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NHK大河ドラマは史実とはあまりに違う…北条義時の盟友・三浦義村が本当に考えていたこと【2022編集部セレクション】

プレジデントオンライン / 2023年5月5日 8時15分

三浦義村を演じる俳優・山本耕史(=2019年5月30日ティファール新商品発表会。東京都渋谷区) - 写真=時事通信フォト

2022年下半期(7月~12月)にプレジデントオンラインで配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします――。(初公開日:2022年12月18日)
鎌倉幕府2代執権・北条義時を支えた三浦義村とはどんな人物か。歴史評論家の香原斗志さんは「史実をみれば、一族の存続を第一に考えていた武将だ。そのために、義時に近づき、どんな仕事でもこなした。NHK大河ドラマで描かれたように、打倒北条の機会ばかりをうかがっていたとは考えにくい」という――。

■三浦義村が何よりも大事にしていたこと

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、山本耕史演じる三浦義村に存在感があった。ドラマで印象的だったのは、北条義時の盟友として(血縁上も従兄弟だ)、ともに幕府を支えながら、あわよくば三浦が北条にとって代わろうとチャンスを狙っている姿だった。しかし無理はせず、まずは三浦一族が存続することを優先する。

むろん、ドラマだから、かなり脚色はされていた。が、そうした判断を、生き馬の目を抜くように素早く行う義村の姿を、ひとたび政敵と見なされるとたちまち滅ぼされる鎌倉における処世術の象徴として、浮き立たせたということだろう。

たとえば、第47回「ある朝敵、ある演説」(12月11日放送)では、後鳥羽上皇が有力御家人たち一人ひとりに下した「北条義時追討の院宣旨」を受けとると、同じく受けとっていた長沼宗政とともに、打倒北条のチャンス到来ととらえる。

ところが、義時らと同席する場で、院宣旨が話題になると、すかさず自分の元に届いていた旨を申し出て、さらには院宣旨の現物を差し出す。こうして、北条に対して二心がないことを強調するどころか、忠義の心が深いようにみずからを演出するのだ。

いちいち「打倒北条」の思いがよぎるところには、史料に照らすかぎり、脚色として過剰な感があるが、こうしてことあるごとに「忠義の心」を強調することで、三浦が鎌倉の地で、北条に次ぐ揺るぎない地位を確立したのはまちがいない。

だが、一方で、ひとたびボタンが掛け違うと、こうした血のにじむような努力の集積も、たった一夜にして水泡に帰してしまう。その後の三浦を思うと、なんだか胸が痛む思いすらするのである。

■義村の最初の汚れ仕事

さかのぼれば、三浦義村は要所要所で北条を立て、助けてきた。それも、北条の存亡の危機というべき場面で、決定的に力を貸してきたと言っていい。とくに正治2年(1200)に父の義澄が亡くなってから、三浦の当主となった義村は、北条との距離を狭めている。

北条義時の父、時政が建仁3年(1203)、3代将軍源頼家の後継であった一幡の乳母夫、比企能員を謀殺した直後、比企一族が一幡の小御所に立てこもったときは、北条政子の命で小御所を襲撃している。

また、北条時政が娘婿、平賀朝雅の讒言(ざんげん)を受け入れ、頼朝以来の忠臣である畠山重忠と嫡男の重保を決めたときも、義村は時政の命令に従って、重保を由比ガ浜付近におびき出して討ち取っている。

■一族のためなら従兄弟も裏切る

決定的なのは、建暦3年(1213)の和田合戦だった。「鎌倉殿の13人」では、横田栄司演じる朴訥なひげ面が「癒やしキャラ」として人気を呼んだ和田義盛が蜂起した、鎌倉時代初期最大の争乱である。北条時政が失脚してすでに8年。義時の執権が板についていたころのできごとだ。

和田義盛(画像=『前賢故実』/菊池容斎)
和田義盛(画像=『前賢故実』/菊池容斎/PD-Japan/Wikimedia Commons)

じつは、和田氏は三浦氏の分家で、義盛と義村は従兄弟だった。合戦が起きた当時、義盛は67歳で、北条義時は51歳。三浦義村は生没年が不詳だが、義時より若干年下だったと考えられるので、義盛と義村は20歳程度、年齢が離れていたはずだが、ともかく従兄弟同士だった。

そして、三浦家の惣領は義村だったものの、頼朝以来の忠臣で、侍所別当を長く務める義盛の力は、義村をしのいでいたようだ。

ともあれ、和田義盛は北条義時を相手に戦うことを決意したとき、従弟である三浦本家の義村と胤義の兄弟を誘っている。これに対し、三浦兄弟は義盛らと一緒に戦うことを約束し、けっして裏切らないという証しに起請文まで書いている。

ところが、義村は義盛を裏切るのである。

ドラマでは、和田義盛を「善人」に描くためだろう、義盛が義村の裏切りを受け入れるように描いていた。これは脚色がすぎると思うのだが、ともかく、三浦兄弟は義時邸に駆けつけ、義盛の謀反計画を暴露している。

義盛の計画は、まずは将軍実朝の御所を襲撃し、その身柄を確保するという狙いだったようだ。しかし、義村の裏切りのおかげで、義時はいち早く実朝邸に軍を送って、実朝を御所から連れ出し、確保することができた。

義村自身も実朝の御所の近くに出撃し、三浦は和田と一族同士で殺し合うことになった。そこまでしてでも、三浦の家を守ろうとしたのである。そもそも義村らが義盛に起請文を書いたのも、彼を油断させる狙いがあったのかもしれない。

結果として、この合戦に勝利した北条義時は、かねてからの政所別当に加えて、和田義盛が就いていた政所別当も兼職することになり、執権として一般の御家人よりも高い地位を確立。同時に三浦義村も、幕府において北条に次ぐ地位をたしかなものにしたのだ。

■実朝暗殺の黒幕ではない

実朝が暗殺されたときもそうだった。

大河ドラマでは、義村は2代将軍頼家の遺児である公暁から事前に、実朝を暗殺して自分が将軍になるという計画を相談されていた。しかも、それに協力する旨を伝えていた。いわば、公暁の黒幕に義村がいたように描いていたが、現実には、これまで危ない橋をことごとく避けてきた義村が、そんな計画に乗ったとは到底思えない。

しかし、義村は公暁の乳母夫だったから、公暁から頼られるのは自然なことだ。事実、鶴岡八幡宮の石段を下ってきた実朝を襲って首を打ち落としたのち、公暁はその首を抱えたまま三浦義村に使者を送り、実朝を討ち取ったこと、自分こそが将軍にふさわしいので、すぐに準備をしてほしいこと、などを伝えている。

だから、公暁が義村を味方だと思っていたのはまちがいない。だが、義村は公暁に、自分の家に来るように返信し、それと同時に義時に使者を送って、公暁から連絡があったことを伝えている。そして、義村邸に向かった公暁は、義村が遣わした家人と争った末、首をはねられたのだ。

■承久の乱の功労者とされるワケ

記事の冒頭で触れた、後鳥羽上皇の院宣旨を受けとった際の話は、こうした経緯の先にあった。そして承久の乱を迎えても、三浦義村の姿勢は一貫していた。

大判役として在京していた弟の胤義は、後鳥羽上皇に誘われて官軍側につき、兄の義村に書状を送っている。天皇側のご命令に従って北条義時を討ってくれれば恩賞は思いのままだ、という内容だった。後鳥羽上皇にすれば、幕府で義時に次ぐ実力者である義村を味方につければ勝利はかたい、という思いがあったことだろう。

しかし、義村はその書状を持ってすぐに義時の元を訪れ、幕府への忠節を誓っている。いわば、義村の「忠誠」のおかげで、義時は院宣旨や京側の謀略を握りつぶし、承久の乱で勝利することができたのである。

ほかの御家人たちへの影響も大きかったと思われる。義時に次ぐ実力者の義村が、義時を支える姿勢をはっきりと打ち出したことで、御家人たちは安心して「官軍」と戦うことができた。いわば、北条政子の演説と並ぶ功労が、義村にはあったということだ。

そして、北条泰時、時房らと並んで、三浦義村も京都へ出陣。従兄弟の和田義盛らと刃を交えたのに続き、今度は兄弟で戦うことになった。

■ドラマでは描かれない義時の死後

承久の乱で幕府軍が勝利したのちも、新将軍の擁立や、院が所有していた荘園をめぐる折衝など、きわめて重要な案件が三浦義村に託された。事実、義村は承久の乱を通して、幕府における地位をさらに強固にし、北条義時の死後も、北条と三浦の二人三脚を維持する。

もっとも、義時の死後にひと悶着あったのだが、うまく乗り切っている。

義時の後妻で、ドラマでは義時の死に関わったと描かれるはずの伊賀の方(のえ)が、自分の子である北条政村を執権につけ、兄の伊賀光宗に後見させようとしている、という風聞が流れる。

なぜ義村が関係しているのかといえば、義村は政村の烏帽子親(元服の際の親代わり)だったのである。

たしかに、義村が本当に政村や伊賀氏と手を結べば、幕府の乗っ取りも夢ではない。それを憂慮した北条政子が義村を訪ね、義時の嫡男の泰時の功績をたたえ、彼が継ぐしかないのだから事態を収拾せよ、と命令。義村は素直に従って、この「伊賀氏事件」を収集し、ことなきを得ている。

■「三浦を滅ぼさなければ」

以後、義村は泰時との関係性もうまく維持し、延応元年(1239)に亡くなるまで、執権に次ぐ一般御家人ナンバーワンの地位を維持する。

しかし、それから10年も経ずに、三浦一族は滅亡してしまう。

義村のあとを継いだ次男の泰村は、たびたび御家人との争いを起こしたり、北条との関係性の築き方について弟の光村と対立したりと、父のようにうまく立ち回る力に欠けていたようだ。

きっかけは、2歳で鎌倉に下向した4代将軍で、ドラマにも出てきた三寅、すなわち藤原頼経だった。頼経は4代執権の北条経時(泰時の孫)との関係が悪化し、将軍職を嫡男の頼嗣に譲ってからも大殿として鎌倉にとどまっていた。

藤原(九条)頼経像(鎌倉明王院蔵)
藤原(九条)頼経像(鎌倉明王院蔵)(画像=『集古十種』国書刊行会/PD-Japan/Wikimedia Commons)

その後、執権職が病気の経時から弟の時頼に譲られると、頼経とその側近らが5代執権時頼を除こうとした事件が起き、頼経は京に送還された。そして、三浦泰村らはこれへの関与を疑われたのだ。

三浦が糸を引いているとだれもが疑い、若い北条時頼は目をつぶったが、時頼の外祖父である安達景盛は「三浦を滅ぼさなければ、安達が滅ぼされる」と考えたようで、戦の準備を始めている。

そんな状況で宝治元年(1247)、三浦泰村は挙兵した。時頼とのあいだで何度も和平交渉が繰り広げられたが、泰村は三浦一族内の好戦派を抑えることができなかったのだ。

■一族郎党は根絶やしに

結局、頼朝の墓所堂に追い込まれた泰村や、「好戦派」の弟、光村以下、三浦一族はことごとく討たれ、自害した人の数は300人から500人におよんだという。

危ない橋をうまく渡り続けた三浦一族だが、その橋にリスクがある以上、常に落ちる危険性をともなっていた、ということか。しかし、三浦一族の滅亡によって、北条の地位は盤石になった。結局、三浦は最後まで北条を助けたのである。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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