「古事記」も「源氏物語」も実は読解不能だった…日本語学の専門家が絶賛する「研究者・本居宣長」のすごさ
プレジデントオンライン / 2023年5月24日 15時15分
※本稿は、山口謡司『面白くて眠れなくなる日本語学』(PHP)の一部を再編集したものです。
■「係り結び」を発見した
①失われた係り結びの「発見」
本居宣長の全集を読みふけったことがあります。
この人は、毎日、勉強していて楽しかったのだろうなぁと思いました。勘は鋭いし、具体的なことから抽象的なことを読み取る力も優れているし、一緒に話したら楽しいだろうなぁと思って、頁を捲ったのでした。
さて、宣長のすごい業績は、三つあります。
ひとつは、古典研究についてです。なんと言っていいのか分からない、ことばにしてしまうと失われてしまうかもしれない、日本的な情緒を「もののあはれ」ということばで表すことができたからです。
二つめは、日本語の文法についての研究、三つめは漢字音研究です。
さて、本居宣長の日本語の文法の研究の中心は、「係り結び」と「活用」です。「係り結び」は高校の古典で習いましたね。「ぞ、なむ、や、か」という「係り助詞」があると文末の活用形が連体形になる。「こそ」があると已然形になる。
これを発見したのは、本居宣長です。
■古代日本人思考を知るカギだった
我々がいわゆる「古典」で習う『伊勢物語』『源氏物語』など平安時代までは「係り結び」があるのですが、南北朝から室町時代には、ほとんど見えなくなってしまいます。室町時代とは謡曲や狂言などの芸能が勃興する頃です。
なぜ、係り結びがなくなったかということについては、いろいろな説がありますが、私としては古代の論理構造が崩壊してしまったからだと考えています。「近世」という新しい時代を迎えるために、日本語はそれなりの論理を成せる文法が次第に組み立てられることになったのです。
宣長は、すごい人です。『古事記』まで遡って、古代日本人の思考方法がどのようなものだったのかを探究していくのですが、その時、文法の「係り結びの法則」が古代人的思考のカギであることに気がつくのです。
たとえば、『伊勢物語』(「筒井筒」)にこんな文章があります。
昔田舎渡らひしける人の子ども、井の許(もと)に出でて遊びけるを、大人になりにければ、男も女も恥ぢ交はしてありけれど、男はこの女をこそ得めと思ふ。
女はこの男をと思ひつつ親の会はすれども聞かでなむありける。
こそ→得め
なむ→ける
■「強調が入ると文末が変わる」
ふつうだったら、「この女を得む」「聞かざりき」となるはずなのですが、「こそ」や「なむ」などの強調する助詞を入れることで、文末の動詞も変わってしまうではないか! と、宣長は気づくのです。
同じようなものが、『伊勢物語』の「芥川」にもあります。
白玉か何ぞと人の問ひし時 露と答へて消えなましものを
我々は「ぞ」が係り助詞ということを知っているので、「ぞ」がどこに係るのかなぁと思って「問ひし」にの「し」を導き出すことができます。「白玉か何かと人の問ひき時」となるはずの本文が、「何ぞ」の「ぞ」の影響を受けて「問ひし」となっているのです。
宣長のすごさは、この文法に対する視点が異常に発達していたこと、そして同時に動詞など用言の活用が「普通の文章の場合」と、「係り助詞が使われた場合」とで異なっていて、どの活用に合致するという用例を集めて、それを検証したことなのです。
■「祖国のすばらしさ」にふけっていたわけではない
②日本の文化・文学≠国学
日本という祖国、母国をぼくはとても尊く思いますが、万世一系とする天皇による国家統治をわが国の歴史の特色とし、『古事記』や『日本書紀』を歴史的事実とする「皇国史観」の持ち主ではありません。
別に自分の思想を語るために、この文章を書こうとしているわけではありませんが、本居宣長という人を、「皇国史観」の立場から「すごい!」と書いているのではないということを知ってほしいからなのです。
皇国史観の人たちは日本の文学や日本の文化や文学、神道に関する学問をよく「国学」と呼び、本居宣長の学問は「国学」の粋だという言い方で顕彰します。
宣長は「まぁいいけどさ」と言いながら、首を傾げているのではないかと思うのです。
じつは、宣長は、「皇国の事の学をば、和学或いは国学などという習いなれども、そはいたく悪き言いざま也」(『うひ山ぶみ』)と言っているのです。
また「和学国学などというは、皇国を外にしたる言いよう也」(同書)とも書いています。
それでは、日本の古典研究は何と呼ぶのが相応しいと、宣長は考えたのでしょうか。
「古学」です。
■『古事記』の研究に35年間を費やした
では、「古学」に宣長は何を求めたのでしょうか。
「すべて後世の説にかかわらず、何事も古書によりて、その本を考え、上代の事をつまびらかに明らむる学問也」
目的は、『古事記』なら『古事記』の本文によって、『古事記』の時代のありとあらゆることを分かるように探究するというのです。
今まで伝わる『古事記』の本を可能な限り集めます。断簡があるかもしれませんし、古い記録に引用されている本文もあるかもしれません。そして、どれがもっとも『古事記』の著者・太安万侶が書いた当時の本文に近いのかを検討していきます。そのためには太安万侶がいた時代の日本語がどのようなものであったのかを知る必要があります。
宣長は、具体的に太安万侶がどんな日本語をしゃべっていたかを音声として復元することはできなかったと思います。ただ、すでに触れた「係り結び」と活用の関係のように、『古事記』には、宣長の時代にはすでに失われてしまった日本語の書記方法に法則があったことを発見しています。
のちに「上代特殊仮名遣い」と呼ばれるものです。宣長は、『古事記』の研究に35年を費やしています。『古事記』を読んで、「神代の時代から天皇家を中心に、わが国は素晴らしい国だったのだなぁ」と感慨に耽けっていたわけではありません。『古事記』から、『古事記』の時代の日本語と、その日本語によって記された現象と事実を再構成しようと考えていたのです。
■『源氏物語』から「もののあはれ」を発見した
同じような作業を、宣長は『源氏物語』に対しても行っています。『源氏物語』『紫文要領』『源氏物語年紀考』など、宣長は『源氏物語』も40年ほど研究しています。
そうして、「もののあはれ」というものを発見するのです。
儒教、仏教渡来以前の日本人独特の思考方法、情緒だと説明されていますが、宣長は『石上私淑言』に「見る物聞く事なすわざにふれて情こころの深く感ずる事」を「あはれ」と言うと記しています。
ことばでは表せない「何か」であって、それは古書を深く研究し、読み込んで初めて感じる「私淑」するような思いなのではないかと思うのです。
もし、タイムスリップすることができたとすれば、たった一夜でいいので、本居宣長先生に会って、どうすれば古い時代の本が本当に読めるようになるのか、訊いてみたいと思うのです。
■書き分けがあるのは「お」と「を」だけではなかった
③古代の日本人は多様な音を聞き分けていた
本居宣長は、『古事記』を読み解きながら、儒教や仏教などが浸透していない古代日本の人々が物事や季節をどう感じていたのだろうかということを研究します。
さて、古代の日本人は、現代人より多くの多様な音を聞き分け、書き分けていました。これは現代の言語学、日本語史研究から明らかになったことなのですが、宣長も少しだけ、そのことに気がついています。
このことが明らかにされたのは、東京帝国大学文科大学言語学科を卒業後、のちに同大学国語国文学第一講座教授となった、橋本進吉(1882~1945)によってです。
比較言語学(歴史言語学)と呼ばれる言語変化の法則を研究した橋本は、『古事記』『日本書紀』『万葉集』に使われる漢字の使い分けから古代日本語を遡及していきました。
そして、「キ・ギ・ヒ・ビ・ミ・ケ・ゲ・ヘ・ベ・メ・コ・ゴ・ソ・ゾ・ト・ド・ノ・モ・ヨ・ロ」は、それぞれ二種類の音が聞き分け、書き分けされていたということを発見するのです。
現代の我々が「お」と「を」を聞き分け、書き分けしているのと同じです。「お」と「を」はほとんど同じ音に聞こえますが、「お」のほうは明るい感じがしますし、「を」は反対にくぐもった暗い感じに聞こえます。
「お」と「を」と同じように、上に挙げた二十の音も対になって明るい音と暗い音で聞き分け、書き分けがされていたという言語学史上の大発見なのです。
■100年も前に仮説を立てていた
しかし、橋本は、こうした古代日本語の比較言語学研究を行いながら、しかし、自分より前に、このことに気づいていた人がいたということを発見します。
本居宣長です。
宣長は、明るい音とくぐもった暗い音の対で二つの音が聞き分け、書き分けされていたということには気がついていません。なんとなく、違う書き分けがされているらしいということに気づいているだけです。
そして弟子の石塚龍麿(1764~1823)に、この書き分けの研究をしてみたら、というようなことを教えたのではないでしょうか。龍麿は、『仮名遣奥山路』というタイトルで、その書き分けを分類した本を遺すのです。
橋本進吉は龍麿のこの本を入手し、宣長と龍麿が、まさに自分がやろうとしてきたことを、百年も前にやろうとしていたことを知り、びっくりするのです。
学問は、進化します。心理学、脳神経学、脳科学などさまざまな分野から、今後も古代人の思考方法や言語の聞き分け、書き分けなどが明らかにされていくことでしょう。とっても楽しみです。でも、学問を進化させるのは、「仮説」です。大きな仮説があって初めて、研究は進んでいくのです。
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大東文化大学教授
1963年、長崎県生まれ。大東文化大学文学部卒業後、同大学院、フランス国立高等研究院人文科学研究所大学院に学ぶ。ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員などを経て、大東文化大学文学部中国文学科教授。専門は、文献学、書誌学、日本語史など。著書に、『日本語を作った男 上田万年とその時代』(集英社インターナショナル)、『ステップアップ0歳音読』(さくら舎)、『眠れなくなるほど面白い 図解論語』(日本文芸社)など多数。
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(大東文化大学教授 山口 謠司)
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