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「鍋洗いで可能性を見出された」20歳の三國清三が突然料理長に大抜擢され、三ツ星の神様の眼鏡にかなったワケ

プレジデントオンライン / 2023年4月28日 11時15分

三國清三『三流シェフ』(幻冬舎)

仕事の視野を広げるには読書が一番だ。書籍のハイライトを3000字で紹介するサービス「SERENDIP」から、プレジデントオンライン向けの特選記事を紹介しよう。今回取り上げるのは三國清三著『三流シェフ』(幻冬舎)――。

■【イントロダクション】

国内や欧州で活躍するフランス料理の日本人シェフは少なくない。その中でもトップクラスの料理人を挙げた時に、東京・四谷「オテル・ドゥ・ミクニ」の三國清三シェフを外す関係者はおそらくいないだろう。

2022年12月、同店は37年の歴史を閉じた。新しい挑戦を始める三國シェフはどんな足跡を残したのか。

本書は、三國清三シェフの自伝的エッセイ。北海道・増毛(ましけ)町の貧しい漁師の家に生まれた生い立ちから、札幌グランドホテル、帝国ホテル、ジュネーブ大使官邸、スイスおよびフランスの一流レストランでの修行、そして帰国後オテル・ドゥ・ミクニを開店し時代の寵児となるまでを、多彩でユニークなエピソードの数々とともに語る。

とりわけ、師匠と仰ぐ帝国ホテルの総料理長だった村上信夫氏、フレディ・ジラルデ、アラン・シャペルといった一流シェフたちからは、数えきれないほどの学びを得たようだ。

著者の三國氏は1954年生まれのフランス料理シェフ。世界各地でミクニ・フェスティバルを開催するなど、国際的に活躍。2013年、フランソワ・ラブレー大学より名誉博士号を授与される。2015年、日本人料理人で初めて仏レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを受章。

1.小学校二年生の漁師
2.黒いハンバーグ
3.帝国ホテルの鍋洗い
4.悪魔の厨房
5.セ・パ・ラフィネ
6.ジャポニゼ
最終.最後のシェフ

■人生変えたシャペルの「洗練されていない」の一言

フレディ・ジラルデ(*スイス、ローザンヌ近郊クリシエにある三ツ星レストラン「ジラルデ」のオーナーシェフ)がぼくに料理人としての自信を与えてくれた人だとすれば、アラン・シャペル(*フランス、リヨン郊外の三ツ星レストラン「アラン・シャペル」のオーナーシェフ)はぼくに料理人として進むべき方向を教えてくれた人だった。それもたった一言で。

初めて声をかけられたのは、(*「アラン・シャペル」の)厨房に入って3カ月目のことだった。ぼくが作っている料理を見て、一言こう言ったのだ。「セ・パ・ラフィネ」。直訳すれば、洗練されていない、だ。スプーンを持つ手が震えた。言葉の意味はわかったけれど、彼がなにを言いたいのかがわからなかった。洗練されていないから、作り直せとは言わなかった。ここをこうしろという指示もなかった。

ぼくの作ったエクルヴィス(*ヨーロッパザリガニ)のムースは、なにも手を加えられることなく、そのまま客席に運ばれて行った。「アラン・シャペル」の料理としては、文句がないということだろう。

ツノが立つまでしっかり泡立ててあるクリーム
写真=iStock.com/t_kimura
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/t_kimura

それなのになぜ、セ・パ・ラフィネなのか。その答えを考え続けて、ひと月が過ぎ、ふた月が過ぎ。ある夏の暑い日に、こんなことがあった。ぼくが作ったマンジェに、苦情が出たのだ。厨房ではまかない料理を、マンジェと呼ぶ。「アラン・シャペル」のマンジェは当番制で、料理人が交代で作っていた。

仲のいい料理人が一口食べて首を傾げ、テーブルにあった生クリームに手を伸ばした。人の作った料理に、たっぷり生クリームかけやがって、せっかくの味が台無しじゃないか。「ミクニ、これ味が薄すぎないか。こんな料理じゃこの暑さには勝てないよ」。ぼくの視線に気がついて、その男が文句を言うと、他の料理人たちもそうだそうだと言い始めた。

こんなに暑いから、さっぱりした料理を作ったんじゃないか。「そんなにクリームだらけにして、お前こそよくそんなもの食えるな」。そう言い返して、ふと思い出した。日頃から彼らが、ぼくの感覚からすれば、尋常じゃない量のバターやクリームを食べることを。「生まれたときからずっとこうだよ、祖母ちゃんの料理も母ちゃんの料理も。これのどこがクリームだらけだって?」。誰かがそう言ったら、みんなが頷いた。

バカみたいな話だけど、それでようやく目が醒めた。ぼくはフランス人じゃない、と。

■「フランス人のようにフランス料理を作るのはやめた」

(*シャペルに厨房で初めて声をかけられた時に)ぼくが作っていた料理は、色も形も香りも味も、正真正銘の「アラン・シャペル」の料理だった。アラン・シャペルもそのことに異論はなかった。そうでなければ、「これは私の料理ではない」と言って、皿ごと捨てていたはずだ。ぼくはあの料理を、アラン・シャペルのレシピで作った。彼の哲学に従って、彼の料理を作った。ぼく自身の心で、ぼく自身の味覚や好みで、食材と向き合っていたわけじゃない。

フランス人になったつもりで、フランス人のように食材を見ていた。フランス人の真似をして、フランス料理を作っていた。ぼくがほんとうに好きなもの。心から旨いと思うもの。それは親父の刺し網にかかったアワビやウニや甘エビだ。浜で拾ったホヤだ。熱い味噌汁に、炊き立てのご飯。醤油をつけた刺身……。そういうもの全部に封印をして、ぼくじゃない誰かになりすまして、ただの見せかけだけの料理を作っていた。

あのエクルヴィスのムースは、ぼくの心で作った料理ではなかった。知識と技術だけで作った料理だ。いうなれば、天才の料理を上手に真似た優等生の料理だ。うわべはよくできていても魂が抜けていた。シャペルにはたぶんそれがわかったのだ。それはただのアラン・シャペルの料理じゃないか。皿の上のどこにも、お前自身がいないじゃないか。お前はダサいなあ、と。あの人はそう言いたかったんじゃないか。

シャペルは、曲がった胡瓜は曲がったまま使えという人だった。自然から生まれた形を、どう生かすかはあなたが考えなさいと。考えるのはぼくだ。だけど考えるぼくが空っぽだったら、なにも生まれはしない。永遠にセ・パ・ラフィネだ。

エッフェル塔が見渡せる場所でグラスに赤ワインを注ぐ
写真=iStock.com/PeskyMonkey
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PeskyMonkey

日本に帰ろうと思った。日本に帰って自分の料理を作る。フランス人のようにフランス料理を作るのはやめる。増毛で生まれ、北海道の風土に育まれた日本人として、ぼくにしか作れないフランス料理を作る。そう決めたら、この何カ月もずっと沈んでいた気持ちが楽になった。

1年半の契約期間が終わりに近づいたとき、ぼくはムッシュ・シャペルに日本に帰ることを告げた。

■「フランス料理じゃない」と言われた三國の「ジャポニゼ」

1985年3月、新宿区若葉一丁目に「オテル・ドゥ・ミクニ」は誕生する。周囲の心配は的中した。お客さんが入るわけない、という心配だ。お客さんが入らなくても、自分の料理を作り続けた。

三國清三『皿の上に、僕がある。』(柴田書店)
三國清三『皿の上に、僕がある。』(柴田書店)

それがどんな料理かは、開業の翌年に出版した『皿の上に、僕がある。』を見ればわかる。真俯瞰の料理写真で構成した大型の料理本だ。あの本を出したことは、その後のぼくの料理人としての人生を大きく変えた。

この本は7刷まで版を重ね、後に復刻版まで出版された。ヨーロッパやアメリカの書店や図書館にも並び、海外でも高い評価を受けた。スイスの五つ星ホテルに行ったときには、総料理長がこの本を持っていてサインを求められた。日本だけじゃなく世界中で、何万人という人があの本を通じて、ぼくという料理人と出会ったのだ。

気がつけば、予約が何カ月も先まで埋まるようになっていた。新聞や雑誌などマスコミで取り上げられる機会も増えた。

有名になると、当然のごとくバッシングが激しくなる。特にフランス料理をよく知るという料理評論家の人たちからは、ひどいことを言われた。「あんなデタラメなフランス料理はない」とか、「あんなものはフランス料理じゃない」とか。「三國は、すべての秩序を破壊した」とまで言う評論家もいた。本場のフランスに、味噌だの醤油だの米だのを使う料理はないと言う。その当時は確かにそうだったんだろう。

デタラメをやろうと思っていたわけじゃないけど、ぼくがあの頃戦っていた相手はまさにフランス料理そのものだったとも言える。自分が習い覚えたフランスの巨匠たちの料理を乗り越えるのは、なかなか大変なことだった。そのためにはフランス料理の秩序だろうがなんだろうが、ぶっ壊すという気持ちで戦っていた。

あの頃、フランスには18軒の三つ星の店があった。その18軒の店には、一つだけ共通点があった。どの店も絶対に他の店に似ていないという共通点だ。三つ星の店で最も重要なのはオリジナリティだ。どんなにクオリティが高くて、どんなに美味しくて、どんなに豪華でも、オリジナリティがなければ三つ星とは認められない。

ぼくにはジラルデやシャペルという神様みたいな師匠がいた。自分の料理を作るようになって、彼らがいかに天才かということが身に染みてわかった。彼らを乗り越えて自分の表現を見つけるために、ぼくが追求していたのが、自分の生まれながらの味覚であり、日本の風土から生まれた食材だった。

開業から5年過ぎたある日、ぼくの店に思わぬ人が顔を見せた。ムッシュ・シャペルだった。そして料理を食べ終えると、ゲストブックに長い言葉を書き残してくれた。

“見事にJAPONISÉEしてのけた”という言葉が心に響いた。JAPONISÉE、ジャポニゼを直訳すれば日本化だ。日本人の好みに合うように料理をアレンジするというくらいの意味だったら、ムッシュ・シャペルは偉業とは呼ばなかっただろう。日本の食材や食文化を取り入れてフランス料理の可能性を広げたことを、彼はジャポニゼと言ったのだとぼくは解釈している。ジャポニゼは、料理人としてのぼくの重要なテーマになった。

※「*」がついた注および補足はダイジェスト作成者によるもの

■コメントby SERENDIP:

1974年、当時の帝国ホテル総料理長、村上信夫氏は、洗い場担当のパートタイマーでしかなかった20歳の三國氏を、駐スイス日本大使館ジュネーブ軍縮会議日本政府代表部料理長に推薦した。鍋洗いなどの仕事ぶりから、三國氏の才能と将来の可能性を見出しての大抜擢だった。また三國氏は、フレディ・ジラルデ氏の店に飛び込みで職を得るが、追い返されそうなところを、何も言われていないのに黙々と鍋洗いを始めたことでチャンスを掴んだそうだ。オテル・ドゥ・ミクニを閉店した今、3年後に三國氏は、カウンターのみ8席ほどの自分の店「三國」の開店をめざす。新店では「何もかも一人でやる」という三國氏は、70歳を目前にして何度目かの「洗うべき鍋」を見つけたようだ。

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