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「3年後に死んでも後悔しないように生きよ」心の極限状態を経験した心理学者がそう力説する深い理由

プレジデントオンライン / 2023年4月30日 14時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/NiseriN

人生で学ぶことの意味はどこにあるのか。明治大学文学部教授の諸富祥彦さんは「50代からは最後まで精いっぱい学び、遊び尽くすべきだ。死ぬということは、『迷い道から抜け出る』ことなんだと少しだけわかりながら、日々を迷いながら生きるのが、『学ぶことの意味』である」という――。

※本稿は、諸富祥彦『50代からは3年単位で生きなさい』(河出書房新社)の一部を再編集したものです。

■「3年後の死」の覚悟すると、死に向かい体が駆け上っていくのを体感

「たとえ、あと3年で死んだとしても、悔いのないように日々を生きよ」

これが本書の基本的なメッセージです。

「あと3年」というのは、本当に短い時間です。「3年後の死」をリアルに実感し、覚悟しながら日々を送り始めると、身体感覚に変容が生じ始めます。

自分の体が「死」に向かっていく。「無」に向かっていく。それを日々体感します。「死」に向かい、「無」に向かって、自分の体が駆け上っていくのが体感されてくるのです。

すると、生と死の間の「境界」が溶解し始めます。「生の向こうに死がある」という感覚はほぼ消えて、「自分はすでに死の中にいる」、そして「死の中にほんのり、儚く生が混じり入っている」。

その儚き生を生きている。人生後半を生きている人の多くが死をごまかさずに生きているならばそんな実感を持っているのではないでしょうか。

このように、私自身も年齢を重ねるにしたがって死ぬということについての感じ方は、変わってきました。ある極限状態に追い込まれて、死ぬ直前までいったこともあります。

くわしくは『人生に意味はあるか』(講談社現代新書)という本に書きましたが、ギリギリのところまで追い込まれたのです。

そのギリギリの体験で私が体験したのは、「立脚点の変更」の体験でした。一言で言うならば、「いのちが、私している」見えない、いのちの働きが、たまたまこの時、この世では、縁あって“私”という形を取っているということをリアルに実感する体験でした。少し説明しましょう。

■15歳から7年続いた「魂の闇夜」と言うべき体験

「私が生きている」と私たちはふだん思っています。「私はいのちを持っている」と。

しかし、私は本当に限界まで追い込まれて、観念してすべてをあきらめて「ああ、もう、死んでしまってもいいな」と思えた瞬間があった。「もう限界、越えた」「ああ、人生、終わったな」「それでいいや」と思った体験があったんです。

実際に畳の上にぶっ倒れて、あお向けで倒れていたわけですけれど、ちょうどおへそから1mくらい上ですか、そのあたりに、大きないのちの渦のようなものがありありと実感できたんです。「あっ、これが私の本体か」と思いました。

つまりそれまで自分で「私だと思っていた私」は、むしろ私の「仮の宿」であって、ほんの一瞬、数十年という「ほんの一瞬宿った仮の宿」である。私の本体は、もともと生まれてもいないし、死にもしない。生まれることもなく死ぬこともなく、ただそこにある。

この「不生不滅のいのち」が、たまたまほんの一瞬、数十年というほんの一瞬だけ、私している。私という形を取っている。この肉体に宿っている。そうありありと実感したのは、21歳の死を覚悟した時です。

その時の実感としては、「いのちが、私している」。大いなるいのちの働きそれ自体、これは形なきもの、見えないものです。

見えないいのちの働きが、たまたま一瞬、この見える世界、この世で、「この私」という形を取っている。死んだらこの「形」はなくなり、「形なきいのちの働き」だけに戻っていく。

15歳くらいから、「魂の闇夜」とでも言うべき体験をして、ギリギリのところまで追い込まれた。7年間、生きているか死んでいるかわからないような状態で彷徨い続けて、本当に苦しかった。

あの苦しみに比べたら、他の苦しみなど、何でもないというくらい苦しかった。出口がない。7年間、出口がないんです。もう永遠にそのままなのかもしれないと思っていました。

7年間苦しんで、ようやく21歳の時に、ポ~ンと抜け出ることができた。その時の実感としては、「見えない世界」の中に「見える世界」が浮かんでいる。「見える世界」の向こうに「見えない世界」が広がっているのではない。こちら側とあちら側という関係ではない。

神秘的な森のバックライトを持つおとぎ話のドア。白いウサギはドアの間に座っています。
写真=iStock.com/Maria Korneeva
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Maria Korneeva

「見えない世界」の中に「見える世界」が浮かんでいる。私の本体は、見えないいのちの働きそのものであって、それが同時に、ほんの一瞬だけ「私」という見える形を取っている。そういう実感です。

■「この世での人生」とは、あっという間に終わる「魂の修学旅行」

すると、生と死の境界がほぼなくなる。今も、これまでも、私は基本的には「死の世界」「見えない世界」にいて、これからもいる。

そして、3年か、5年か、10年か、はたまた20年か、30年かわかりませんけれども、「ほんの一瞬」、見える世界にも同時にいる。そういうことなんだろうと思います。

「この世での人生」とは、あっという間に終わる「魂の修学旅行」のようなものだというのが、私の実感です。

そしてその「魂の修学旅行」の間、私たちは常に道に迷っている。日々「いったい、どうしたらいいんだろう?」と迷いながら生きている。「迷い道で彷徨っている状態」が数十年ある。これが、人生なんだろうと思うんです。

「死」ということ、「人生が終わる」ということは、この迷い道から抜け出して、元の世界に戻ること。「人生という迷い道」に、ほんの数十年。それが、人生なんだろうということです。

そしてその「迷い道」から抜け出したら元の「見えない世界」「形なき世界」に戻る。ただそれだけのお話なんだと思うんです。

■人生という「迷い道」の中で「学ぶことの意味」

では人生という「迷い道」を歩く中で、「学ぶことの意味」はどこにあるか。

プラトンという古代ギリシアの哲学者は、哲学をするということは、「死の練習」をすることであると言いました。プロセス指向心理学のアーノルド・ミンデルは、多くの人は死の2週間くらい前になると、人生の真実がわかる。心理学を学ぶと、それをほんの数十年早く学ぶことができる。それが心理学を学ぶことの意味だと言っていました。

迷い道から抜け出たらどこに行くのかを、どこかちょっとだけわかりながら、迷い道で迷い続けるというのが、生きるということなんだろうと思います。

死ぬということは、「迷い道から抜け出る」ことなんだと少しだけわかりながら、日々を迷いながら生きるのです。この「少しだけわかりながら」というのが、「学ぶことの意味」です。

人生がいつまでも続くと思うと、ついだらだらと無意味な時間を過ごしてしまいます。

しかし、人生そのものが「ほんの一瞬の魂の修学旅行」だということがわかっていると、そういうことがなくなる。修学旅行が4日間だとするならば、私の年齢の58歳というのは、最終日、4日目の朝方でしょうか。

「ああ、今日が最終日だ。もうすぐ終わりだ」と寂しい気持ちで終わりを感じつつも、最後まで精いっぱい学び、遊び尽くす。それが50代、60代、70代という年齢です。

人生を「とりあえず3年」単位で生ききる、という本書の教えも、人生というのが、修学旅行のような、ほんの一瞬の儚い出来事だということを忘れずにいるための仕掛けなのです。

人間は生まれた時から「死の世界」「見えない世界」の中にいる。形なき「見えない世界」の中で、同時に「見える世界」にも生まれ落ちるわけです。

当然のことながら、生まれた瞬間からすでに「あの世」にいる。生まれた瞬間から「あの世」「死の世界」にも同時にいるんです。

私たちは、赤ん坊であろうと中学生であろうと、58歳であろうと90歳のご老人であろうと、同じ。みんなすでに「あの世」「形なき世界」の中にいる。

「あの世」にいることを死んでいると言うのであれば、すでに死んでもいるんです。全員死んでいる。死んでいるんだけど、ほんの一瞬、数十年だけ、同時に生きてもいるんです。

お花畑
写真=iStock.com/AlessandroPhoto
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/AlessandroPhoto

幻というならば、生きていること自体が幻です。ほんの数十年だけ、ほんの一瞬だけ、幻の世界を生きている。ほんの一瞬、「魂の修学旅行」をできている。ありがたいことです。ありがたく生きましょう。精いっぱい「魂の修学旅行」を楽しみましょう。

もうすでに死んでいるんですから、わざわざ死ぬ必要はありません。わざわざ自殺なんかする必要はない。

こうしたことを体感的に学ぶことができる心理学がトランスパーソナル心理学です。

■不可思議なのは「あの世」ではなく「この世」である

いずれにせよ、不可思議なのは、「この世」です。奇跡は、この「見える世界」です。だから日々を味わいながら生きることが大事なんです。全力で味わいましょう。

諸富祥彦『50代からは3年単位で生きなさい』(河出書房新社)
諸富祥彦『50代からは3年単位で生きなさい』(河出書房新社)

それに比べたら「あの世」なんていうのは全然不思議じゃない。超常現象なんて全然不思議じゃない。

日々の人生のほうがずっと不可思議です。奇跡ですよ。死んだらとても当たり前の世界に戻るだけです。つまらない世界です。

不可思議で奇妙なのは、「この世」、この世界。僕たちが日々生きているこの世界です。

楽しみましょう。せっかく幻の世界に生きているのだから。せっかくこの「見える世界」「この世」にいるのですから。せいぜい日々を味わいながら生きましょう。最高ですよ!! この幻は。酒もうまいし、飯もうまい。キレイな景色もたくさんある。

死んだ後、別の世界への生まれ変わりがあるのかどうかわかりませんけれど、生まれ変わっても、こんなにすばらしい奇跡、味わえるでしょうか?

せっかく最高の世界を見させていただいているわけですから、日々最高に楽しんでいきましょう。

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諸富 祥彦(もろとみ・よしひこ)
明治大学文学部教授
1963年福岡県生まれ。教育学博士。臨床心理士。公認心理師。教育カウンセラー。「すべての子どもはこの世に生まれてきた意味がある」というメッセージをベースに、30年以上、さまざまな子育ての悩みを抱える親に、具体的な解決法をアドバイスしている。教育・心理関係の著書が100冊を超える。

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(明治大学文学部教授 諸富 祥彦)

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