閣僚の半数が亡くなり、中央官庁はロックダウン…1300年前の日本で起きた最悪のパンデミックとは
プレジデントオンライン / 2023年4月25日 14時15分
奈良市で開催されている「平城遷都1300年祭」のメーン会場の平城宮跡に復元された朱雀門。午前9時の開門時には、奈良時代の警護を担当していた衛士隊えじたいの儀式が再現されている(2010年4月16日、奈良市) - 写真=時事通信フォト
※本稿は、茂木誠『世界と日本がつながる 感染症の文明史 人類は何を学んだのか』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
■朝鮮半島をめぐる東アジアの合従連衡
そのころ、大陸でも動乱が続いていました。まずは新羅の朝鮮半島統一です。当時の朝鮮半島は、北の高句麗、西の百済、東の新羅が合従連衡(がっしょうれんこう)を繰り返していた朝鮮三国時代にあたります。
基本的には西の百済が日本と組んで、新羅と戦っていたのですが、618年に中国大陸で唐が成立し、高句麗との緊張が高まると、新羅は唐に朝貢して同盟関係を結び、唐・新羅連合軍は660年に百済を攻め滅ぼすことに成功しました。
国を失った百済の王族・貴族が日本に亡命して中大兄皇子に援軍を求め、それに応えて日本は黄海で唐・新羅連合軍と交戦し、惨敗します。これが有名な白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)です。唐の日本遠征を恐れた天智天皇は内陸の近江大津宮(おおつのみや)に遷都し、九州の守りを固めました。
ところが、唐の日本遠征は実現しませんでした。新羅との関係が急速に悪化したからです。百済を滅ぼしたあと、唐・新羅連合軍は高句麗を滅ぼします(668年)。この結果、高句麗という緩衝国家をなくした唐と新羅は国境を接するようになり、朝鮮半島の統一をもくろんだ新羅と、朝鮮半島を支配下に置こうとする唐との対立が激化したのです。「隣国同士は敵」――地政学の鉄則です。
■4カ国は同盟のために使者の派遣を繰り返した
唐は大国であり、新羅単独では勝ち目はありません。そこで新羅は日本に急接近しました。天武天皇5(676)年から称徳天皇6(769)年まで、新羅は遣日本使を36回派遣しています。
一方、日本は大宝2(702)年に遣唐使を再開しますが、朝貢は拒絶して対外的に「日本」という国号と「天皇」という君主の称号を用いました。君主の称号は国内では「スメラミコト」ですが、中国人に理解できるように漢語で「天皇」という称号を採用し、唐の皇帝との対等な関係を主張したのです。
このとき、唐の都・長安では、則天武后(そくてんぶこう)がクーデタで政権を握っており、このゴタゴタに乗じて、旧高句麗領の人々が唐から独立し、「渤海(ぼっかい)」という国を建てていました。もともと渤海は高句麗の末裔(まつえい)ですから、新羅は敵国です。
そこで、新羅の向こう側にある国――日本との同盟関係を求め、渤海王が朝貢使節を奈良・平城京に送ってきます。それを見た新羅は天平7(735)年に日本へ使者を派遣した際、日本への朝貢を廃し、国号を「王城国」に変える、と日本側に通告したため、激怒した日本側はその新羅使を追い返してしまいます。
■大陸への窓口である大宰府管内で天然痘が発生
まさにこの天平7年、大宰府管内で疫病が発生します。公式記録である『続日本紀』には「豌豆瘡(えんどうそう)」と書かれています。エンドウ豆のかたちをした「瘡(かさ)」、すなわち発疹が現れたという意味です。これはほぼ天然痘のことでしょう。
大陸への窓口である大宰府管内で発生したのですから当然、大陸から入ってきたと考えるのが合理的ですが、新羅から入ってきたのか、唐から入ってきたのかはわかりません。新羅使の来航に加え、第9回(第10回とも)の遣唐使が734年末に帰ってきたからです。
同じ時代に唐や新羅で天然痘が流行した記録があるかを調べてみましたが、確認ができませんでした。もしかすると大陸では過去に天然痘の流行が繰り返されていて、人々は免疫を保持しており風土病のようになっていた。だから歴史書への記述が見当たらなかったのかもしれません。
■いったん病原菌が入るとエピデミックになりやすい
一方で日本列島は大陸との接触が少ないために病原体が流入せず、結果として免疫がないので、いったん病原菌が入るとエピデミックになりやすい。マクニールの指摘を引いておきましょう。
(『疫病と世界史(上)』)
6世紀の仏教公伝の時点で、天然痘はすでに日本列島に入っていました。しかし、世代交代やウイルスの変異によって免疫が失われていた可能性があります。ヨーロッパなどの記録によると、同じ感染症が数十年ごとに流行を繰り返していることがわかります。免疫のついた世代が他界し、免疫のない新しい世代が多数派になると、再び大流行が起こるのです。
先に記したように、遣唐使は天智8(669)年を最後に大宝元年までいったん中断しますが、そのあいだは大陸との接触がほぼなかったために、ウイルスが入ってこなかったのではないでしょうか。
■新羅に派遣した使節団の帰国後、都で感染拡大が起こる
豌豆瘡が現れた2年後の天平9(737)年、再び疫病が大宰府を襲います。『続日本紀』は、これを「瘡のできる疫病」と表現しています。2年前の豌豆瘡の免疫が残っていたはずですから、これは天然痘によく似た高熱と発疹を伴う別の感染症、おそらく麻疹(はしか)であったのかもしれません。予防接種が普及したいまでこそ麻疹は子供の病気ですが、かつては死に至る病でした。
「瘡のできる疫病」が猛威を振るいはじめた大宰府。その1年前の天平8(736)年にその地に到着したのが、聖武天皇が新羅に派遣した使節団一行でした。博多湾を出港した一行は新羅に到着しますが、外交使節としての待遇を受けられず、無念の帰国を遂げます。
帰国途中の対馬で、遣新羅大使であった阿倍継麻呂(あべのつぐまろ)が病死しています。さらなる発症者を出しながら一行は帰国しますが、ここから都で感染拡大が起こるのです。
■中央官庁はロックダウンし、政府の機能は停止した
『日本書紀』をまとめた舎人親王が逝去し、当時の太政官(だいじょうかん)――現在の内閣に相当する機関ですが、その“閣僚メンバー”9人のうち藤原4兄弟を含む5人もこの病で亡くなったため、聖武天皇は「政務停止」を命じます。
中央官庁のロックダウン、日本政府の機能停止です。これを恐れて都から地方へ逃れた人々のなかにおそらく保菌者がいたのでしょう、流行は全国に拡大していきます。
これが天平エピデミックです。当時の日本の人口の25〜35%にあたる100万〜150万人が死んだという推計もありますが、おそらく古代日本における最悪の感染拡大です。
(『続日本紀(上)』講談社学術文庫)
■聖武天皇は食料の配給と減税を命じた
聖武天皇は各地の寺社に疫病退散の祈願をさせただけではなく、実効性のある緊急経済政策も実施しています。1つは食料の配給。高齢者、寡婦、独居老人、重病人で自活できない者に対し、役所が必要に応じて物資を支給せよと命じたのです。
もう1つは減税。被害の大きかった九州を統括する大宰府が、管内の諸国で「瘡のできる疫病」が流行し、人民はことごとく病臥(びょうが)しているため、今年度の特産品を納める調(ちょう)の貢納の停止を求める訴えをしました。聖武天皇はこれを認め、1年間を無税とします。翌年には穀物を納める田租も免除しています。
当時の人々はこの災厄について「長屋王の祟り」であり、ゆえに藤原4兄弟が全滅した、と見なしました。そこで、聖武天皇は光明皇后の訴えを聞いて全国に国分寺と国分尼寺を建立させ、さらに国分寺の総本山として東大寺と大仏を、国分尼寺の総本山として法華寺を平城京に建立しました。
■光明皇后は孤児や困窮者を救うための「福祉施設」を開設
奈良の大仏は、疫病を祓う目的で造立されたのです。光明皇后は貧しい病人を救うため、施薬院(せやくいん)を開いて無料で薬を分け与え、孤児や困窮者を救うための悲田院(ひでんいん)――いまでいう福祉施設なども開設しています。
光明皇后、聖武天皇はともに発症を免れましたが、結局、基(もとい)王に代わる世継ぎの男子を得ることはできませんでした。聖武天皇は自身の血統を継がせるため、皇女を皇太子に指名しました。これが孝謙天皇です。
孝謙天皇も長く病気に苦しみ、その介護を通じて権力を握ったのが、怪僧・道鏡(どうきょう)であるとされています。藤原氏の影響力は弱まり、クーデタが繰り返される不安定な政情のまま、やがて平安時代を迎えます。
■「天平の疫病」と同時期に天然痘が大流行したアッバース朝
「天平の疫病」と同時期に天然痘が大流行した国はないかと探したところ、見つかりました。アッバース朝イスラム帝国です。ウマイヤ朝を倒した初代カリフ(最高指導者)のアブー・アル=アッバースが天然痘で亡くなっています(754年)。
アッバース朝と日本は遠く離れているので接点はないかと思いきや、ありました。前年の753年に唐の長安で起こった席次争い事件である「天宝争長(てんぽうそうちょう)事件」です。
これについては拙著『世界史とつなげて学べ 超日本史』(KADOKAWA)にも記しましたが、かいつまんで説明します。唐の玄宗(げんそう)皇帝が主催した新年の朝賀の宴が長安で開かれました。東の席次1位は新羅、2位がアッバース朝(中国名は「大食(タージー)」)でした。西の1位がチベット(吐蕃(とばん))、2位が日本となっていました。
■日本とアッバース朝の遣唐使は、隣でご飯を食べていた
これを見た日本の遣唐副使である大伴古麻呂(おおとものこまろ)は抗議します。
「日本を2位にして新羅使を1位にするのは理に反する。なぜなら新羅は日本の朝貢国だからだ」。すると唐の担当官は日本側の抗議を認め、新羅と日本の位置を入れ替えたのです。
この結果、東の1位が日本、2位がアッバース朝になりました。つまり、日本の遣唐使とアッバース朝の遣唐使が隣でご飯を食べているのです。
このタイミングで感染が起こった、とまでは申しませんが、この使節団が帰国した翌年、アッバース朝の皇帝(カリフ)が天然痘で亡くなっているのです。日本人や中国人はすでに天然痘の免疫をもっていて、アラブ人はそうではなかった可能性はあるでしょう。
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駿台予備学校/N予備校 世界史科講師
東京都出身。ノンフィクション作家、予備校講師、歴史系YouTuber。学習参考書のほか、一般向けの著書に『世界史で学べ! 地政学』(祥伝社)、『超日本史』(KADOKAWA)、『「戦争と平和」の世界史』(TAC出版)、『「米中激突」の地政学』(ワック)、『政治思想マトリックス』(PHP)、『「保守」って何?』(祥伝社)、『グローバリストの近現代史』(ビジネス社)などがある。YouTube「もぎせかチャンネル」でも発信中。
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(駿台予備学校/N予備校 世界史科講師 茂木 誠)
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