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NHK大河ドラマは史実とはあまりに違う…最新研究でわかった徳川家康と正妻・築山殿の本当の夫婦関係

プレジデントオンライン / 2023年4月23日 13時15分

徳川家康(左)と築山殿の肖像(図版左=狩野探幽筆/大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons、図版右=西来院蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

徳川家康と正室・築山殿の夫婦関係はどんなものだったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「家康は正室と同居することを拒み、築山殿も家康に強い恨みと嫉妬心を抱いていた。決して大河ドラマのように仲睦まじい夫婦ではなかった」という――。

■決してラブラブではなかった夫婦関係

現在までのところ、徳川家康と正室の築山殿はとても仲睦まじい。ラブラブだといっても差し支えない。NHK大河ドラマ「どうする家康」での話である(ドラマ内での築山殿の呼び名は瀬名)。

家康は終始、築山殿に気をつかい、その背景に彼女への深い愛情があると感じられるので、視聴していて微笑ましい。2人の関係が崩れずにいてほしい、と願ってしまう。

だが、そんな描き方が史実の2人とかけ離れているとしたら、それはそれで興ざめではないだろうか。大河ドラマはフィクションかもしれないが、一定の史実をもとにしていることはNHKも認めている。実際、脚色こそされていても、おおむね史実を踏まえているというのが、多くの視聴者の認識であり、期待するところではないだろうか。

さて、築山殿だが、彼女についてわかっていることは、さほど多くはない。しかし、限られた史料と、さまざまな歴史的状況から勘案するに、家康との関係がラブラブだったとは、とても思えないのである。彼女の来歴をたどりながら、家康との関係性について、推察もまじえて記してみたい。

■本当の名前は誰にもわからない

家康(元信から元康、家康と改名するが、ここでは家康に統一する)が築山殿と結婚したのは、弘治2年(1556)正月だったとされる。家康が15歳、築山殿も15~17歳ぐらいだったようだ。

築山殿とは、『松平記』をはじめとする江戸時代の複数の史料によれば、彼女が住んでいた場所に由来する呼び名で、じつは、実名はわかっていない。「瀬名」と呼ばれていたことを示す史料も存在しない。

父親は今川義元の重臣の関口氏純。以前は、築山殿は今川義元の姪だといわれることが多かったが、現実には、義元の娘婿だったのは関口氏純の兄の瀬名貞綱で、兄弟が混同され、誤解が生じたらしい。

とはいえ、関口家は今川家の親族で家臣団のなかでも家格が高く、その娘を娶ったということは、家康もいわば今川家の親族衆として、尾張の織田家に対抗することが求められていたということになる。むろん、家康もそれを受け入れていたはずである。

だから結婚した当時、駿府で暮らしていた家康と築山殿は、本当にラブラブだったのかもしれない。事実、永禄2年(1559)3月に長男の信康(幼名は竹千代)が、おそらく翌永禄3年には長女の亀姫が産まれている。

■「瀬名奪還作戦」はなかった

しかし、永禄3年(1560)6月の桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を斃すと、この夫婦をめぐる状況も大きく変わっていった。

家康は本来の居城である岡崎城に入って、駿府には戻らなかった。もっとも、それにまつわる事情は、近年、研究が進んでこれまでの通説が否定されていることも多いので、有力な新説にもとづいて記したい。

まず、家康は義元の嫡男の今川氏真に、すぐに反旗を翻したわけではなかった。当初は今川に逆らっての岡崎入城ではなく、家康の岡崎入りを氏真も了承していたようなのだ。したがって、築山殿と亀姫は駿府に残されず、すぐに岡崎に移った可能性が高い。

「どうする家康」では、2年後の永禄5年(1562)、生け捕りにした鵜殿長照の2人の息子と交換に、家康が妻および長男と長女を、今川氏真のもとから奪還する場面が描かれた(第5回「瀬名奪還作戦」2月5日放送)。ところが、このとき奪還したのは長男の竹千代(のちの信康)だけだった、というのである。

また、これまでは家康が築山殿らを奪還したのち、彼女の父の関口氏純は切腹させられたため、築山殿は家康を深く恨んだ、と語られることが多かった。ところが、氏純は所領の一部を奪われはしたものの、少なくとも永禄9年(1566)までは生きていたことが確認されている。

だが、いくら通説が否定されても、家康と築山殿が不仲だったことを否定する材料としては不足がある。

■なぜ一緒に暮らさないのか

前述したように、築山殿とは彼女が住んでいた場所に由来する呼び名で、たとえば『松平記』には「彼の御娘家康の御前は三河へ御座候て、つき山と申す所に御座候、是をつき山殿と申し奉るなり」と記されている。

要するに、駿府から岡崎に移った家康の正室は、岡崎城には入らず、城外の築山という場所に住んだので築山殿と呼ばれた、というのだ。

これをどう解釈すべきだろうか。三河の領主であるとはいえ、事実上、今川家に従属していた家康よりも、今川のいわば家門の娘である築山殿のほうが格上だったので、城とは別の場所に屋敷が用意された、という見方はある。が、一方で、家康が彼女を城内に入れずに城外の屋敷に住まわせた、という見方もある。

当初は今川氏真の了解のもとだったとしても、本拠地の岡崎に帰った家康にとって、今川の重臣の娘がそれほど格上としてあつかうべき対象だっただろうか。やはり、領国を統治する中核である居城に正室の居場所がない、ということへの違和感のほうが強い。

■私の父は家康のせいで死んだ

ドラマでは、最初のうちは築山殿が岡崎城内にいて、彼女が築山に移ってからは、家康が頻繁に訪問している。しかし、築山殿が岡崎城内で暮らした記録はなく、家康が築山を訪ねたという記録もない。

そして不可解なのは、岡崎時代に家康と築山殿とのあいだに子供が1人も生まれていないことである。

駿府時代に2人の子が産まれているのだから、交渉があれば、その後も生まれて不思議はない。ところが、岡崎ですごした10年間に築山殿は子を1人ももうけていない。

家康は生涯に16人の子をもうけており、子供ができやすいタイプだったはずなのに、である。家康と築山殿の関係が冷えていて、交流も交渉もなかったからだと考えるのが自然ではないだろうか。この間、ほかの女性にもあまり手を出した形跡がない。それでも築山殿を遠ざけていたのだから、よほど仲が悪かったということだろうか。

築山殿は生まれてこの方、ずっと今川家の庇護下にあった。ところが、夫の家康はその今川家を敵に回し、結果として、築山殿は今川家とも実家とも絶縁状態になり、そのせいで父親は、すぐには切腹させられなかったにせよ、追い詰められることになった。

こうした状況は戦国の常だとはいえ、築山殿が家康を恨む動機に事欠かなかったのもたしかだろう。『松平記』にも築山殿の思いとして「我父ハ家康の為に命失ひし人」と記されている。

浜松城天守閣
浜松城天守閣(写真=SHIZUOKACITYperson/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

■「御嫉妬はなはだしく」

そして、元亀元年(1570)9月、家康が浜松城に移っても築山殿は岡崎に残り、以後、この夫婦は生涯、別居することになる。

そのころ家康の長男の信康は、すでに信長の長女の五徳と結婚していた。そして家康が浜松に移る際、信康は岡崎に残ることになった。ドラマでは、築山殿は息子夫婦の仲が悪いのが心配で、見守るためにあえて岡崎に残る、という描き方になるようだ。

しかし、築山殿は曲がりなりにも家康の正室である。あらたな本拠に同行させてもらえなかったことに、彼女は不満を超えて屈辱を味わったとしてもおかしくない。

事実、家康は浜松に移ってから、側室とのあいだに子供をもうけるようになった。天正2年(1574)に次男の秀康、翌3年(1575)には次女の督姫が産まれている(ドラマでは篤姫は岡崎時代に生まれていたが、現在ではその10年後だったとされている。 黒田基樹『戦国大名・北条氏直』など)。

それに対して「築山殿の御嫉妬甚だしく」と記された史料もある(『中村家御由緒書』)。秀康を生んだのは、永見淡路守(三河知立神社の神主)の娘で、お万と名乗ったようだ。だが、浜松城に住むことは許されず、理由は築山殿の嫉妬だという。

■夫を裏切り武田と内通したワケ

家康から目をかけてもらえない築山殿がどんどん不満を募らせ、その嫉妬心が息子夫婦にまで向けられたという旨は、『松平記』にも記されている。

その挙げ句、武田方と内通し、信康を担いで謀反を起こそうとたくらんだ。それ自体は史実だと認識されている。そのことが、五徳が父親の信長に送った手紙から発覚し、天正7年(1579)9月、信康が切腹を命じられる信康事件に発展。それに先立って、築山殿も殺され、首を切られている。

家康にすれば、今川に逆心を起こしたのは、領国を守るために必要な判断だった。歴史もそれを証明している。一方、妻にとってはその選択が、あまりにも理不尽であったこともまた事実だろう。

この夫婦に仲睦まじい時期があったとすれば、駿府時代にかぎられるのではないだろうか。どの角度から検証しても、夫婦関係は冷めきっていたとしか考えられないのである。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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