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なぜ関ヶ原の戦いはたった数時間で終わったのか…乱立する「徳川家康をめぐる新説」を解説する

プレジデントオンライン / 2023年5月14日 9時15分

徳川家康画像〈伝 狩野探幽筆〉(画像=大阪城天守閣/PD-Japan/Wikimedia Commons)

NHK大河ドラマの主人公、徳川家康が脚光を浴びている。歴史研究家の河合敦さんは「家康をめぐっては、次々と新説が出ている。三大危難といわれる『伊賀越え』は実は『甲賀越え』だったという説や、秀吉の生前に天下を譲られていたという驚きの説もある」という――。

※本稿は、河合敦『日本史の裏側』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。

■家康三大危難のひとつ「伊賀越え」

家康の人生は危機(どうする)の連続だったが、そのうち三大危難といわれるものが「三河一向一揆、三方ヶ原の戦い、伊賀越え」である。

伊賀越えというのは、本能寺の変のときの出来事だ。

天正10年(1582)6月2日、本能寺にいた織田信長は家臣の明智光秀率いる大軍に襲撃され、自刃を余儀なくされた。家康はこのとき信長の勧めで上方見物をしており、当日は堺を出て京都へ戻るところだった。そこに信長の訃報が飛び込んできたのである。

家康は京都に戻って知恩院で追腹を切ろうとしたが、家臣らの説得で思いとどまり、明智の魔の手から逃れ、伊賀を越えて領国三河へ戻る決意をする。

このとき同行していた京都の豪商で家臣の茶屋四郎次郎が先回りして金銭をばらまいて通行の安全を図り、伊賀の忍であった服部半蔵正成が伊賀の里で200名の忍を借り受けて警護につけ、無事、三河へ戻ったとされる。

■「伊賀は通過していない」という新説が登場

だが、半蔵正成は家康の譜代であり、伊賀出身だったのはその父・保長である。そうはいっても、伊賀の忍の力を借りたのではないかと思うかも知れないが、近年は伊賀などほとんど通過しなかったという新説が登場しているのだ。

前年、信長は次男・信雄を総大将にして5万の兵で伊賀へ攻め込み、多数を虐殺していた。ゆえに信長の同盟者である家康を生かして通すはずはない。そこで家康は、伊賀越えを避け、主に甲賀ルートを通過したという説が出てきているのだ。

とはいえ、いまだ家康一行のルートについては諸説あり、決定的な証拠があるわけではないが、甲賀越えはなかなか興味深い説だといえよう。

■秀吉の徳川征伐計画は巨大地震で断念

帰国後、家康は信長の仇討ちになかなか出陣せず、ようやく動き出したところで羽柴秀吉に先を越されてしまった。以後、秀吉が急速に織田家で力をもち、賤ヶ岳合戦で宿老の柴田勝家を倒して大坂城を築き始め、信長の後継者たることを明確にした。

重要文化財「豊臣秀吉像」(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵。〈伝 狩野光信筆〉
重要文化財「豊臣秀吉像」(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵。〈伝 狩野光信筆〉(画像=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

これに不満を持った信長の次男・信雄は、家康に支援を求めた。家康がこれに応じたことで天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いが始まる。長久手の戦いで家康は大勝利をおさめたものの、信雄が秀吉と単独講和したことで、兵を引かざるを得なくなった。その後、豊臣政権を樹立した秀吉は急激に勢力を拡大、家康との差は開く一方だった。それなのに家康は秀吉への臣従を拒み続けた。

このため秀吉は、妹の朝日姫を家康の正室に差し出し、さらに母親の大政所まで人質として家康のもとに送り、どうにか臣従させたといわれる。ただ、じつは当初、秀吉は家康を懐柔するつもりはなかった。徹底的に潰そうと考えていたのだ。

秀吉が真田昌幸に宛てた書状を見ると、秀吉は天正14年(1586)正月を期して大兵力を動員し、徳川征伐を断行すると宣言している。だが、それからわずか10日後(天正13年11月29日)、現在の中部・近畿地方にまたがる巨大地震が発生、膨大な被害が出たのだ。このため秀吉は、徳川征伐計画を断念せざるを得ず、懐柔策に転じたというのが真相なのだ。

■秀吉が家康に「江戸城拠点」を命じたワケ

天正14年秋に秀吉に臣従した家康は、以後は豊臣政権の忠実な重臣として活動する。

天正18年(1590)7月、秀吉は小田原の北条氏を倒して関東を平定したが、これより前、家康は父祖の地を収公され、関東へ移封を命じられた。しかも、100年栄えた小田原城ではなく、江戸城を拠点とするよう秀吉から指示されたのである。

巷説(こうせつ)では「秀吉が家康を警戒し、わざと大坂から離れた辺鄙な東国へ遠ざけ、寒村の江戸に追いやったのだ」といわれてきたが、近年、江戸は寒村などではなく水陸要衝の地であったことがわかってきた。

また、秀吉が家康を関東に配したのは、北条氏が滅んで動揺している関東地方を安定させるため、さらに、完全に豊臣政権に伏していない東北諸大名への対応を期待したという説が出てきている。

■秀吉は生前、家康に天下を譲っていた?

慶長3年(1598)、豊臣秀吉が死んだ。跡継ぎの秀頼は、まだ6歳の幼児である。そこで秀吉の遺言に従い、五大老・五奉行による集団指導体制が敷かれた。ところが家康は豹変(ひょうへん)し、他の大名と次々と縁戚関係を結び、論功行賞をおこなうなど勝手な行動を始めたのである。これは、あえて豊臣政権を混乱・分裂させ、反対派を武力で倒して政権を奪おうとしたからだという。

この通説に関して、近年、驚きの新説がある。高橋陽介氏によれば、すでに生前、秀吉は家康に天下を譲っていたというものだ。もちろん、秀頼が成人した暁には権力を手放すという約束のうえではあるが……。ともあれ、天下人として振る舞おうとした家康に対し、毛利輝元や石田三成が強く異をとなえ、五大老・五奉行による合議制にすべきだと主張した。そこで違約に驚いた家康が、権力の奪取に動いたのだというのだ。

慶長5年(1600)6月、五大老の上杉景勝に謀叛の疑いがあるとの情報が入った。真偽を確かめるため、家康は景勝に上洛を要求したが、上杉側はこれを拒否。そこで家康は、5万7千の兵を率いて会津征伐へ向かう。この行動は秀頼も了解しているので、豊臣正規軍としての出陣だった。しかし下野国(現在の栃木県)小山まで来たとき、家康は石田三成の挙兵を知った。

■「小山評定」はそもそもあったのか論争

家康は武将たちを集めて会議を開き、その去就は各自に任せた。すると三成を嫌う福島正則は「私は徳川殿に味方する」と発言、さらに山内一豊が「居城の掛川城を徳川殿へ差し出す」と述べたので、全員が家康に味方することを誓い、そのまま西上していった。

だが近年、こうした通説に対し、そもそも軍議(小山評定)があったかどうかについて論争が起こっている。なんと、正則は軍議当日、小山(現場)にいなかったと主張する白峰旬氏のような研究者もいる。また、確かに軍議はあったものの、その場所は小山ではないという学者もいる。

■家康が「賊軍の将」に転落した真相

通説では、石田三成は五大老の毛利輝元を大将に仰ぎ、同じく大老の宇喜多秀家、大坂城にいた3人の奉行(増田長盛、長束正家、前田玄以)なども味方につけたので、西軍は10万の大軍になったといわれてきた。

けれど近年、当初は石田三成と大谷吉継の2人だけの小規模な挙兵にすぎなかったので、武将たちは即座に家康の味方になることを誓ったのだという説が登場してきた。

ところがその後、毛利輝元が積極的に家康打倒計画に加担し、自ら秀頼のいる大坂城に入って玉(秀頼)を握ってしまったので、それまで家康方だった淀殿と三奉行も輝元に味方することを決めた。かくして、大老たちや三奉行の署名の入った、家康の違法の数々をあげつらう「内府違いの条々」が作成され、それが諸大名に送付された。この結果、輝元が官軍となり、家康は賊軍に転落してしまったのだと考える学者が多い。

よろい姿で馬に乗る人
写真=iStock.com/Josiah S
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Josiah S

■家康の必死の多数派工作が奏功した

このため、7月末から8月末まで家康は江戸から動けなくなってしまう。本当に賊になった自分に対し、西進する東軍(家康方)諸大名が味方してくれるかを見極める必要があったからだ。なお、江戸にいた時期、家康は劣勢を挽回するため、敵味方の別なくひたすら手紙を書き、多数派工作に全力を尽くした。

ちなみに先発した東軍大名たちは、難攻不落と思われた西軍の岐阜城をあっけなく落としてしまった。このため家康は急いで9月1日に江戸を離れた。だが、中山道から西へ向かっている別働の秀忠軍が遅れていると知る。最終的に家康は彼らの到着を待たずに、天下分け目の戦いに突入していったのである。

関ヶ原合戦は、たった数時間で決着した。それは、西軍の吉川広家をはじめ半数以上が戦いを傍観したことが一因だった。家康の離間工作が功を奏したのだ。ただ、最大の要因は、松尾山に陣をかまえていた西軍の小早川秀秋が戦いの最中にいきなり味方に攻め込んだことだといわれる。

■関ヶ原合戦の真相にはまだ辿り着けていない

河合敦『日本史の裏側』(扶桑社新書)
河合敦『日本史の裏側』(扶桑社新書)

ところが近年、秀秋は開戦前から東軍として陣を敷いており、最初から東軍として戦いに参加したという説が登場している。さらには、関ヶ原合戦の前日、松尾山の秀秋が東軍に寝返ったと知った三成が、その近くに布陣していた大谷吉継を救うため、大垣城を出て関ヶ原へ向かい、それを家康ら東軍が追いかけるかたちで天下分け目の合戦が始まったという新説もある。

また、実際の戦いは関ヶ原ではなく、ずっと西側に位置する山中という地域が主戦場であったとか、じつは関ヶ原には西軍によって玉城という巨大な城がつくられており、本当はそこに秀頼や輝元を迎えて東軍と雌雄を決するつもりだったなど、まさに関ヶ原合戦は新説の嵐のような状況になっている。

いずれにせよ、関ヶ原合戦で家康は天下を握ったのである。そう言いたいところだが、それから幕府を開くまで3年もかかっている。これも、徳川の主力である秀忠軍が参加できず、戦功は外様ばかりが挙げたので、関ヶ原合戦では家康は政権を握るまでに至っていないと考える学者もいる。

このように家康をめぐっては、新説の乱立状態なのである。

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河合 敦(かわい・あつし)
歴史研究家・歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

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(歴史研究家・歴史作家 河合 敦)

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