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だから家康は天下をとれた…武将としては凡庸だった家康が、恐るべき才気を発揮した「人心掌握」のウラ技

プレジデントオンライン / 2023年5月14日 13時15分

徳川家康像(写真=CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

なぜ徳川家康は天下統一できたのか。作家の加来耕三さんは「自分自身が凡庸だと理解していたからこそ、大胆な人事登用ができた。一度は自分を裏切った部下を、ここ一番で採用するという胆力は、並外れたものだといえる」という――。(第3回)

※本稿は、加来耕三『徳川家康の勉強法』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■信長亡き後、家康を襲った最大の危機

家康が本能寺の変を知ったのは、偶然の出来事からだったようです。

まさにその日の午後、信長と会談する予定でいた家康は、家臣の本多忠勝を先触れとして、京に向けて先発させたのですが、その途上、“変”を家康に知らせようとした京の商人・茶屋四郎次郎と、忠勝がばったり途中で出会ったのでした。

2人はそのまま街道を南下し、家康に急を知らせました。

こうして、本能寺の変の後、わずか8時間ほどで、信長の死は家康の耳に届いたのです。これが不幸中の幸いでした。

一時は「俺はここで腹を切る」とまで気を動転させた家康ですが、家臣たちのアドバイスもあり、正気を取り戻すと、ただちに帰国の行動に移りました。

このあたり、頭の切り替えの早さも、家康の勉強の成果といえるかもしれません。

選択肢は、一つだけ。一刻も早く、自らの領国へ逃げ帰ることです。

とにかく、三河へ――。

帰国を急ぐ理由は、光秀の軍勢による襲撃だけではありません、光秀から出るであろう賞金目当てに、地侍(じざむらい)や農民、野盗たちが襲ってくる危険があったからです。

多少目端(めはし)の利(き)く人間なら、光秀のもとに家康の首を持っていけば、多大の恩賞が得られることはわかっていたでしょう。

■なぜ海路ではなく、陸路を選んだのか

飢えた狼の群れの渦中にいる家康は、まさに、「死地」のまっただ中――。

問題は自領・三河へのルートです。この時、家康は、信長との会見のため堺を出て、河内国飯森(いいもり)というところまで来ていました。

一つは堺に戻り、船を仕立てて紀伊半島をぐるりと回り、伊勢湾から三河湾を目指すコース。今一つは、このまま京の南を突っ切って伊賀国に入り、山道を抜けて伊勢湾に出るコース。

困難がより多く予想される、伊賀越えのルートを家康が選んだのは、幼少期に人質として駿河に送られるはずが、船に乗せられて尾張に拉致された、苦い思い出がよみがえったからかもしれません。

船はいったん海に浮かべば、どうなるかわかりません。船頭の思惑一つでどうにでもなってしまいますし、明智方の水軍に襲われれば海の上では、一巻の終わりです。

一方、険しい伊賀超えには、わずかな可能性がありました。

そこは、家臣の服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさなり)の先祖の生地でした。しかし信長が伊賀攻めを行い、完膚なきまでに武力で鎮圧したことから、家康を同類とみなして、襲ってくる懸念もありました。

■200名の部下が犠牲に

いずれにせよ、絶体絶命のピンチ――家康もまさか、こんな事態になろうとは夢にも思っていませんでしたから、連れていた家臣は、ごくわずかなものでした。

酒井忠次、石川数正、本多忠勝、榊原康政、本多重次、天野康景、高力清長、大久保忠佐、大久保忠隣、服部半蔵――少数でしたが、一面、そうそうたる顔触れ、まさに徳川家臣団のオールスターキャストですが、もし彼らを道中、危機に遭遇して失うようなことになれば、家康が生き残っても、徳川家の屋台骨はたちまち壊滅してしまったでしょう。

いろいろと考えた結果、家康は陸路=伊賀越えを選びました。

問題の道程ですが、本能寺の変の当日夜には山城国宇治田原(うじたはら)に着き、翌6月3日には南近江路を通り、近江国信楽(しがらき)に至り、4日には甲賀衆、伊賀衆を味方につけ、ついに伊賀越えを果たします。

伊賀国白子(しろこ)より船便にて三河国大浜へ上陸し、無事岡崎城に帰還しました。

「神君伊賀越え」と後世に呼ばれるこの道中で、家康が率いていた兵のうち200余りが討たれたといいます。まさに、命からがらという表現がぴったりの逃避行でした。

家康一行とは別ルートで帰国を試みた武田家の穴山梅雪は、宇治田原で地元民の「一揆」により、生命を落としたことが『信長公記(しんちょうこうき)』に書かれています。

『三河物語』は、梅雪が家康と行動を共にしなかったのは、家康を疑ったためだ、と述べていました。

■家康にとって生涯の不覚といえる出来事

その生涯で、ときに最大の危機と呼ばれたものを、辛(から)くも乗り切り、帰国した家康は、叛臣・光秀を討つべく、6月14日に京に向けて軍を起こしますが、尾張国鳴海(なるみ)まで来た時、羽柴秀吉が山崎天王山(てんのうざん)で光秀を討った、との報(しら)せを受け、自らはそのまま浜松に帰城しました。

山崎合戦の地 石碑(京都府乙訓郡大山崎町)(写真=CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)
山崎合戦の地 石碑(京都府乙訓郡大山崎町)(写真=CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

帰国して、急ぎ軍を整え、西上するのに、家康は10日かかったことになります。彼が秀吉という男を、次のライバルとして意識するようになったのは、この時からでしょう。

いわゆる、秀吉の“中国大返し”は、当時の常識では不可能に思えるものでした。家康は本能寺の変を当日に知りますが、岡崎に帰り着いたのは2日後のことでした。

一方の秀吉は、備中高松(びっちゅうたかまつ)城で毛利の大軍と対峙していたので、知らせが届くまで2日かかっており、この時点で両者が費やした時間は、ほぼイーブンです。

そこから、信じられないスピードで、秀吉は軍を急旋回させ、畿内に取って返します。

家康が出陣まで10日の時間を要したのは、慎重な性格ゆえに、万が一にも負けることのないよう、じっくりと準備を整えたからでしょう。

また、家康にはとりあえず今、軍を動かせるのは織田方にあっては自分だけだ、との思いがあったはずで、この甘い判断が「家康一生の不覚」(?)となりました。

■秀吉から学んだ「天下の盗み方」

凡人には不可能なことを、やすやすと実現する人のことを「天才」と呼びます。

信長も秀吉も、ある種の天才でした。しかし家康は、違います。この人は凡人ですが忍耐の人であり、天才がすることを学び、独自の勉強法をもつ人でした。

「天才」信長や秀吉の実際の行動をつぶさに見て、学ぶべきところを学びました。

秀吉から学んだのは、「天下の盗み方」そのものです。その手段として肝(きも)に銘(めい)じたのが、“スピード”でした。

織田家の方面軍の司令官――その一人にすぎなかった秀吉が、あっという間に主家を乗っ取ってしまった首尾は、一見マジックのようですが、事に臨んでスピードを最優先させたことは明らかです。

客観的に見れば、信長の一家臣である秀吉よりも、信長と同盟を結んでいた独立大名である家康のほうが、本能寺の変後、信長の後継者となるべき資格を備えていた、といえるかもしれません。

それにもかかわらず、秀吉に先を越されてしまいました。

その悔しい思いは、長く家康の胸の底にとどめおかれたことでしょう。しかし、家康はあわてません。領主不在となった甲斐の制圧に乗り出していきます。

甲斐侵攻のかたわら、信濃侵入にも着手して、7月に入ると家康自らも出陣しています。

これにより家康は、甲斐と佐久郡以南の信濃を領地に加え、それまでの三河、遠江、駿河と合わせて、5カ国を有する大大名へと歩を進めていきます。

四天王の1人、若き井伊直政に武田旧臣117人の与力(よりき)をつけたのは、このときのこと。

武田家には飯富虎昌(おぶとらまさ)、山県昌景(やまがたまさかげ)(二人は実の兄弟)が率いた「赤備え」が有名でしたが、家康はこれにあやかって、井伊家の新鋭部隊を全員朱色の甲冑とし、“井伊の赤備え”と呼ばれる最強軍を再編成したのでした。

■なぜ自分の命を狙った男を登用したのか

三河一向一揆で一揆側の軍師として、家康をさんざん苦しめた本多正信が、家康の「一切の罪は問わぬから帰参せよ」との呼びかけにも応じず、その後も一向一揆の幹部として各地で戦い続け、親戚筋の大久保忠世のとりなしにより、「帰り新参」で徳川に戻ったのは、一説によれば、伊賀越えの少し前のことでした。

佐々木泉龍 (1808 - 1884) 作『本多正信画像』。 江戸時代初期の大名・本多正信の肖像画。(写真=藩老本多蔵品館/PD-Japan/Wikimedia Commons)
本多正信の肖像画。(写真=藩老本多蔵品館/PD-Japan/Wikimedia Commons)

この正信は、家康の謀臣として、ずばぬけた能力をもっていました。

伊賀越えで九死に一生を得た際に、家康は「こいつは使える」と正信を認めた、といいます。

三河武士は忠誠心、結束力、戦闘力に優れているといわれますが、これは家康の勉強法の成果によるもの。元来は視野が狭く、まとまりも悪ければ、華やかな外交や緻密な折衝にも向いていません。

「文句があるなら腕で来い」といったタイプの武人ばかり――。

そこに、広く世間を見てきた正信が帰参し、彼には他の家臣たちにはない能力がある、と家康は気づいたのでしょう。

伊賀越えでは、地元の人々を懐柔するため、金も撒(ま)いたでしょうし、偽情報も流布したでしょう。それらはみな、正信が主動してやったといわれています(新井白石『藩翰譜』)。

また、家康が旧武田領を併合すると、旧武田家臣団を取り込み、甲斐・信濃の統治を担当する仕事を見事にやり遂げてもいます。

なにより、もし正信がいなければ、家康は関ヶ原の戦いで勝てなかったかもしれません。

■ターゲットは石田三成

家康は元来、凡庸な武将ですから、ごく平凡で常識的な発想しか持っていません。

ある時、正信に天下取りの策を聞かれると、家康は当然のごとく、

「自分以外の四大老(前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家)を順番に潰していく」と答えたといいます。

しかし、正信の頭の中にあるのは、全く違う方法でした。

「そんな悠長なことをしていたら、いつまでたっても、誰が敵で誰が味方なのかわかりません。それよりは敵を炙(あぶ)り出して、一気に叩く手が有効でしょう。そのためには、手強(てごわ)くとも石田三成を殺してはなりません。

三成を生かしておけば、三成憎しでこちらにとっての敵と味方がはっきりいたします。三成をそのまま泳がしておけば、三成が勝手に政局を掻き乱してくれるので、必ず天下が殿の手に入ります」

と、進言したのです。

正信は長い放浪生活の経験上、一丸となった組織は強いけれど、内部で相互に不信感を持つ組織は案外と脆(もろ)いことを、よく知っていました。

そして、豊臣家の文治派の代表である三成が、多くの武断派の武将たちに蛇蝎(だかつ)の如く嫌われていることも、よく理解していました。

秀吉の発案、決断とはいえ、朝鮮の役(えき)の前線で必死に戦っている武断派の武将たちを、三成は充分にねぎらうこともなく、終始横柄な態度で接し、秀吉への報告は讒言(ざんげん)といってもいいぐらい、悪意を含んだもの(もちろん、武断派からみて)だったからです。

■私が舌を巻いた家康の行動

家康は正信の進言を容(い)れ、家康は武断派の面々が三成へ向ける愚痴を丁寧に聞いてやり、三成との対立軸づくりに応用しました。

加来耕三『徳川家康の勉強法』(プレジデント社)
加来耕三『徳川家康の勉強法』(プレジデント社)

やがて三成は、秀吉の死後、豊臣家乗っ取りを企てる家康打倒に立ち上がり、事は家康の描いた絵図通りに進行していきます。

家康の人使い=「学び」のうまさの真骨頂でしょう。自分の思いつかぬことを進言してくれる正信を、家康は存分に使い切りました。離反して一揆軍の軍師となり、長く反抗し続けてきた元家臣を許して、自らの側近とし、ここ一番で登用するなど、なかなかできることではありません。

家康の、自分という凡庸な人間の、限界を知った勉強法のおかげでしょう。

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加来 耕三(かく・こうぞう)
歴史家、作家
1958年、大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業。『日本史に学ぶ リーダーが嫌になった時に読む本』(クロスメディア・パブリッシング)、『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』(日経BP)など、著書多数。

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(歴史家、作家 加来 耕三)

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