日本は東西分裂する寸前だった…関ヶ原の戦いを「国家再建の政策をめぐる戦い」と捉え直すべき理由
プレジデントオンライン / 2023年4月21日 14時15分
■戦国の争乱は南蛮貿易なしでは成立しない
関ヶ原の戦いの意味を知るためには、戦国時代とはどんな時代であったかを正確にとらえ直す必要がある。
従来は鎖国史観にとらわれていたために、戦国の争乱を国内的な視野だけで解釈してきた。ところが最近では鉄砲に使う硝石(火薬の原料)も鉛(弾の原料)も、大半は海外からの輸入に依存していたことが明らかになった。
織田信長は鉄砲の大量使用によって天下を取った(取ろうとした)と当たり前のように言われてきたが、鉄砲を使うために必要な硝石や鉛をどうやって入手したかという視点はすっぽりと抜け落ちていた。
ところが近年、この二つが輸入に頼っていたことが明らかになったために、戦国の争乱を鎖国史観で語ることは完全に無意味になった。そしてこの二つが主に南蛮貿易によって入手されていたことも分ったために、ポルトガルやスペイン、そして両国との仲介役を務めたイエズス会の存在がきわめて重要視されるようになった。
戦国時代は大航海時代というグローバル化の大波の影響を抜きにしては語れないことが明確になったのである。南蛮貿易の相手国は、初めはマカオに拠点をおくポルトガルで、イエズス会はポルトガルのために外交官と商社マンの役割をはたした。
![「南蛮人渡来図」](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/f/6/1200wm/img_f6f7cf610d2a03b674f198672ffd2f9e402596.jpg)
■世界は日本の金銀、硫黄を欲しがった
イエズス会の仲介がなければ南蛮貿易に参入できず、硝石や鉛を入手できない。西国(特に九州)の多くの大名が競うようにキリシタン大名になったのは、信仰の魅力ばかりではなくこうした現実的な問題もあった。
南蛮貿易における日本の最大の輸出品は金や銀だった。石見銀山、生野銀山などで生産された純度の高い銀は世界の垂涎(すいぜん)の的になり、日本にシルバーラッシュをもたらした。
次に重要なのは硫黄である。これも火薬の原料として欠かせないものだが、東アジアには良質の硫黄はあまり産出しない。そのため植民地獲得競争をくり広げていたポルトガルやスペインなどは、日本の硫黄を喉から手が出るほど欲しがった。
こうした貿易の活発化によって日本もグローバル化に参入していったが、そのために国内でも大きな変化が起こった。ひとつは商品と貨幣の流通量が飛躍的に増大し、経済の中心を商人や流通業者が担うようになったことだ。
もう一つは農本主義的な制度だった室町幕府の守護領国制が崩解し、商業、流通を現地で支配していた戦国大名が台頭してきたことである。
■安土桃山時代は空前の高度経済成長期
その結果、日本は空前の高度経済成長期を迎えることになった。それを象徴するのが安土城を初めとする城の建築ラッシュであり、絢爛(けんらん)豪華な安土桃山文化である。
室町時代は農本主義、分権主義が主流であり、戦国時代は重商主義、中央集権主義が主流となった。その路線を突き進んだのが信長であり、受け継いで完成させたのが秀吉だった。
![重要文化財「豊臣秀吉像」(部分)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/e/0/1200wm/img_e07bcd482963d7cef66bf7184ca4c74b401556.jpg)
ところが重商主義は海外に市場を求め、中央集権主義は国内の矛盾をそらすために植民地を獲得しようという欲求に駆られがちである。秀吉も同じで、朝鮮半島ばかりか明国まで支配しようとしたが、文禄・慶長の役は失敗に終わり、日本は国家再建に向けて動き出さざるを得なくなった。
これは明治政府が海外侵攻政策を取り、昭和20年の敗戦を迎えたのと同じ構図であり、秀吉の後を担った徳川家康や石田三成たちは、日本をどう再建するかという重い課題に直面することになった。
■関ヶ原の戦いは国家再建の正念場だった
三成ら豊臣家の官僚は、豊臣政権の重商主義、中央集権政策を修正した上で継続しようとし、これには南蛮貿易の利益にあずかることができる西国大名の多くが参同した。
ところが東国大名は貿易に参入できる機会は少なく、伝統的に鎌倉・室町幕府の農本主義、地方分権を支持する土壌があった。しかも家康はこうした手法で関東八カ国の再建をはたしている。そこでこの政策を全国に展開する政策を打ち出し、東国大名の支持を集めた。
つまり関ヶ原の戦いは国家再建の政策をめぐる戦いであり、これに勝った家康が幕藩体制という地方分権、農本主義政策によって、国家の再建に取り組むことになったのである。
2020年9月に放送されたNHK BSプレミアム「大戦国史『激動の日本と世界』」は、海外の研究者の論考をまじえてこうした史観を見事に描いているので、興味のある方はぜひともアーカイブでご覧いただきたい。
こうした史観を土台にして考えれば、大坂の陣が豊臣家を滅ぼすために徳川家が仕掛けた陰険な謀略だという見方は成り立たないことがお分りになるのではないだろうか。
■豊臣家は政権を失ったが、莫大な財力を維持
関ヶ原の戦いに敗れた豊臣政権側の立場に立って考えてみよう。敗戦によって政権を失ったものの、関白家という立場と徳川家の主家に当たるという名分、摂津、河内、和泉三カ国の支配権は確保することができた。
石高にすれば七十万石弱だと言われているが、この土地には石高などでは計れない莫大(ばくだい)な価値があった。国際貿易港である堺と国内交易の要(かなめ)である大坂湾を抱えているからだ。詳しい記録はないが、両港から上がる津料(港湾利用税)と関銭(せきせん)(関税)だけで徳川家に匹敵する収入があったものと思われる。
この有利さを生かすためには、南蛮貿易を維持しなければならない。そのためには前述したようにイエズス会とスペイン(ポルトガルは1580年にスペインに併合されている)との関係を良好に保っておかなければならない。
そこで豊臣家ではイエズス会を優遇し、大坂城下にいくつもの教会を建てさせた。また太陽の沈まぬ帝国と呼ばれたスペインに接近し、幕府に対抗できるだけの軍備をととのえていった。
■家康の「脱海外」を拒んだ秀頼と淀殿
これに対して幕府は、カトリックであるスペインに対抗するためにオランダ、イギリスの新教国に接近していった。オランダ人のヤン・ヨーステン、イギリス人のウィリアム・アダムスを家康が顧問として優遇したのはそのためである。
また朱印船貿易の統制を強化して豊臣家の貿易に制限を加えようとしたが、大坂湾と堺を押さえられているために、どうしても実現することができなかった。
家康は何度も豊臣家に転封を迫り、イエズス会やスペイン、海外貿易から切り離そうとしたが、秀頼と淀殿は頑として応じなかった。
これは幕府が確立しようとしている幕藩体制への反逆でもある。ここに至って家康は豊臣家を排除せざるを得ないと決断し、大坂城包囲網の城郭群を築き始めたのである。
豊臣家とイエズス会の関係を断つためにもキリシタン禁令を強化する必要があったが、このことが逆にキリシタンを豊臣領に追い込み、戦力の増大を招くことになった。大坂冬の陣の直前に10万もの軍勢がわずか1カ月で大坂城に結集したのは、キリシタン武士のネットワークによるものである。
■敗退したキリシタン武士が向かった先は…
この時入城した真田信繁(幸村)もキリシタンだったことは、『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第II期第2巻』(同朋舎出版)に、「もし、(後藤)又兵衛軍が劣勢に立たされているのを見た真田フランコが明石掃部とともに新たな攻撃を仕掛けていなければ、又兵衛軍は打ち負かされてしまっていたことであろう」(210ページ)と記されていることからも明らかである。
![安部龍太郎『徳川家康の大坂城包囲網』(朝日文庫)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/5/a/1200wm/img_5a1799301210b1c5a4d343efe19aab47368038.jpg)
この明石掃部もジョアンの洗礼名を持つキリシタンだし、後藤又兵衛もそうだったことは兵庫県加西市にある菩提(ぼだい)寺(多聞寺)からキリシタン地蔵尊が発掘されたことで確実視されている。加西市の羅漢寺には宣教師の姿を写したと思われる五百羅漢像があるので、大坂の陣の後に多くのキリシタンがこの地に避難してきたのだろう。
なぜここにと疑問に思っていたが、千姫が姫路藩主本多忠政の嫡男忠刻と再婚した時、化粧料として与えられた十万石に加西市も含まれていると知って謎は解けた。千姫がキリシタンであったことは、小石川の伝通院にある千姫の墓にキリシタンの陰符が刻まれていることからも明らかである[詳しくは川島恂二『関東平野の隠れキリシタン』(さきたま出版会)を参照]。
千姫は忠刻に嫁いだ後も信仰を守りつづけ、自分の領地に迫害されたキリシタンを招いて保護したのだろう。千姫が始めた縁切寺(東慶寺と満徳寺)も、キリシタンの女性を保護するためだったという説が有力である。
■家康が大規模な大坂城包囲網を築いた理由
こうした背景を考えれば、家康が伏見城から伊賀上野城に至る大坂城包囲網の城郭群を築いた理由はよく分る。関ヶ原の戦いの後も豊臣家は関白家という権威と巨大な経済力を持ち、イエズス会やスペインの支援を得て、幕府に対抗しようとしていた。
万一対応を過れば、豊臣ゆかりの大名家までが幕府の敵に回り、再び日本を東西に分ける大乱になる恐れがある。それを避けるためには、周到な準備と石橋を叩いて渡るような慎重さが必要だったのである。
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小説家
1955年福岡県生まれ。久留米高専卒。1990年『血の日本史』でデビュー。2005年『天馬、翔ける』で中山義秀文学賞を受賞。主な著作は、『関ヶ原連判状』、『信長燃ゆ』、『生きて候』、『天下布武』、『恋七夜』、『道誉と正成』、『下天を謀る』、『蒼き信長』、『レオン氏郷』など多数。
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(小説家 安部 龍太郎)
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