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徳川家康が生き延びたのは奇跡に等しい…「三方ヶ原の戦い」で武田信玄が描いた完璧すぎる家康殲滅プラン

プレジデントオンライン / 2023年5月14日 12時15分

高野山持明院所蔵「武田晴信(信玄)像」〔写真=『風林火山:信玄・謙信、そして伝説の軍師』(NHKプロモーション 編)より/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons〕

1572年、徳川家康は侵攻してきた武田信玄と三方ヶ原で対決した。この「三方ヶ原の戦い」は、家康の生涯で唯一の敗戦といわれている。歴史評論家の香原斗志さんは「戦国最強といわれる武田信玄が立てた計画は完璧だった。信玄があと1年でも長生きしたら、徳川の世は訪れなかっただろう」という――。

■信玄が家康に抱いた「三ヶ年の鬱憤」とは何か

戦国時代にはひとりの武将の死が天下の分け目になったことが何度かある。そのなかでも大きいのが、本能寺の変による織田信長の死と並んで、武田信玄の死だと思われる。

アカデミズムの世界では歴史に「もしも」はないといわれるが、もし信玄が長く生きていたら、徳川家康の命は安泰だったかどうか。信長にしても、本能寺の前にどうなっていたかわからない。それくらい信玄には勢いと力があったのである。

武田信玄が家康の領国である遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)に向かって甲府をたったのは、元亀3年(1572)10月3日のこと。出馬に際して、信玄は三河の豪族、奥平道紋(貞勝)への書簡に「明日国中へ進陣、五日之内越天竜川、向浜松出馬、可散三ヶ年之鬱憤候」と書いている。

「国中」とは遠江の見附のこと。その地に陣を進め、5日以内に天竜川を渡って浜松に向かい、3年の鬱憤(うっぷん)を晴らすというのだ。「三ヶ年の鬱憤」がなにを意味するかは追って確認するとして、信玄のただならぬ気迫が伝わってくる。

だが、そもそも、家康と信玄の関係はどこでどうこじれたのか。

■きっかけは上杉謙信との同盟

きっかけは永禄11年(1568)にさかのぼる。信玄は今川氏と同盟を結んでいたが、今川氏真は信玄が信長と同盟を結んだことに不信感を抱き、信玄の宿敵、越後(新潟県)の上杉謙信と同盟交渉を開始。それは信玄にとって、今川攻めの格好の口実になった。

同年12月、信玄は今川氏の領国に侵攻し、その際、家康も同時に行動を起こした。両者は密約を結んだのだ。今川氏の領国はそれぞれ「切り取り次第」ではあるが、おおむね大井川を境に、駿河(静岡県東部)は信玄、遠江は家康が領有をめざすことになった。

ところが、すぐに信玄の重臣の秋山虎繁が大井川の西側の遠江に侵攻。信玄のこの「裏切り」に対して、家康は強い不信感を抱き、さっそく年明けには上杉謙信との接触を試み、元亀元年(1570)10月には、武田氏に対抗することを目的とした同盟を結んでいる。

謙信との同盟成立は信玄が家康の領国に侵攻する2年前だが、静岡大学名誉教授の本多隆成氏によると「前近代では『足かけ』で数えるのが原則とみられる」ので、ちょうど3年に該当するという(『徳川家康と武田氏』吉川弘文館)。

信玄としては、ともに今川領国に侵攻したときの軋轢を引きずりつつも、とりわけ家康が自分の宿敵、謙信と同盟を結んだのが許せず、それが「三ヶ年の鬱憤」になったようだ。

また、歴史学者の平山優氏はそこに「彼(家康)を規制しない信長の不誠実さ」を挙げる(『徳川家康と武田信玄』角川選書)。したがって、矛先は家康と同時に信長にも向けられることになった。

■信玄にとって絶好の環境が整う

むろん、状況が整わなければ鬱憤は晴らせない。その点、信玄にとってお膳立ては万全に近かったといえる。

永禄11年末、家康と同時に今川の領国に攻め入ったとき、当初こそ順調で今川氏真の本拠地である駿河国の駿府を落とした信玄だったが、その後は今川氏と同盟を組む北条氏の抵抗に遭って、永禄12年(1569)4月には駿河から撤退している。

だが、信玄は6月には行動を再開し、北条氏の城を次々と攻撃。10月には本拠地の小田原城を包囲した。こうして北条氏を牽制したうえで、同年12月に駿河に侵攻。富士川より西の駿河をほぼ領有するにいたった。

その後も信玄の北条領への侵攻は止まらず、元亀元年(1570)8月以降は駿河を越えて伊豆国まで押し寄せた。だが、北条は北条で対抗し、上杉謙信との同盟も結んだりしたが、元亀2年(1571)10月3日、上杉との同盟を主導した隠居の北条氏康が死去。一気に信玄に有利な状況に転換した。

というのは、当主の北条氏政は信玄の娘が正室だったこともあり、謙信との同盟には消極的だったようで、父の死後、謙信に同盟の破棄を通告して、信玄との同盟を復活させたのだ。結果、駿河は武田領と決まったばかりか、信玄は東方から攻められる心配なく、西に侵攻できるようになったのである。

北条氏政像(部分、堀内天嶺写、小田原城天守閣所蔵)
北条氏政像(部分、堀内天嶺写、小田原城天守閣所蔵)(写真=Reuse of PD-Art photographs/Wikimedia Commons)

■家康が浜松に居城を構えたきっかけ

そのころ信長も厳しい状況に置かれていた。元亀元年(1570)6月、姉川の合戦で浅井と朝倉の連合軍に勝利したとはいえ、7月には畿内で三好三人衆の活動が盛んになり、9月には大坂本願寺が三好勢と連携して挙兵。これに浅井と朝倉が呼応するなど、次第に信長包囲網が形成され、四苦八苦の状況だった。

そんななか信玄は元亀3年(1572)10月、遠江に侵攻したのである。

むろん、信玄に力があるのは周知の事実で、いったん遠江に攻め入ると、徳川方から武田方に寝返る国衆や土豪が相次いだ。信玄の特技に敵方の調略があり、侵攻前から武田方につくことで話がまとまっていたケースが多いのだろう。

『三河物語』などによれば、家康も3000人ほどを率いて見附(磐田市)に出陣したが、様子見しているのが見つかり、撤退するも一言坂で追いつかれ、本多忠勝らが奮戦してなんとか家康を浜松まで逃がしたという。

見附という地は古代から遠江の政治の中心で、家康は遠江平定後の永禄12年(1569)秋から、支配の拠点にするためにここに城を築きはじめていた。ところが、天竜川の東側の見附では、武田氏に攻められたとき支援に支障をきたす、と信長に忠告され、天竜川の西側の浜松を居城にしたという経緯があった。

信長の忠告がないまま見附を居城にしていたら、それこそ三方ヶ原の合戦の前に、家康は信玄の餌食になっていてもおかしくなかった。

■三方ヶ原の戦いの真実

その後、信玄はまっすぐに浜松には向かわず、北上して11月上旬から二俣城を攻略。なかなか落城しないので水の手を断つ作戦に転じ、天竜川から水をくみ上げていた釣瓶(つるべ)縄を切って降伏させた。そして二俣城を武田方の城として修復したのち、12月22日の早朝に出陣した。

ただし、2万5000人ともいわれる武田軍は、浜松城に接近すると見せかけて、途中から西に向かって三方ヶ原台地に上がり、浜松は素通りして三河方面に進軍しようとした。なぜなのか。

籠城戦は時間がかかり兵力の損失も大きい。それよりは家康をおびき出したほうがよい、家康は打って出てくるに違いないと信玄が判断した、と解釈する研究者が多い。

加えて平山優氏は、信長の援軍が進撃してきた場合、浜松城の家康とのあいだで挟み撃ちになる危険性があり、それを信玄は警戒した、という見方を示す(『徳川家康と武田信玄』)。

事実、家康はおびき出されるように、信長からの加勢3000人を加えた1万1000人程度の軍勢で打って出た。なぜか。

■なぜ家康は籠城しなかったのか

本多隆成氏は、信長との同盟関係があり加勢まで送ってもらいながら、武田軍をやりすごす選択肢はなかった、次々と武田方に降っていく遠江の国衆らをつなぎとめるためには、戦って存在感を示すしかないと判断した、などの理由を挙げる(『徳川家康と武田氏』)。

一方、平山優氏は、武田軍が堀江城に向けて動き出したのを家康が察知したから、という見解を示す。

西方に浜名湖、その北方に山間部が控える浜松城は、三河や尾張方面からの補給路が限られる。その点、浜名湖に張り出した半島の北側にある堀江城は、浜名湖水運および三方ヶ原方面の交通の要で、ここを攻略されると浜松城は封鎖されてしまう。だから家康は武田軍と戦わざるをえなかったというのだ(『徳川家康と武田信玄』)。

いずれにせよ三方ヶ原合戦で、家康は命を失いかねない状況に何度も見舞われ、生涯で最大の敗北を喫したのである。

だが、それで終わりではなかった。信玄は実際に堀江城を攻撃し、続いて浜名湖の北西方面にある三河の野田城を攻めている。

「野田城を攻略し、野田領を接収してしまえば、武田軍は信濃に通じる補給路を確保し、背後を気にせず、吉田城や田原城攻略に専念できることになる」(平山優『徳川家康と武田信玄』)。

信玄はあらゆる方向から浜松城への補給を遮断し、実際、元亀4年(1573)2月、野田城を落としている。これだけやりたい放題にやられながら、家康は手も足も出なかった。

■もし信玄があと1年生き延びていれば…

こうなると信長包囲網も勢いづく。信長との関係が悪化していた将軍足利義昭は信長を「敵」と断じて挙兵し、これまで争っていた朝倉義景や浅井長政、大坂本願寺、さらには松永久秀らに御内書を送って信長の討伐を命じた。

信玄が遠江に侵攻した時点では、義昭は家康に御内書を送って心配を伝えていたのに、すぐに手のひらを返したのだ。それどころか、信玄にも使者を派遣して直接、連携を確認している。

もはや家康は、そして信長も絶体絶命――と思われたが、野田城を落城させたころには信玄の体調はかなり悪化していた。胃がんだといわれている。

もはや行軍に耐えられなかったようで、西に侵攻するかと思われながら北東の長篠城に進み、しばらく滞在したのち、甲府に引き上げる途中で53歳の生涯を閉じた。

この戦国最強といわれる武将が、あと1年でも長生きしたら歴史は変わっていたかもしれない。徳川の世は訪れなかったかもしれない――。それは同じ「もしも」という言葉で語る反実仮想のなかでも、あり得た可能性がかなり高い。そのくらい信玄は強く、家康はその死に九死に一生を得たのである。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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