなら、横にいる仲間の動きに瞬時に合わせる習性のあるイワシの群れなんて最高によく考えていることになりますが、とにかくそれを繰り返して、日本はかなりうまくやってきました。

ですが、関東大震災の時に皆と同じように陸軍被服廠の跡地に大八車に家財を積んで避難して、そこで数万人が一緒に焼死してしまったというようなことも起きている。

その教訓を踏まえて、みんなで考えるのではなく、どう動くかを自分で考えて、判断して、行動をせねばなりませんね。

【養老】それは当然です。

【藻谷】「自分で考える」といいながら、ネットの偏った意見に左右されているだけの人も多いですね。これも形を変えた「みんな(=見解を共にする仲間内)」で考える」です。

みんなで考えている人にとっては、みんなが「あそこにあるぞ」と言えばなかったものでもあることになるし、みんなが「あそこにはない」というと、あるものが見えなくなってしまう。

コロナウイルス騒動が典型でしたが、何が事実で何が勘違いなのかが自分で認識できず、みんながどう言っているかという認識しかできない。

みなが気づくまで気づかず、みなが気づいた瞬間に自分も……。

■当たり前のことが当たり前でないと気づくために「学び」が必要

【養老】「俺も考えていた」と言い出します。

【藻谷】それも日本の「みんなで」の教育のせいなのか、日本はそもそもそういう国だから教育もそうなっているのでしょうか。後者なんでしょうね。ですから根は深い。無意味だとわかっていても、またみんなで考えてしまう。

養老孟司、藻谷浩介『日本の進む道 成長とは何だったのか』(毎日新聞出版)
養老孟司、藻谷浩介『日本の進む道 成長とは何だったのか』(毎日新聞出版)

【養老】そうならないためには、身体を使うことが大切です。ガスや電気が止まったときに火を起こせるのか。トイレがないときにどうやって穴を掘るのかとか。そういうことから「学び」は始まります。だから、都市化が進み、身体を動かして経験することが軽視されている風潮は危険だと思います。

僕は小学校2年生で終戦を迎えて、それまでの常識が180度変わりました。僕は組織や国の言うことを信じてはいけないと身に染みてわかっています。以来、教科書も当てにしません。当時は本もなければ、紙もありません。食べものにも事欠く中で「学び」とは生きるために必要なものでした。

日常生活で見過ごされているような当たり前のことは、案外、複雑にできているものです。当たり前のことが当たり前でないと気づくためには、学ばなければいけません。

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養老 孟司(ようろう・たけし)
解剖学者、東京大学名誉教授
1937年、神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学名誉教授。医学博士。解剖学者。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。95年、東京大学医学部教授を退官後は、北里大学教授、大正大学客員教授を歴任。京都国際マンガミュージアム名誉館長。89年、『からだの見方』(筑摩書房)でサントリー学芸賞を受賞。著書に、毎日出版文化賞特別賞を受賞し、447万部のベストセラーとなった『バカの壁』(新潮新書)のほか、『唯脳論』(青土社・ちくま学芸文庫)、『超バカの壁』『「自分」の壁』『遺言。』(以上、新潮新書)、伊集院光との共著『世間とズレちゃうのはしょうがない』(PHP研究所)、『子どもが心配』(PHP研究所)など多数。

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藻谷 浩介(もたに・こうすけ)
日本総合研究所調査部主席研究員
1964年、山口県生まれ。東京大学法学部卒。日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)などを経て現職。日本全国のほとんどの町を歩いて回り、地域活性化やまちづくりのあり方を提言している。著書に『里山資本主義』など。

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(解剖学者、東京大学名誉教授 養老 孟司、日本総合研究所調査部主席研究員 藻谷 浩介)

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