「現役引退後も給料がもらえる"古巣"を飛び出す」陸上女子・田中希実が"プロ宣言"で得る報酬とシビアな世界
プレジデントオンライン / 2023年4月22日 11時15分
■陸上女子・田中希実がプロ宣言した意味
2021年夏の東京五輪陸上女子1500mで8位入賞の快挙を果たし、女子1000m、1500m、3000mの日本記録保持者である田中希実(23)がNew Balance(ニューバランス)所属アスリートとして、2023年4月よりプロ選手になることを発表した。これまで実業団の豊田自動織機所属選手として活動してきた田中は記者会見の冒頭でこう話した。
「世界の舞台で戦える選手に近づいてこれたかなという自負はあったのですが、近頃は与えられた環境であったり、自分自身の甘えが目立ってしまうようなレースが増えてきました。私のなかで今までのガムシャラさや、ハングリー精神が失われてきているような気がしています。自分のこうしたいという思いを強固にして、より飛躍した成績を残せるように、この度、ニューバランスさんと今まで以上の強い関係でやっていくことを決意しました」
■田中は特殊な環境で強くなった選手
日本の陸上界は中学、高校、大学と各ステージに大きな大会があり、そこで活躍した選手が社会人(実業団)でも競技を続けるという流れが一般的だ。そのなかで田中は“特殊な環境”で強くなった。
中学時代から全国大会で活躍すると、高校卒業後は同志社大に進学。大学の陸上部ではなく、クラブチームに所属して、実業団経験のある父・田中健智さんから指導を受けるようになったのだ。
そして田中は急成長していく。大学1年時(18年)にU20世界選手権3000mで金メダルを獲得すると、2年時にはドーハ世界陸上5000mに出場。3年時は1500mで日本選手権のタイトルを初めて獲得した。
圧巻だったのが大学4年で迎えた2021年シーズンだ。東京五輪の1500mで快走を連発しただけでなく、800m(2分02秒36)、1500m(3分59秒19)、3000m(8分40秒84)、5000m(14分59秒93)で自己ベストを更新。1500mと3000mは日本記録を塗り替えた。
最も得意な1500mでいえば、ハイレベルだった高校時代のベスト(4分15秒43=高校歴代4位)を大学4年間で16秒も短縮したことになる。
しかし、2022年のシーズンは苦しい1年になった。大学を卒業して、豊田自動織機に所属。日々のトレーニングは、父・健智さんとマン・ツー・マンで行うかたちは変わらなかったが、田中のなかでモチベーションを保つのが難しくなってきたという。
「決定的なことがあったわけではないんですけど、フラストレーションが積み重なってきたんです」
2021年までは勢いのまま突っ走ってきた印象が強かった田中だが、追われる立場になり、レース後の取材でも葛藤を抱えているのが伝わってきた。本人のなかで、ココロとカラダをうまく合わせられないような状況になっていたのかもしれない。
そんな中、2022年7月のオレゴン世界選手権では日本人初の個人3種目に挑戦した。結果は800mが予選6組7着(予選落ち)、1500mは準決勝2組6着(同)、5000mは12位(予選なしの決勝)。東京五輪ほどのインパクトを残すことができなかった。
記録面では5000mで日本歴代4位の14分58秒90をマークするも、800m(2分03秒10)、1500m(4分05秒30)、3000m(8分41秒93)は自己ベストに届かない。1500mは自身が持つ日本記録から6秒も遅れた。
本人のなかで「何か変えないといけない」という気持ちが大きくなり、オレゴン世界選手権から3カ月後にケニア合宿を敢行。2023年2月には世界トップクラスの女子中長距離選手が集まる「チーム・ニューバランス・ボストン」でトレーニングを実施した。新たな刺激が、田中の気持ちを揺さぶったようだ。
田中は1年間在籍した豊田自動織機を3月末付で退社。新たな一歩を踏み出した。
■実業団とプロ選手の違い
春からニューバランス所属のプロ選手になった田中。西脇工高時代は他のチームメイトと同様にアシックスのシューズを着用していたが、大学1年時からニューバランスのサポートを受けている。
なお豊田自動織機は昨季1年間、実業団選手として所属していただけでなく、クラブチーム時代からサポートを受けていた(※大学2~4年時は「豊田自動織機TC」の所属だった)。
今季から豊田自動織機の支援はなくなるが、ニューバランスからはこれまで以上のサポートを受けるようになる。環境面でいうと、実業団選手からプロ選手になったからといって劇的な違いがあるわけではない。
では、陸上選手のプロとは何なのか。実業団との違いはどこにあるのだろうか。
実業団所属というスタイルは日本独自のもので、世界的にはほとんどない。陸上の世界トップクラスの選手はみな各スポーツメーカーと契約を結んでいる。今回の田中と同じスタイルだ。
日本人選手では大迫傑がナイキに所属しているが、実業団に所属している選手でもスポーツメーカーと契約を結んでいるケースは少なくない。
契約金は実力と人気で変わってくる。ウサイン・ボルトのような超スーパースターになれば破格の待遇だが、商品提供がメインという選手も多い。契約金がある場合でも年間、数百万円から数千万円が相場だ。
一方、実業団選手の収入は所属している会社の規定になる。基本的には同年代の一般社員と同額で、なかには競技結果に応じてボーナスを出す会社もある。プロ選手になった田中の年収は一般的な実業団選手の数倍といったところか。
ただし、実業団の場合は競技を引退した後も、正社員として会社に残れるところが大半だ。反対にプロ選手は結果が出なければ、契約を打ち切られてしまう。将来を考えるなら、実業団選手として競技を続けた方が安心といえるだろう。田中は、現役引退しても給料がもらえる可能性が高い“古巣”を思い切って飛び出したわけだ。
スポーツメーカーとの契約にはもうひとつのリスクがある。別メーカーから画期的なギアが登場した場合、それを使用するのが難しくなるのだ。実業団選手のなかには、あえてシューズブランドとは契約せずに、自由にシューズを選べるような対策をとっている者もいる。
そして活動内容も実業団とプロは異なる。日本の実業団の場合は企業名が全面にアピールできる「駅伝」が大きな柱になる。田中も昨年は11月のクイーンズ駅伝(全日本女子実業団駅伝)に出場(1区2位)した。
その点、プロになれば駅伝に出る必要はなく、自分自身で考えて、世界を目指すような活動に集中できる。田中も、「今後はチーム・ニューバランス・ボストンで練習する機会や、ケニアでの練習を増やしていきたい。国内でも実業団、学生、高校という枠組みをすべて取っ払って、こちらから絡んでいったり、逆に絡んでもらったりするのが可能になってくる。国内外問わずいろんな方と縁を結んでいきたいなと思っています」とトレーニング面でも新たな可能性を探っていきたい考えだ。
■プロ選手としての使命
スポーツの世界では結果が重要視されるが、スポーツメーカーと契約した選手はPR力も求められる。ではメーカー側から考えた田中の“価値”はどうなのか。
田中は東京五輪の1500mで8位入賞を果たしているように、日本人選手のなかで世界トップに最も近い中長距離選手といえる。しかし、世界大会は日本代表のユニフォーム(アシックス)を着用するため、NBのロゴが全面に出ることはない(スパイクもテレビで大きく映る機会がほとんどない)。さらに今後は実業団駅伝に出場することはなく、田中の特性を考えると、マラソンまで距離を伸ばして活躍するのは簡単ではないだろう。
田中の存在は現状、市民ランナーに届くほどの訴求力はないかもしれない。しかし、田中のキャラクターは魅力十分。世界選手権に3種目で出場できるようなマルチな能力があり、父娘で世界を目指すストーリーも日本人受けする。今後、世界大会でメダル獲得ともなれば、ニューバランスにとって大きなPRになるのは間違いない。
「世界のトップで戦いたい、というのが一番の目標です。その目標に向かって努力するなかで、いろんな方に影響を与えていきたいですし、陸上界だけでなく、よりたくさんの方の目に留まるような選手になっていきたいなと思ってます」
そう話していた田中は、プロ転向表明直後の4月8日、金栗記念選抜陸上中長距離大会で初レースを迎えた。
メイン種目となる1500mに出場すると、序盤からペースメーカーの後ろにつき、積極的なレースを展開した。しかし、残り200mで、後藤夢(ユニクロ)に抜かされ、4分20秒11の2位という結果に終わった。
「全然良くなかったかなと思います。何で走れなかったのか自分でも全然わからなくて……。自分の走りの発揮の仕方がわからない部分が大きいので、そこをまず思い出すところが課題です」
プロ第一戦目の重圧があったかもしれないが、厳しいスタートになってしまった田中。今夏はブダペスト世界陸上、来夏はパリ五輪、再来年夏は東京世界陸上が控えている。そのなかで“日本のハッサン”(2021年の東京五輪で3つのメダルを獲得したオランダの女子中長距離選手)はどんな進化を遂げるのか。
筆者としては今回のプロ化には賛成だ。実業団選手は中途半端だと感じているからだ。実業団選手は社業の大半が免除され、陸上で結果が出なくても、収入は得られる。一方、「走る」ことが、貧困から抜け出す唯一ともいえる手段になっているケニアやエチオピアの選手と互角に渡り合うには、田中の言う通り「ハングリー精神」がないと難しいだろう。あえて厳しい環境を選んだ田中希実が、さらに強くなっていくことを期待せずにはいられない。
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スポーツライター
1977年、愛知県生まれ。箱根駅伝に出場した経験を生かして、陸上競技・ランニングを中心に取材。現在は、『月刊陸上競技』をはじめ様々なメディアに執筆中。著書に『新・箱根駅伝 5区短縮で変わる勢力図』『東京五輪マラソンで日本がメダルを取るために必要なこと』など。最新刊に『箱根駅伝ノート』(ベストセラーズ)
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(スポーツライター 酒井 政人)
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