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「妻は毎晩コタツで爆睡」彼女が1日も切れたことのないモテ男が結婚して天を仰いだしょっぱい女性教員の本性【2022編集部セレクション】

プレジデントオンライン / 2023年5月10日 8時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/west

2022年下半期(7月~12月)にプレジデントオンラインで配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします――。(初公開日:2022年8月27日)
結婚して、ひとつ屋根の下に暮らしたら伴侶には「別の顔」があり戸惑った。そんな夫婦は少なくない。50代の男性会社員は高校時代から20代にかけて彼女がいない時期がなく、常時複数人と交際。結局、28歳で女性教員と入籍したが、寝食を共にするうちに妻の行動の一つひとつに違和感を覚え始めたという――。(前編/全2回)
ある家庭では、ひきこもりの子供を「いない存在」として扱う。ある家庭では、夫の暴力支配が近所に知られないように、家族全員がひた隠しにする。限られた人間しか出入りしない「家庭」という密室では、しばしばタブーが生まれ、誰にも触れられないまま長い年月が過ぎるケースも少なくない。そんな「家庭のタブー」はなぜ生じるのか。どんな家庭にタブーは生まれるのか。具体事例からその成り立ちを探り、発生を防ぐ方法や生じたタブーを破る術を模索したい。

今回は、10年以上前に熟年離婚を計画し、実行するに至った50代男性の事例を紹介する。彼の家庭のタブーはいつ、どのように生じたのだろうか。タブーのはびこる家庭という密室から、彼はどのように逃れたのだろうか――。

■モテ男子

現在、中部地方在住の狩野遼さん(仮名・50代)は、警察官の父親、専業主婦の母親のもとに、長男として誕生。警察官の父親は、狩野さんいわく、「家族に優しく自分に甘く、長男である自分に対してとりわけ厳しい人」で、「地球上で一番キライな人間」だった。

一方、専業主婦の母親は、父親の狩野さんに対する神経質な対応や、厳しい仕打ちから何かとかばってくれる優しい人。4歳下の妹とは、周囲からうらやましがられるほど仲が良かった。

小学校に上がった頃、すでに「何となく同級生を幼く感じた」という狩野さんは、中学生になると、身長は170センチを超え、スポーツは人並みだが成績は常に学年で10位以内をキープしていたことから、女子にモテ始めた。

やがて高校は県内で一番の進学校へ。男子校だったため、登下校中に何人もの女子から直接アプローチを受けたり、手紙をもらったりするように。

異性を好きになる絶対条件が、「相手が自分を好きであること」だと語る狩野さん。だが、高校が男子校だったため、同年代の異性との接触は登下校時しかない。登下校時に「いいな」と思う女性はいたが、その女性が自分を好きかどうかはわからないため、自分から告白することはなかった。

高校1年のバレンタイデー。いくつかチョコレートをもらい、その中の1人の女子と交際をスタート。やがて童貞を捨てたのが高2年の秋。大学入学までは交際していたのはその1人だけで、他の女性とはお茶を飲んだり食事をしたりする程度の清い付き合いだったという。

彼女と別れたのは大学1年の夏。男子校から大学に進学した途端、周囲に異性がいる環境に浮足立った狩野さんから別れを切り出したのだ。

「今振り返っても、その時の彼女が人生で一番好きな子でした。でも、私が女性に一番求めるのは、『私を好きでいてくれること』です。その点では彼女に不満は一切ありませんでしたが、他にもっと私を好きになってくれる女性が現れると、私は揺れました。付き合っているときはどの女性も好きでしたが、私自身がその女性のことをどれくらい好きだったかが分かるのは、いつも別れてから。このことは、50代になった今も変わらないのが、私の愚かなところなんでしょうね」

そんな狩野さんは、高校1年の2月から結婚まで、彼女が1人もいなかった日は1日もなかったという。

■派手に遊んだ大学時代

大学の同じクラスには、女性が20人ほどいた。入学から卒業までにそのうちの4人と付き合い、さらに他の学科・学部や、先輩、後輩とも交際した。

「当時の私は、『世の中の女性の最低5人に1人はモノにできる』と自信を深めていました。自慢話のようですが、私がこれまで付き合った女性は、全員向こうからアプローチしてきたので、私はその中から好みの女性を選ぶだけ。『俺が付き合ってくれと言ったわけじゃない』『嫌なら別の子と遊ぶよ』『俺が○○と付き合ってるのは知ってただろ?』『モテない男が好きなの?』……全部本当に女性に言った言葉です」

女性に不自由しなかった狩野さんは、デート代はもっぱら女性持ち。代わりに車とギャンブルに金を注いだ。地元国立大に現役合格し、自宅から通っていた狩野さんは、親が新車を買ってくれていたのだ。車にかけるのは維持費と改造費。ギャンブルで一番ハマったのは麻雀だった。

「もちろん、『デート代を払ってくれ』と言ったことはありません。誘われても、「今金がない」と言えば、向こうが払ってくれていたんです。当然、私が誘った時は私が払っていました」

最近でこそ、交際する男女でも割り勘が増えているが、当時はまだ、「男性が女性に金を出させるなんて!」という風潮があった。にもかかわらず、女性から引く手あまただったという狩野さんの異常なモテぶりがうかがえる。

それぞれマグカップを手に向かい合い、話し合いする男女
写真=iStock.com/fizkes
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/fizkes

「当時はDCブランドブームなんてものもありまして、アルバイトで稼いだ金で、ずいぶん服を買いました。地方都市の大学で、周りはあか抜けない野郎ばかりだったので、ファッション誌に出てくるようなカッコをしていた私は目立ったようです」

大学4年のときの彼女が某ファッション誌に狩野さんを推薦し、掲載されたこともあったという。

■妻との出会い

そんな狩野さんの遊び相手の1人が、同学年の妻だった。

妻との出会いは大学2年のとき。妻から食事に誘われ、狩野さんの車での移動中に事故を起こした。当時、別に交際していた女性がいたが、事故をきっかけに2股がバレて気まずくなり、狩野さんから女性への連絡を断った。

「なので、1人空きができたといいましょうか……。妻から告白されて付き合い始めました。私のせいで事故を起こしたのに、それがきっかけで妻と会うのをやめるのも気が引けたような記憶もあります」

狩野さんはその後も常時複数の女性と交際していたが、それでも妻は離れていこうとしなかった。狩野さんは、「何があってもキープしておける女性という安心感」もしくは、「いざとなっても妻がいるという甘え」があったと振り返る。

若い男女がカフェでデート
写真=iStock.com/clownbusiness
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/clownbusiness

「もちろん好きでない女性とは付き合いませんが、“その時目の前にいる女性が一番好き”というフザケた男だったことは否定しません。若い頃ですから、人並みの性欲はあったはずですが、複数の女性を相手にしていればそれなりに満たされます。女性たちにしてみれば会う度に求めてくるわけでもない男、ということでかえって評判がよかったんだと思います」

女性の扱いには自信があった狩野さんだが、結婚願望は皆無。「気に入った女性と毎日一緒にいられれば楽しいだろうな」くらいにしか考えていなかった。女性に手料理を振る舞ってもらうような家庭的な行為を好まず、女性と会うときは必ず外食だった。

大学を卒業すると、狩野さんは教員に。しかし2年で転職した。当時付き合っていた妻が、「A社が社員募集してるよ、新卒じゃなくてもいいんだって」と知らせてくれたため、「じゃ、受けてみるか、応募しといてくれ」と、丸投げ。無事、選考が通り、採用が決まったのだ。結果、待遇がよくなると、狩野さんの女遊びはさらにエスカレート。それでも妻は離れていかなかった。

■結婚を決めた理由

妻との交際期間も約8年が経過した28歳のとき、妻の母親が大腸がんになった。妻は、「もう手遅れで、回復の見込みはない」と泣いた。そのとき狩野さんは、「お母さんに、お前の花嫁姿を見せてやろうか?」という言葉が自然に出ていた。

喜ぶと思った狩野さんだが、妻は、「慌てて結婚したら、がんだと悟られちゃう」と顔を曇らせたため、「あれ?」と思った。

しかし、「本人がそう言うなら……」と思い、結婚の話を積極的に進めようとはしなかったところ、その約3カ月後に妻の母親は息を引き取ってしまう。

深夜2時ごろ、妻から電話がかかってきて、目を覚ました狩野さんが出た途端、「母が今、息を引き取りました」と言う妻。

「……残念だったね、ご愁傷様です」

何と声をかけたらいいのか、頭をフル回転して振り絞ったものの、それ以上言葉が出てこない。すると妻は、「何も言ってくれないならもう切るね」と言って電話を切った。

受話器を持ったままの狩野さんは、「俺が悪者かよ」とつぶやいていた。

それでも、それから2人は結婚に向けて具体的に動き始める。妻は結婚に対して強いこだわりがあり、中でも、ウエディングドレス選びには時間を割いた。狩野さんを連れてはるばる東京にまで足を運び、何軒もショップを見て回り、最終的にはレンタルでなく購入することにした。

ハンガーに掛けられたウェディングドレスの数々
写真=iStock.com/Jaengpeng
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Jaengpeng

幸せ絶頂と思いきや、妻はマリッジブルーになるなどの紆余(うよ)曲折があった。

「もともと私は結婚を望んでいなかったのですから、(マリッジブルーに関しても)『あー、そうですか』と放り投げてしまえば良かったのですが、なぜか彼女をなだめてしまいました。たぶん周りに結婚すると言ってしまったのに『やっぱりやめました』というのは、『カッコ悪いな』と思ったのだと思います」

■結婚式から新婚生活まで

「披露宴はしない」というのが妻の希望だったため、友人たちには連絡をしなかった。ただ、教会での挙式の後、ライスシャワーは友人たちがやるものだとプランナーに言われ、狩野さんは親しい友人に連絡を入れることに。

友人は、狩野さんが結婚すると聞いて、「結局あの子かよ」と笑った。

ライスシャワーの件を話し、「何人かに出てもらいたいから、お前、適当にみつくろって連れてきてくれないか」と狩野さんが頼むと、友人は「こういう時に『適当』とか『みつくろう』って言葉使うか? お前らしいな」と言って電話を切った。

教会から出てきた二人に、ゲストがバラの花びらを投げて終わる結婚式。
写真=iStock.com/tomazl
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/tomazl

そして、狩野さんも妻も29歳の1991年1月、結婚式当日。ウエディングドレス姿で現れた妻を見た途端に出た、狩野さんの正直な感想は、「女の一番きれいな瞬間がコレかよ……」だった。

狩野さん夫婦は、結婚式の2カ月後に入籍。式直後にしなかったのは、教師をしていた妻が年度の途中で名字が変わるのを嫌がったためだ。

「正直、『何考えてんだこいつ?』と思いました。ただ、今考えれば、挙式後も結婚を回避する余地が2カ月もあったというのに……。残念です」

と狩野さんは悔やむ。

新婚生活までも、挙式から約2カ月かかった。挙式前から新居選びを始めていたが、妻が気に入る物件がなかなか見つからなかったのだ。

1991年3月。ようやく引っ越しの日を迎えた。妻はちょうど春休みに入っており、比較的時間には余裕があった。引っ越しは、狩野さんの父親と妹、近所に住む妻の叔父夫婦が手伝ってくれた。だが、「ガステーブルを買ってからくる」と言っていた妻が、一向に現れない。

結局妻が現れたのは、引っ越しが全て終わった後だった。

「夫婦2人だけの引っ越しなら気にしませんが、家族や親戚に手伝ってもらっておきながら、本人が来ないなんて信じられません。私は女性に関してはだらしない男ですが、その他は常識人のつもりですので、当然その場で妻を叱りつけました」

すると妻は、「ゴメン、ゴメン。……えっと、5回ぐらい言えばいい?」と平然と言い放つ。狩野さんは、あきれてものが言えなかった。

■新婚生活

新婚生活が始まったものの、気づけば玄関やトイレ、浴室以外の部屋に照明がなかった。

不便に感じた狩野さんが妻に、「なんで買わないの?」と訊ねると、「カーテンがないから、外から見えちゃう」。

「それならそれでさっさとカーテンを買えばいいものを、何かこだわりがあるらしく、妻はなかなかカーテンを買ってきません。ちなみに、2階一番奥の角部屋だったので、私たちの部屋をのぞける3階以上の建物は、周囲には一軒もありませんでした」

不便さに耐えきれなかった狩野さんは、暫定措置として実家から照明を借りてきて、アパートの照明を買うまでしのいだ。

ところが、妻と同居してから狩野さんが最も驚き、あきれ果てたのは、妻がほとんど布団で寝ないことだった。

「習慣というよりすでに習性の域だと思いますが、妻は朝までコタツで寝ます。私がだらしないのは女性に対してだけなので、こんな生活をする人間がいるなんて知りませんでした。彼女に言わせれば、『毎日疲れているからつい寝てしまう』とのことなのですが、座布団一枚敷いただけで、着替えもせずに朝までコタツで寝ていれば、疲れなんか取れるはずがありません。私にはそのだらしなさが不快でたまりませんでした」

炬燵の中
写真=iStock.com/ahirao_photo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ahirao_photo

ある晩、コタツで寝る妻が狩野さんの足に絡みついてきたときに、「布団で寝ろよ」と狩野さんが言ったところ、急にむくりと起き上がり、「毎日監視されてるみたい」と吐き捨てて寝室へ行った。

「(妻を)不快に思っていたのは間違いないので、私の言葉に険があったとは思います。しかし、妻を監視するなんてそんな発想すら私にはないですが……。私が妻に関して知らなかった面を毎日のように見せつけられたのと同様、私も妻にいろいろ見せていたのでしょうね……」

さらに、こんなこともあった。

同居開始数カ月で妻が、「楽しくない」と言ったのだ。読書が好きで、リビングで本に目を落としていた狩野さんは、「結婚なんてこんなもんじゃないの? よそがどんなふうなのか聞いてきてよ」とだけ言って、続きに目を落とした。

「妻が求めていた楽しさがどんなだったのかはいまだに分かりませんが、当然私も楽しいわけではありませんでした。今考えれば結婚に楽しさなんて求めていなかったんだと思います。たまのデートなら女性を飽きさせない自信はありますが、24時間365日はしゃいでいる人間なんているわけがありません」

狩野さんは結婚後、妻以外の女性とは一切接触しなくなっていた。それまでの行動を思えば驚くべきことだった。風俗へ行ったことも、行きたいと思ったことも一度もなかった。

■コミュニケーション不足夫婦

結婚して半年が過ぎた頃、小学校教師である妻は、学校行事のため数日不在に。妻が帰ってくる日、狩野さんは「疲れてるだろうな」と思い、ベッドを整え、風呂の準備をして待っていた。

すると20時ごろ、妻が帰宅。

「じゃ、ご飯を食べに行こうか」と狩野さんが言うと、「あ、食べてきちゃった」と妻。事前に連絡なしの行動にカチンと来た狩野さんは、「お前はそういうヤツだよ」と言い捨ててコンビニへ。

弁当を買い、狩野さんが1人で食べていると、「いい気にならないでよね」と妻が言い捨てて浴室へ行った。

のちに、妻が夕食を取ってきたのは実家と知った。妻の実家と自宅は、妻が勤める小学校から見て反対方向。学校には遅くとも18時前には着いたはずで、学校からでも実家からでも、連絡をする時間は十分あった。

当時の小学校は、土曜日も午前中だけ授業が行われた。狩野さんの勤め先は土曜日は休みだったため、いつも狩野さん一人、家で昼食を摂っていた。だが、その日は珍しく妻が朝、「今日はお昼を一緒に食べようね」と言って出かけて行ったので待っていた。

ところが、妻が帰って来たのは16時頃。さすがに妻は「ごめんね」と言ったが、この時も電話一本よこさなかった。

さらに、妻の勤める小学校の運動会の振替休日。「せっかくの平日休みだからどこか行こうよ」と妻に言われ、狩野さんは休みを取った。

その当日。いくら待っても妻は起きてこない。昼まで待ったが、しびれが切れた狩野さんは、午後から仕事に行こうとスーツに着替える。するとようやく妻が起きてきて、「あれ? 仕事に行くの? じゃあ、私は映画でも見に行こうかな」と言う。

「『おいおい、待ってくれよ』と思いました。私は仕事が忙しい時だったのに、ムリに休暇を取ったんです。疲れていたのだとは思いますが、それにしても夫に対する気遣いはないのでしょうか……?」

狩野さん夫婦は、どうしてこうもギクシャクするのだろうか。

狩野さんはこの後、何がきっかけで妻と離婚しようと思ったのだろうか。そして、いつ、どのようにして、狩野家にタブーが生まれたのだろうか。(以下、後編へ続く)

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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