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「ブラック武勇伝」を笑いに変えてはいけない…元日本代表選手が「ジャンクSPORTS」に嫌悪感を抱くワケ

プレジデントオンライン / 2023年5月17日 17時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/vm

トップアスリートがバラエティー番組で語るエピソードに違和感を持ったことはないだろうか。神戸親和大学の平尾剛教授は「ブラックな指導を笑い話にするような語りは、暴力的な指導や理不尽な上下関係を許容する空気を醸成してしまう。スポーツの魅力を伝えるテレビ番組が、スポーツへの嫌悪を煽っているのではないか」という――。

■トップアスリートが「常人離れ」に心酔するワケ

トップアスリートにまつわるエピソードは実にバラエティー豊かである。

私が現役のラグビー選手だった20年ほど前なら、ステーキ1キロを平らげたあとにラーメンを食べに行ったとか、チームの打ち上げで店のビールをすべて飲み干したとか、大食漢や大酒飲みの例は枚挙にいとまがなかった。

焼肉屋で、いまは食べられなくなった生レバーをまるでふぐのてっさのように数枚一緒にすくい上げて何皿も食べる人もいたし、生ビールの中ジョッキを2口ほどで飲み干すザルもいた。私よりひと回りほど年上のとある先輩からは、試合前に缶ビールを1本飲んだ方がよいパフォーマンスができるからと、隠れてこっそり飲んでいたと聞いた。

飲み食べに関する仰天エピソードは、ラグビーや相撲をはじめ減量の必要がないコンタクトスポーツならではだろう。スポーツ栄養学に基づくコンディション作りが主流のいまでは、にわかに信じられない人も多いだろうが、かつて飲み食べの豪快さはラグビー選手のイメージそのものだった。

現役時代の私はそこまでの豪快な食欲はなかったので、そんなチームメートの姿が眩しく映った。いまとなれば「らしくあらねば」という幻想に囚われていただけだとも思えるが、グラウンド内だけでなくその外でも突出したいという潜在的な願望は確実にあった。

この願望は、おそらく私だけではなく、「常人離れ」に無意識的に憧れを抱く傾向がトップアスリートにはあるように思う。どんな勝負でも勝つことを欲するがゆえに、何につけても秀でようとし、たとえそれが「単なる違い」であっても優れているとみなそうとする。負けず嫌いが高じて「単なる違い」ですら優越感へと結びつける心的傾向が、トップアスリートにはある。

■「ジャンクSPORTS」のトークに感じる違和感

この心的傾向が、いささか暴走している。「暴走」というより利用されているといってもいい。

象徴的なのが、人気スポーツバラエティー番組「ジャンクSPORTS」(フジテレビ系、毎週土曜日17:00~17:30)である。試合の緊張感から解き放たれたトップアスリートや引退した選手の素顔に迫ることで、スポーツそのものの魅力を伝えようとするこの番組は、スポーツファンならおなじみだろう。

憧れのアスリートの人間性を垣間見たり、赤裸々な語りからその舞台裏をうかがい知れるという楽しみがあり、私も久しく視聴してきた。現役時代には「もっと実績を上げて有名になれば出演できるかもしれない」と、淡い期待を抱いていたことが懐かしく思い出される。

だが、ここにきて眉をひそめることが多くなった。特集の組み方とそれに応じたトップアスリートの語りに強い違和感を覚えるようになったからだ。

■アスリートが「ブラックな経験」を喜々として語っている

部活動などかつて経験した社会通念をはるかに超えるブラックな指導や、「かわいがり」と称される先輩からの壮絶ないじりが、それを乗り越えたサバイバーの立場から次々と語られる。その話を、司会者をはじめ出演者が軽妙な笑い話へとデフォルメし、爆笑の渦に巻き込む。程度はさておき類似する環境に身を置いてきた元アスリートの私でさえも、ついていけない。

むろんトップアスリートがいかに「常人離れ」しているのかを示すエピソードはこれまでにもたくさんあったし、いまでもその他のメディアで紹介されている。クスッと笑える程度ならなんら問題はない。それもまたスポーツを楽しむ方法だからだ。だが、あろうことか人権にも関わるブラックな経験までをもおもしろおかしく開陳し、それを笑い話にするのは明らかにいき過ぎである。

惜しげもなく話すトップアスリートもさることながら、彼らに語らせる番組制作側にもその原因がある。

■「笑いに変えてはいけない話」を電波に乗せていないか

バラエティー番組にありがちなスタジオ内で笑いを完結させる傾向は、「ひな壇芸人」というカテゴリーが生まれて以降とくに顕著である。昨今、この「内輪ノリ」がさらにエスカレートし、誰の目にどのように映るのか、すなわち視聴者の存在が意識から抜け落ち、まるで仲間内だけで話をするような雰囲気に満ち満ちている。

「ここだけの話」と限定し、家族あるいは友人同士で共有するにとどめおくべき話題までもが、あけすけに公共の電波で発信されるようになって久しい。その話を耳にした視聴者がどう感じるのかが考慮されず、本来なら笑いに変えてはならない話を笑いに変えるこの風潮はいただけない。というのも、視聴者のなかに、かつてブラックな環境で挫折を余儀なくされた人たちが紛れているからである。

バスケットボールを抱えて座り込む男児
写真=iStock.com/MoMorad
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/MoMorad

■「スポーツ嫌悪層」のトラウマを呼び覚ます

部活をはじめとする日本のスポーツ界には「スポーツ嫌悪層」が存在するといわれている。学校体育で挫折して早々にスポーツを遠ざけた人は「スポーツ・体育・運動嫌い」だが、それとは異なり、ブラックな環境に心身が疲弊して途中で部活動(スポーツ)を辞めざるを得なくなった人たちだ。つまり、かつて好きだったスポーツが嫌いになり、辞めたあとになっても複雑な思いに駆られている人たちである。

ブラックな指導や先輩からの壮絶ないじりに遭ってやめざるを得なかった「スポーツ嫌悪層」は、あの語りに耳を背けたくなるのは想像に難くない。忘れてしまいたいほど忌まわしい過去の記憶を軽妙な笑いに変え、まるで美化するような語り口にさらに嫌気が差して、ますますスポーツに背を向けるはずだ。選ばれし者たちだけにほほ笑みかけるのがスポーツで、自身はそこから漏れ出た脱落者であることを再び意識させられるのだから、その嫌悪感は増す一方である。

スポーツの魅力を伝えるはずなのに、その意図とは裏腹にスポーツへの嫌悪を煽っている。

■「暴力や理不尽な上下関係」を許容する空気が生まれる

これに加えてもう一つ見過ごせないのが、ブラックな環境を容認する空気の醸成である。暴力的な指導や理不尽な上下関係を笑いでデフォルメした語りは、ある程度ならば許容してもよいという印象を視聴者に与える。スポーツの世界はそういうものなのだと刷り込まれてしまう。

スポーツに厳しさが必要であることは論をまたない。競技力の向上を目指し、勝利をその手に収めるためには厳しい環境が不可欠である。体力的にも精神的にも、またコツやカンなどの感覚を研ぎ澄ますためにも、しんどく苦しい練習を乗り越えなければならない。快適さを手放し、すすんで困難を乗り越えようとする向上心がなければ選手としては大成しない。

だからといって、むやみやたらに練習量を増やし、精神的に追い込まれる情況でただただ我慢し続ければいいというものでもない。いま取り組んでいる練習がどのスキルの習得を目的としているのか、試合のどの場面を想定しているのかなど、目指すゴールやその意図を理解したうえで努力しなければならない。

この理解をおざなりにしてただ苦しさを乗り越えたところで、本当の意味での上達は見込めない。すなわち取り組む本人には「納得感」が必要である。これがあるからこそ厳しい練習を通じてさまざまなスキルが身に付き、精神的にもたくましくなる。自らのからだがバージョンアップする充実感は、主体的に取り組むなかでしか得られない。これがあるからこそ、厳しさも「楽しむ」ことができる。

スポーツには、科学と経験に裏打ちされた「適度な厳しさ」が必要なのである。

■「ブラック武勇伝」の悪影響は計り知れない

ただ、この「適度な厳しさ」を見定めるのは、言葉でいうほど簡単ではない。厳しさをどこまで許容するのかは、選手本人の性格や目指す競技レベルに応じてさまざまである。どこまで言葉がとがってもよいのか、そのボーダーラインは、指導者と選手の関係性に左右されもする。

選手同士の人間関係もまた同じで、お互いの関係性の深浅によって「適度」は決まる。つまり、スポーツに不可欠である「適度な厳しさ」は、絶えず揺れ動くなかでかろうじて確保できるデリケートなものなのである。

適正な範囲内にとどめおくべきこの厳しさを、ブラックな指導や過度な上下関係を笑いでデフォルメした語りは助長する。それを乗り越えたからこそいまがあると自己認識するサバイバーの成功譚を、視聴する側はスポーツで実績を残すためには多少乱暴であっても仕方がないというメッセージとして受け止めてしまう。この悪影響は計り知れない。これは、いつまでたってもスポーツ界からブラックな指導や過度な上下関係がなくならない一因になっていると、私には思われる。

スポーツの楽しみを引き出すはずが反対にスポーツ界に分断を作り出し、さらに悪弊を肯定する空気をも醸成しているという自覚を、トップアスリートおよびメディアは持たなければならない。笑うどころか煩悶の深みにはまってゆく人たちがいること、きわめて特異な風習にお墨付きを与えていることには、ぜひ想像を及ぼしてほしい。選ばれし者たちが集う高級サロンのような場での不用意な語りを、公共の電波に乗せて広く発信することの弊害は大きい。

囲み取材を受ける若いスポーツマン
写真=iStock.com/SeventyFour
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SeventyFour

■トップアスリートは影響力の強さを自覚すべき

ちなみに、これら「ブラックな武勇伝」を学生たちに紹介すると、一様に興ざめの表情を浮かべる。令和を生きる若者は、苦笑いを浮かべならドン引きする。これが紛れもない現実である。

なにもこのテの話を一切やめろと言いたいわけではない。どれだけ過酷であっても実際に経験した事実は変えられないし、壮絶な上下関係を乗り越えたお陰で強靭(きょうじん)な精神力を身に付けたという本人の自覚を否定することなどできるはずがない。

ただ、それを公の場でおもしろおかしく語るのだけはやめなければならない。それが、不本意なかたちで辞めざるを得なかった、かつての仲間たちに向けるべき敬意だからだ。スポーツ界の非常識さを際立たせてその健全化を妨げるという悪影響も鑑みれば、居酒屋などかつてのチームメート同士だけが集まる場で昔話に花を咲かせる程度にとどめおくべきである。

東京五輪以降、スポーツそのものの価値が下落するいま、現役、引退後を問わずトップアスリートの言動が問われている。「常人離れ」への無意識的な志向性を自覚し、メディアの意向をくんで何でもかんでも笑い話にする風潮に乗らない。社会に多大な影響力を及ぼす立場にいるトップアスリートはそう心がけるべきだと、自戒を込めて思う次第である。

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平尾 剛(ひらお・つよし)
神戸親和大教授
1975年、大阪府生まれ。専門はスポーツ教育学、身体論。元ラグビー日本代表。現在は、京都新聞、みんなのミシマガジンにてコラムを連載し、WOWOWで欧州6カ国対抗(シックス・ネーションズ)の解説者を務める。著書・監修に『合気道とラグビーを貫くもの』(朝日新書)、『ぼくらの身体修行論』(朝日文庫)、『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『たのしいうんどう』(朝日新聞出版)、『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)がある。

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(神戸親和大教授 平尾 剛)

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