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「父親の死亡保険金は俺のものだろ」瀕死の80代母親が「勘弁して」と泣くまで訴えた長男の"ハゲタカ行状"【2022編集部セレクション】

プレジデントオンライン / 2023年5月9日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Andranik Hakobyan

2022年下半期(7月~12月)にプレジデントオンラインで配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします――。(初公開日:2022年12月17日)
父親ががんで他界後、母親は自暴自棄になり、パチンコ三昧の日々。ある日、脳梗塞を発症し言葉が出にくくなり右手にまひが残った。長女が献身的に介護をするが、その後、介護施設の不手際で転倒して大腿骨骨折。その病床に子供の頃から自己中心的な性格の長男がやってきて、くどくど訴えたあぜんとする内容とは何だったのか――。(後編/全2回)
【前編のあらすじ】関東在住の大木瑠美さん(仮名・50代・独身)には、両親と5歳上の兄がいた。兄は過保護に育てられ自己中心的な性格。両親がいないときを見計らって兄は、大木さんに暴力を振るうようになったが、両親は「子供のけんか」と取り合わない。特に母親は兄をかばい、大木さんのほうが我慢するべきだと言った。兄は大学に進学したが、大木さんは短大進学さえ許されず、1年生の職業訓練校にしか行かせてもらえなかった。やがて父親が67歳でがんにより死亡すると、母親は自暴自棄に。自転車で転倒し、倒れていたところを兄に発見され、救急車を呼ばれた――。

■母親が要介護状態に

関東在住の大木瑠美さん(仮名・現在50代・独身)の母親(当時66歳)は、2005年、パチンコからの帰宅途中、坂道を自転車で上る時にバランスを崩して転倒した。なんとか家までたどり着けたものの、トイレを利用した後に倒れて起き上がれなくなり、病院で診てもらうと大腿骨の右側を骨折していた。手術を受けたあと、2カ月半ほど入院することに。保険の外交員の仕事は退職せざるを得なかった。

当時、補聴器班販売の仕事をしていた大木さんは実家から車で30分くらいの場所にあるマンションにひとりで住んでいたが、母親が入院したため、着替えなどを取りに数年ぶりに実家に足を踏み入れた。

その途端、異臭が鼻を突いた。足の踏み場のない台所の床には、袋に入ったままの野菜がいくつも腐り、冷蔵庫ではゴキブリが凍死していたのだ。このすぐ隣のリビングで平気で生活している派遣会社に勤める5歳上の兄の神経が心底信じられなかった。

退院後、母親はパチンコには行かなくなり、歩くときにつえを使うようになっていたが、すっかり父親を亡くした悲しみは癒えたようだ。母親は要支援2と認定されたものの、友人と会ったり趣味の手芸にいそしんだりして、アクティブに過ごすようになっていた。

2014年3月。大木さん(当時40)は、大手企業の契約社員となり、補聴器営業の仕事を開始。その5日後のこと。再び兄が家で倒れている母親を見つけて、救急車を呼んだ。兄から連絡を受けた大木さんは、「(2005年に)父が亡くなって、母まで失うのは嫌だ」と無事を祈りながら病院に駆けつけた。

母親は脳梗塞を起こしており、高次脳機能障害になると医師から説明を受ける。意識が戻った母親は、言われたことは理解しているようだが、言葉が出にくくなっていた。身体的には右手にまひが残り、右腕が使えなくなっていた。

3カ月後に母親は老健(介護老人保健施設)に移ったが、在宅復帰を目的としている老健は約半年で出なくてはならないと説明があり、ケアマネジャーは母親と同居していた兄に在宅介護を打診。すると兄は、「お金もないし、介護もできない」と断ったため、妹の大木さんに話が行く。大木さんは不安を感じながらも、腹をくくって了承した。

「母の介護をすること自体は、私は当然だと思っていましたし、脳梗塞をきっかけに子どもがえりした母のことを心からかわいいと思っていたので、精神的な負担は感じませんでした」

2015年4月。大木さんは自分のマンションに母親を迎え入れた。母親の介護をするようになってからは、朝5時半に起きて、母親の口の中を拭き、トイレに連れていき、オムツやパッドを交換。陰部・臀部の洗浄をしたあと、歯磨きや入れ歯洗浄をし、シャワー浴。

6時半に朝食を作り、7時頃朝食。訪問介護は週3回。デイサービスは週4回利用。大木さんは8時には出勤し、18時半に帰宅。

帰宅後はすぐに夕飯の用意をし、7時半ごろ夕食。8時ごろにはオムツを交換し、母親を寝かせる。その後、24時ごろオムツを交換し、大木さんも就寝。幸い母親は夜しっかり眠ってくれたため、大木さんは睡眠不足に悩まされることはなかった。

■介護事故

2015年12月。老健のデイサービスに通っていた母親は、リハビリ中に転倒。

「施設から電話が入ったときは、大したことがないようなことを言われたのですが、夕方、仕事から帰宅して母を見ると、普通に使えていた左手でも洋服のボタンを緩められず、ベッドで寝ている時も硬直して身動き一つ取れない状況になっていました」

大木さんは慌てて救急車を呼び、搬送先の病院で、左側の大腿骨を骨折していることがわかった。母親は、脳梗塞の後遺症の片麻痺で右手が上げられず、左手はつえをついていたにもかかわらず、「あれは、クリの木ね」と言って右手で指さして転倒したと施設は説明。

大腿骨骨折のレントゲン写真
写真=iStock.com/praisaeng
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/praisaeng

「転倒後、施設側は、母がトイレ誘導時に立てない状態にあったので、リハビリパンツを着用し、車いすでトイレ介助をしたとのことですが、立てなかった時点でなぜ施設内に医師がいるにもかかわらず診せなかったのか。また、15時のおやつの際に車いすに移乗するとき、右ひざを曲げると痛みの訴えが聞かれたとのことですが、なぜこの時の右膝の痛みの訴えから、医師に診せる必要があると判断しなかったのか……。疑問でなりません」

施設に不信感を持った大木さんは、弁護士に相談。介護事故として協議を行うことに。さらに母親が大腿骨を骨折して入院した翌日の夜、明日の手術によって意識障害の発症や亡くなることも考えられるため、大木さんは兄を病院へ呼ぶ。

するとあろうことか兄は、2005年に亡くなった父親の保険金が自分のものにならなかった不満を、母親が泣いて「もう勘弁してくれ」と言うまで枕元で語り続けた。

「父親の保険金は、受取人が母に指定されていたため、受取人である母の固有財産になります。兄は、父が亡くなった翌年、それを知らずに私と母を相手取り、調停を起こしましたが、後からそれを知って自分で取り下げました。それなのに、『なぜまた母が大腿骨を骨折して大変なときに、古い話を掘り返すのだろう?』と信じられない思いでした」

父親の保険金は、父親が保証人になっていた大木さんのマンションの住宅ローンの返済に充てたのだが、それが兄は面白くなかったようだ。

その後、母親は兄のことを「情けない」と繰り返し口にし、看護師さんに、兄が来ても通さないようお願いしていた。介護事故を起こした施設を相手取った調停は、2年ほどかけてようやく賠償金を受け取ることで解決した。

■介護離職と起業

2017年6月ごろ。母親は2度目の大腿骨骨折後、老健で3カ月療養。その後、大木さんのマンションでの在宅介護に戻る。

しかしその後も母親は転倒を繰り返し、時に救急車を要請することも。体調が優れない日も多くなり、補聴器営業の仕事を突然休まなくてはならないことが増えたが、上司や同僚たちは、そういった状況を理解してくれなかった。

医師が画像から診断している
写真=iStock.com/sudok1
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/sudok1

「入社5日目で母が脳梗塞になり、そのような状況でも4年近く雇用してくれたことは、大変ありがたいことでした。ただ、納品でお伺いしなくてはならないお客様がある日に、どうしても母に付き添わなければならない状況になり、それを上司に相談したところ、『自分で対応するように』と言われました」

大木さんは辞職を決意。母親の介護をしていることを承知の上で採用してくれた補聴器の個人店に転職。ところが約半年で、「サポートするから起業したほうがいい」「補聴器店を始めるために、必要な機材を100万円で譲るから退職してはどうか」と社長から勧められ、100万円支払って契約書を交わし、退職した。

独立してから大木さんは、勤めていた頃より気持ち的には楽になっていたが、経済的には厳しいため、自分の補聴器店の仕事の他に、2つのアルバイトを掛け持ち。無理がたたってぎっくり腰になった。

人を笑わせることが好きな母親は、言葉は出にくいものの、目をくりくりさせたりし、表情豊かに思いを伝えてくれた。大木さんは母親を「たまちゃん」と呼び、いつも「かわいいね」と声をかけ、頻繁に母親に抱きつくようにしてじゃれ、コミュニケーションをとった。

「幼少期の寂しかった記憶や疎遠だった関係を、母と2人で埋めていたように思います。お互いが険悪だった頃のことも忘れるほど良い時間でした」

介護が始まったばかりの頃、小学生の時からの大木さんを知っている近所のおばさんに会った。おばさんは、「お母さんが、『娘とは合わないのよ』と言っていたけど、一人で介護なんて大丈夫? おばさん心配だわ」と大木さんに言った。

「本当に私は母に嫌われていたんだなぁと思い、気持ちがなえましたが、近所のおばさんは私が子どもの頃から知っているからこそ、心から心配しての言葉でした」

一方、母親は訪問看護師やデイサービスの職員に、「娘のおかげで幸せ」と口にしていたようだ。

「介護を受ける親にも反抗期みたいなものがあって、本当に観念するまで、介護する家族は大変だと思います。お互いが現実を受け入れるまで、時間がかかりました。母は2回めの大腿骨骨折後、『もう、こうなったら従うしかないわね』とポツリとこぼし、ようやく私のトイレ介助を受け入れてくれるようになりました」

2017年11月に入り、母親の病状は悪化の一途をたどった。この頃から大木さんは、1対1で介護する怖さを感じるようになっていた。

「この頃、もしも母があまりにも苦しそうにしたら、私が殺してしまうのではないかと思ったりもしました。『愛している人だからこそ、楽にしてあげたいから、殺してしまう』ということが、世の中には起こりうる。ふとそんなことを理解できてしまうような時期でした」

夜は、褥瘡(じょくそう)ができないように1〜2時間、母親のベッドで腕枕をしながら添い寝した。

■みっともないきょうだい

11月26日。母親は自宅で2人の看護師の訪問中に死亡。83歳だった。

「昼の11時ごろ、清拭を終えて身を整えていただき、冗談を言いながら笑い合っている中、旅立ちました。もし、夜中に私が独りで介護をしている時に母が死んでいたら、ひどく動揺して慌てたと思うので、良かったと思いました」

母親の葬儀は、大木さんが喪主を務めることに。大木さんは最後まで、兄を葬儀に呼ぶことをためらった。いとこに相談して、いとこから兄に連絡を取ってもらった。その後、兄から連絡はなく、葬儀に来るかどうかもわからなかったため、再度いとこから連絡してもらうと、兄から電話が入る。

案の定、兄は喪主を妹が務めることや母親の葬儀に対して不満を吐き出し続けたが、大木さんは何を言われても、葬儀を滞りなく終えるために聞き流していた。

線香を手に持つ女性の手元
写真=iStock.com/Yuuji
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yuuji

大木さんの兄は、参列者が席に付き、僧侶待ちで静まりかえった会場で、突然大木さんに声をかけた。

「家にある金貨やカメラなどの貴重品がなくなっているんだけど、お前が盗っただろう?」

大木さんはがくぜんとした。ゴミ屋敷状態になっていた実家には、母親の最初の大腿骨骨折以来、数年間入っていなかった。全く身に覚えがないため、「家に入っていないし、知らない」と言っても、「鍵を持っているのはお前しかいない」と兄は食い下がる。

「『なぜ、このタイミングなの?』と、心からあきれました。本当に親不孝すぎて、恥も外聞もないと思いました」

大木さんが何度か否定すると、「泥棒が入っているのかなぁ? 鍵を変えるか……」と兄は独り言のように言い、ようやく黙った。

父親の死後、自分のマンションのローンを父親の保険金で支払ってもらっていた大木さんは、母親の財産を全部、兄にあげてもいいと思っていた。

「母の介護が終わり、私はもう、仕事に集中したいと考えていたので、相続で兄に振り回されるのが面倒くさいと思っていたのです。しかし葬儀後、兄からぶしつけに、『香典を半分くれ』と言われ、心底腹が立ちました。兄は自分の友人や会社の人からの香典は辞退したので、ほとんどが私の友人からの香典ですが、葬儀費用や香典返しでほとんど残りません。はっきり言って嫌がらせですよね」

■実家から兄を追い出し、更地にすることを目指す

大木さんは、ゴミ屋敷状態となり、倒壊の恐れがある実家から兄を追い出し、更地にすることを目指すことにした。それに断固反対の兄と調停に踏み切ることにしたが、今年11月に不成立となり、現在審議中だ。

「母は、私に生きざまを教えてくれました。人を笑わすことが好きな母だったので、私は心から介護が楽しいと感じていました。また、ケアマネジャーや訪問医療、デイサービスなど、人にも恵まれました。合わない介護会社やサービスは早めに見切りをつけ、合うものを選び取っていったことも良かったと思っています」

大木さんには10年以上交際を続けてきたパートナーがいる。そのパートナーも、大木さんにとって力強い味方となった。2人は兄とのゴタゴタが片付いたら、結婚するつもりだ。

大木さんの場合、補聴器営業の仕事を介護離職したが、その後も何とか起業して自分のペースで働き続けられたことも、被介護者と介護者が適度に距離を保ち続けられる要因となって良かったのかもしれない。

手のひらにのせた補聴器
写真=iStock.com/Sensay
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Sensay

「私のように、介護をしながら起業する人はまれだと思いますが、ちょうどコロナで社会が停滞していたときで、仕事がうまくいかなくても言い訳ができましたし、コロナの補助金などもあって助かりました。現在介護で苦しんでいるみなさんも、自分のペースでお金を稼げるようにできないものかと思い、そのサポートができたらと思っています」

大木さんは補聴器店を経営する中で、自分の介護経験を活かし、聴覚ケアの早期介入についての活動を始めている。

「親の介護を全くしないで普通に生活していた人が、血縁関係があるだけで財産は平等に分配しろというのは理不尽です。納骨や一周忌を終える前に、心の癒える間もなく、容赦なくお金を奪いに襲い掛かってくる“ハゲタカ親族”は現実に存在します。失業保険のように、介護離職をした人には、再就職できるまでサポートできないものでしょうか。在宅介護をしている人への支援があったらいいなぁ、と卒業した今、私はそう思っています」

介護が終わったと思ったら、きょうだいとの相続問題に突入するケースは少なくない。相続問題を避ける一番の方法は、親が元気なうちに家族間で話し合いを重ねておくことだろう。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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