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江戸幕府に服従するしかない外様大名の"武士の一分"だった…姫路城が「白亜の名城」になった理由

プレジデントオンライン / 2023年4月23日 13時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/miralex

日本三大名城のひとつ、姫路城は現在も築城当時の姿を残している。誰が、なぜこの美しい城を作ったのか。小説家の安部龍太郎さんの著書『徳川家康の大坂城包囲網』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。

■冬の富士山を連想させる白亜の美しい城

数ある城の中でも、姫路城の美しさは際立っている。

あの均整のとれた姿といい規模の大きさといい、400年も前によくぞこれだけのものを作ったものだと、ただ息を吞むばかりである。

白一色にぬられた外壁のせいか、この城の前に立つと雪をいただいた富士山を思い出す。

伊豆半島に住んでいた頃、カラリと晴れた冬の朝には車を飛ばして十国(じっこく)峠に出かけたものだ。峠の真っ正面に白くそびえる富士山は、なだらかな曲線を裾野までのばした優雅で気品にみちた姿をしていて、見飽きることがなかった。

姫路城をながめていると、それとよく似た感動と立ち去りがたさを覚えるのである。

■築城当時の姿を残し、日本初の世界遺産に

この城は名古屋城、熊本城とならんで日本三大名城にかぞえられているが、他の二城と大きくちがうのは築城当時の姿を残していることである。

熊本城は明治10年(1877)の西南戦争で、名古屋城は昭和20年(1945)の空襲によって焼失したが、姫路城ばかりはこうした災禍にあうこともなく今日まで命脈をたもってきた。

その価値は何物にも代えがたいほどで、1993年には日本で初めて世界遺産に登録され、将来にわたって保存する努力がつづけられている。

この城をおとずれた外国人の多くは、「戦争のための要塞が、なぜこれほど美しいのか」と驚嘆するという。

日本人は刀や鎧などの武具にも独特の精神性をこめ、さまざまな意匠をこらして美しく作り上げてきた。姫路城もこうした伝統をふまえてきずかれたものだが、外国人にはその心持ちがいまひとつよく分らないらしい。

■「西国将軍」池田輝政の美学の集大成

むろん政治的にも、大きく美しい城を作る必要があった。

関ヶ原の戦いの後、池田輝政は播磨五十二万石を与えられ、大坂城の豊臣家と西国大名を監視する役目をおわされた。この役目を十全に果たすためには、十数万の大軍に攻められても1年や2年はもちこたえる城をきずかなければならない。

池田輝政
池田輝政(画像=鳥取県立美術館蔵/CC-PD-Mark/PD-Art (PD-old default)/Wikimedia Commons)

軍事的に精巧をきわめているばかりか、他の大名や領民に敵対することの無謀を思い知らせるほど威厳と威勢にみちたものにする必要がある。

輝政がそう考えていたことは明らかだが、単にそれだけならこれほど美しく仕上がるはずがない。あらゆるところに細工をほどこし、時には実用性を無視してまで装飾にこだわったのは、天下一の城をきずこうという輝政の美学があったからだ。

父子合わせて百万石ちかい所領を拝し、世人から「西国将軍」とたたえられた輝政にも、豊臣から徳川へと移り変わっていく時代の流れに翻弄(ほんろう)されているという無念があった。だからこそ誰にも真似のできない見事な城をきずき、戦国武将の意地と誇りを天下に示そうとしたのだろう。

いわば姫路城は輝政の自画像である。かくあれと願った自分のゆるぎのない姿を、彼は丹誠こめて地上に描き上げていった。

だからこそこの白亜の城は、我々の胸にかくも切々と訴えかけるものを持っているのである。

■秀吉の養子となり、家康の娘と結婚

関ヶ原の戦いに勝った家康は、次女督姫(とくひめ)の夫である池田輝政に五十二万石を与えてこの地に配し、大坂城の豊臣家と西国大名の反乱にそなえさせた。

輝政はもともと秀吉と深い関係を持っていた。

本能寺の変が起こった時、秀吉は池田恒興(輝政の父)を身方にするために、輝政を自分の養子にすると約束した。そのために輝政は秀吉政権内で特別の地位を与えられ、後に豊臣の姓をたまわったのである。

2年後に小牧・長久手の戦いが起こった時、恒興は秀吉方となって出陣したが、家康軍との戦いで嫡男元助とともに討死した。そのために輝政が父の遺領である美濃を受けつぎ、岐阜城主となったのだった。

家康の娘督姫をめとったのは、秀吉にすすめられたからである。督姫は北条氏直にとついでいたが、小田原の役で北条氏が亡んだ後は実家にもどっていた。徳川家との関係を強化したい秀吉は、輝政の嫁に督姫をむかえることで家康の歓心を買おうとしたのである。

婚礼は文禄3年(1594)8月15日で、輝政は31歳、督姫は30歳だった。

■秀吉が築いた姫路城下を改修することに

秀吉の死後、輝政は加藤清正ら武断派の大名と行動をともにし、関ヶ原の戦いでは東軍に属した。その功により三河吉田十五万石から、播磨一国五十二万石の大名に抜擢された。しかもその3年後には、督姫が産んだ忠継(当時五歳)の名儀で備前二十八万石を加増されたのである。

播磨に入った輝政は、さっそく姫路城の改修に着手した。

まず手をつけたのは、城域と城下町の整備である。秀吉がきずいた城は城郭としては完成度の高いものだったが、十数万人の敵を引き受けて籠城できるほどの規模ではなかった。

また城下町も城の北東に片寄っていて、山陽道の交通や瀬戸内海の水運の利を城下に取り込むには不便だった。

そこで輝政は城域を大きく広げ、本丸の外に中曲輪(なかくるわ)、外曲輪をきずいて内堀、中堀、外堀を配したが、その総延長は11.52キロにもおよんだ。

堀の広さは平均でおよそ20メートル、深さは2.7メートルもある。その工事だけでもたいへんな労力と費用がかかったはずだが、輝政は同時に城下町の建設にも着手した。

■幕府は天守や本丸を新築するよう強要

北東に片寄っていた町を南に移し、山陽道や瀬戸内海とのつながりを強化したのである。しかも驚いたことに、直線の道路を碁盤の目のように配し、交通や経済の利便性をはかる大胆な町づくりを行なった。

現在JR姫路駅から姫路城まで、広々とした大手前通りが一直線につづいている。これは近年になって整備されたものだが、その土台となる都市計画はすでに輝政の頃になされていた。

兵庫県姫路市にある姫路城周辺の航空写真
兵庫県姫路市にある姫路城周辺の航空写真[写真=国土地理院(CKK20102-C12-68)/Naokijp/AerialPhotograph-mlitJP/Wikimedia Commons]

しかも瀬戸内海の飾磨(しかま)港まで運河を掘り、船を城下に引き入れるという雄大な構想さえ持っていた。

おそらく輝政は城域と城下町の整備に全力をかたむけ、本丸や天守閣は秀吉時代のものを使えばいいと考えていたのだろう。本丸をきずき直しては家臣や領民に過重な負担をかけるし、これからの籠城戦は城下一体となって戦わなければ守り抜けないことを熟知していたからだ。

ところが入封9年目の慶長13年(1608)になって、幕府から天守閣も新しくきずくようにという命令が来た。『池水記』に〈今年輝政公台命を承って姫路城を再営し給い、天守を建て、外郭を広くし〉と記されている通り、天守や本丸の建設は幕府から強要されたものだったのである。

■休む間もなくこき使われ、経費は自分持ち

45歳という分別ざかりの輝政は、きわめて不満だったにちがいない。自分の統治権に対する不当な干渉と感じただろうし、相つぐ手伝い普請のために財政は逼迫していたからだ。

この前後に、輝政が駆り出された普請は次の通りである。

慶長6年8月 二条城の築城
〃 8年2月 江戸城の修築
〃 10年4月 内裏修造
〃 12年1月 駿府城の築城
〃 13年4月 丹波篠山城の築城
〃 15年2月 名古屋城の築城

まさに休む間もなくこき使われている。しかも工費や人件費は自分持ちなのだから、負担の大きさははかり知れないほどだった。

困窮の度合いはどの大名も同じで、名古屋城の手伝い普請の時、次のようなやり取りがあったと『慶長見聞記』は伝えている。

輝政と築城現場で顔を合わせた福島正則は、「近年城の普請が多すぎる。江戸や駿府は仕方がないが、名古屋は大御所の庶子の住居ではないか。その工事に我らが再三駆使されるのは耐え難い。御辺(ごへん)は大御所の愛婿じゃ。我らのためにこのことを愁訴してはくれまいか」

不平まじりに頼み込んだ。

■幕府の言いなりにならざるを得なかった

輝政が何とも答えられずにいると、横から加藤清正が、「御辺は卒爾(そつじ)なことを言うものじゃ。今城普請に耐えられねば、すみやかに帰国して謀叛するがよい。もし謀叛ができぬのなら、早々に大御所の下知(げち)に任せ、普請に従わねばなるまい」

笑いながらたしなめたので、その場は丸くおさまったという。

この話からは、戦国生き残りの大名たちのやる瀬なさが伝わってくる。関ヶ原の戦いで家康に身方して大封を得たものの、徐々に牙を抜かれ爪をそがれ幕府の言いなりにならざるを得なくなっていく。

しかも豊臣家を亡ぼそうとする家康の意図は明白なのだから、彼らの胸中はいっそう複雑だったにちがいない。

そうした状況で天守閣をきずけと命じられたのである。輝政の我慢の糸はプチッと切れただろうが、家康から百万石ちかい所領を与えられた身であれば、命令に逆らうこともできなかった。

「それなら見ていろ。誰にも真似のできない見事な城をきずいて、世の者たちのど肝を抜いてやる」

輝政は内向した攻撃心に突き動かされ、意匠と技術の粋をつくして天守閣をきずくことにした。

それが武士の一分をつらぬくただひとつの方法だと思い定め、全身全霊をかたむけて工事に取り組んだのである。

■外様大名は用済みになればお払い箱

そのおかげで姫路城はかくも美しく仕上がったのだが、やはり無理がたたったのだろう。輝政はそれから5年後に中風をわずらい、50歳という若さで他界した。

城の完成を見ることは、ついに出来なかったのである。

輝政が他界した2年後、家康は大坂の陣を起こして豊臣家を亡ぼした。さらに2年後の元和3年(1617)、池田家は当主が幼少なことを理由に鳥取三十二万石に移封される。

外様大名は働くだけ働かせ、用済みになればお払い箱にするのが、この頃の幕府の非情な方針だったのである。

■姫路城だけは美しい姿を保ちつづけている

代って城主となったのは、徳川家譜代の本多忠政(忠勝の子)だった。忠政の嫡男忠刻は、大坂城から逃れた千姫を妻としてこの城に住んだ。

この頃千姫が使用した部屋が、西の丸北端の化粧櫓(やぐら)にのこっている。千姫は毎朝この部屋をたずね、城外の男山八幡宮を拝して秀頼の冥福を祈ったという。

安部龍太郎『徳川家康の大坂城包囲網』(朝日文庫)
安部龍太郎『徳川家康の大坂城包囲網』(朝日文庫)

一人だけ生き残って幸せになったことが後ろめたかったのだろうが、やがて千姫に二度目の不幸がおとずれる。結婚後10年目に忠刻は死に、30歳にして江戸城の父秀忠のもとにもどらざるを得なくなったのである。

人は歴史のうつろいの中でさまざまな悲喜劇を演じ、やがて不帰の客となっていく。

秀吉も家康も、そして池田輝政も例外ではないが、姫路城だけは今も美しい姿を保ち、世界中の人々を魅了しつづけている。

天守閣を正面から見上げると、鎧兜に身をかためた輝政が、天下を睥睨(へいげい)するようにどっしりと座っている姿に見える。そう感じるのは、筆者(わたし)だけだろうか?

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安部 龍太郎(あべ・りゅうたろう)
小説家
1955年福岡県生まれ。久留米高専卒。1990年『血の日本史』でデビュー。2005年『天馬、翔ける』で中山義秀文学賞を受賞。主な著作は、『関ヶ原連判状』、『信長燃ゆ』、『生きて候』、『天下布武』、『恋七夜』、『道誉と正成』、『下天を謀る』、『蒼き信長』、『レオン氏郷』など多数。

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(小説家 安部 龍太郎)

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