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「無宗教なのが当たり前で正常」なのか…135人のキリスト教信者を取材したライターが感じた日本の現実

プレジデントオンライン / 2023年6月22日 9時15分

『証し』を上梓した最相葉月氏(右)と宗教学者の島薗進氏。島薗氏は新著『なぜ「救い」を求めるのか』で救済宗教について論じている - 撮影=髙須力

日本人は「無宗教」という人が多い。そのため「無宗教なのが当たり前で正常」という感覚を持つ人もいる。国内のキリスト教信者135人に取材し、『証し 日本のキリスト者』(KADOKAWA)にまとめたノンフィクションライターの最相葉月さんは「『宗教二世』と呼ばれる人たちも、盲目的に信仰しているわけではない」という。宗教学者・島薗進氏との対談を前後編でお届けする――。(後編/全2回)

■「天皇」を失った日本に、キリスト教が入ってきた

(前編から続く)

【島薗】『証し』を読んでいると、日本の戦後のキリスト教には、こんなに勢いがあったのだと驚きます。

最相葉月『証し 日本のキリスト者』(KADOKAWA)
最相葉月『証し 日本のキリスト者』(KADOKAWA)

【最相】私も取材して驚きました。戦後まもなくアメリカの若者たちが宣教師としてどんどん入って支援物資を配ったり、学校や病院をつくったりしていました。

【島薗】私の母は、どうやら戦中は「日本は戦争に勝つ」と信じていたようです。しかし戦争に負けてしまった。母は、戦後生まれの私をキリスト教の幼稚園に入れたのですが、そこには大きな心境の変化があったのではないかなと思うんです。

【最相】天皇という拠り所を失った日本に、キリスト教が入ってきたんですよね。しかしなぜ日本でキリスト教は普及しなかったのでしょうか? 今日、島薗先生にお聞きしたいと思っていました。

■なぜ日本人はクリスチャンにならなかったのか

【島薗】日本のキリスト教との関係で考えなければいけないのは、新宗教の存在ですね。新宗教とは、江戸末期以降に創始された信仰集団ですが、1960年代までが発展期です。初期のものとして、農民が創始した天理教、金光教があります。天理教は戦前には公称600万人に信仰されており、今の創価学会を見ても、選挙の際にはつねに10パーセント以上の議席を取る力があります。

日本においては、明治維新から百数年の間に、庶民が苦難の中で見出していく宗教として、新宗教が主流になったといえます。一方、キリスト教は、やや上層の人たち、かつて儒学を学んだ武士のような層――内村鑑三が代表的ですね――がキリスト教徒になっていきました。

【最相】つまり新宗教の存在が、本来だったらキリスト教に降りてくるかもしれない人々を抱えたのですね。

島薗先生の新刊『なぜ「救い」を求めるのか』(NHK出版)を拝読すると、キリスト教、仏教、イスラム教を代表とする宗教を「救済宗教」と呼んでいらっしゃいますね。「信じるものは救われる」、すなわち救いを重視している。一方で日本の新宗教はこの世で幸せになろうとする「現世肯定的」な傾向が強いと書かれています。日本では、現世肯定的なほうが受け入れられやすかったということでしょうか。

■キリスト教が広く根付いた韓国との違い

【島薗】そうですね。日本で新宗教がこれほど広がった理由はいくつかありますが、まず近代に入って庶民の間に、「この世でもっと幸せになれる」実感を多くの人が持つようになったことは挙げられるでしょう。次に、東アジアの中でも特に日本では、現世肯定的な儒教や神道が強い影響をもっていたことが挙げられます。

ただし日本の場合は特殊だと言えます。同じように神道や仏教が根付いていた東アジアの地域、例えば韓国では、日本と同様に新宗教が生まれ、キリスト教と競争関係にありました。しかし結果として庶民に広くキリスト教が根付いていった。

その背景には、韓国のキリスト教が日本の植民地主義に抵抗する力となったこと、1945年以降はアメリカの支持を得たこともあります。そもそも世界的にみると、近代以降のキリスト教は、庶民が主体的に信仰していくことで勢力を広めた宗教だといえるんです。

■「天国」の存在が救いになる人、ならない人

【最相】そもそも科学がここまで進歩すると、「天国がある」「この世界をつくった創造主がいる」「信じるものは救われる」といった教義を押し出されることに、抵抗を感じる現代人は多いのではないかと思います。

『証し』の中では、サイエンスを専攻しながらクリスチャンでもある方にお話を聞きました。ある方は、科学と神を信じることは、自分の中で矛盾をしないのだと話していた。真理を求める人生の歩みが、神を信じることとひとつになっているのだと感じました。

最相氏
撮影=髙須力
最相氏が取材した男性は「イエス・キリストの復活についても、理屈では説明しようがありません」と話した - 撮影=髙須力

【島薗】第13章「真理を求めて」ですね。神学的なニュアンスがある章だと感じました。

最相さんは、日本の今のキリスト教徒たちの「天国」や「最後の審判」の感覚はどのようなものだと感じましたか?

キリスト教はまさに救済宗教で、死んだあとは天国に行く、あるいは最後の審判で永遠の生命を得ると考えられていますよね。

【最相】何度か教会のご葬儀に参列した時には、「天国でまた会える」「イエスの御許に帰ったんだ」とお話しされる方が多く、みなさんあまり悲しそうな雰囲気ではなかった印象を持ちました。それは信仰を持たない私からすると、不思議に感じることでもあり、同時にこれがキリスト教の救いなのかとも感じました。

ですが、そう受け止められなかったお話もいくつか聞きました。配偶者を亡くした方が、悲しみが深すぎて、「夫は神の御許に行ったのだ」と受け止めることができない、と。ご主人もクリスチャンでしたし、キリスト教の救いはそこにあると思っていたので、私もショックを受けましたね。『証し』にはご本人の希望で掲載していないのですが。

■「原罪」や「贖罪」は時代遅れになっている?

【島薗】天国へ行く、神の御許へ行くことを、今は教義的にそのまま受け止められなくなっているのかもしれませんね。もしかしたら、安らぎの中で最期を迎え、安らかに眠る、その安らぎをリアルに感じられるキリスト教に今はなっているのではないかと思います。

【最相】実は『証し』を読んだある司祭から感想をいただいた際、贖罪(しょくざい)信仰について、「誰かを生贄にして自分が助かろうなんて教義がキリスト教であるはずがない」とおっしゃっていて驚きました。中世のカトリックがどうしても権威を保たなくてはいけない時代に、ユダヤ教の贖罪の信仰をあてはめたものであり、後付けのものであると。本来のキリスト教はそうではないとおっしゃっている。

ウクライナの戦禍を前に、「彼らは罪ゆえに死ぬのであろうか?」と考え、「贖罪信仰を放棄した」と宣言される伝道者の方もいました。もしかしたら、「原罪」や「贖罪」の感覚が時代に合わなくなってきており、キリスト教は過渡期なのではないかと感じたんです。

構想10年、取材6年をかけた長編ノンフィクション『証し』
撮影=髙須力
構想10年、取材6年をかけた長編ノンフィクション『証し』は宗教関係者からも注目を集めている - 撮影=髙須力

■現在の世界の主流はカトリック保守派だが…

【島薗】一つの方向性ですが、簡単には言えないところでもあります。日本を見ていると、時代に合わせて柔軟な信仰に変化しているように見えますし、環境問題やマイノリティの権利に積極的なグループもあります。しかし世界の現実はそうではない。

現在のローマ教皇は力による抑圧に抗う考え方ですが、カトリックの保守派では女性司祭は認めないという考え方が強いです。アメリカの保守派としては、プロテスタントの福音派がいて、人工中絶は許されないという立場です。彼らは信じる者は救われる/信じない者は救われないの二元論にかなりこだわっており、これが世界的に見れば勢いがいい。

ただ今は勢いのいい福音派もだんだんと柔軟になり、独善性が薄れていく方向になっていくのかもしれません。罪を強調して上から強く指導するような中世型の教会ではなく、人類がもともと持っていた古代の宗教の始原に立ち返るような形になっていくのかもしれない。単に古代に戻るのではなく、中世的なものを通過したものであり、自由と多様性を尊び、だからこそ深いものがあるというような。

では、それがどんな集団として存在できるのか考えると、非常に難しいですね。集団になるとどうしても分裂して「自分たちこそ正しい」と独善的になってしまうものですから。

■日本人を支えているのはSNSかもしれない

【最相】私はおこがましくも新聞で人生相談の回答者をやっているのですが、「この人に信仰があれば、どれだけ救われるだろう、助けられるだろう」と感じることがよくあるんです。だけどそうは書けないので、「自治体の○○センターに相談してみて」などと書くのですが、本当に苦しんでいるのはそこではないんだろうなと内心では感じています。

震災があり、コロナ禍があり、ウクライナの戦争もあり、大きな災害や戦争に直面する中で、何かしらの支えが必要になってくるのは間違いないと思います。

それでも日本であまり宗教に関心が集まらない背景に、SNSの存在が大きく関係していることはないでしょうか? つぶやく場所があって、寂しさを訴え、つながることができる。一人でじっとしている時間を、SNSで満たすことのできる状況は支えになっているのではありませんか?

【島薗】ただ、SNSは儚い。そんなに頼りになるものではないと思っています。

■救いは宗教から「スピリチュアリティ」へ

【最相】では私たちは何に対して救いを求めるのか。それは果たして宗教なのか。救済宗教とは違った信仰の支えが必要なのか? これは島薗先生の『なぜ「救い」を求めるのか』を読んで感じたことでもあります。本の中では、従来の宗教の形ではない「スピリチュアリティ」について書かれていますよね。宗教的なものは形を変えてこれからも残っていくとお考えですか?

【島薗】「スピリチュアリティ」は1970年代ごろから広がってきた宗教性のあり方で、かつて伝統的な宗教が扱っていた心の次元を扱う、いわば「救済宗教」以後の精神文化と言えます。

当初は、瞑想(めいそう)やヨーガ・気功などボディーワークを通じて自己変容や癒やしを求めるものであり、私は「自己変容のスピリチュアリティ」と名付けました。苦しみを避け、自分が明るくよく変わっていくのだと。ポジティブな自己実現を目指すものですね。

ですが、最近は「限界意識のスピリチュアリティ」と呼べるものに注目が集まっています。以前までは宗教団体が担ってきた、死に直面する終末期の人のケアなど、こころの痛みや深い悲しみに向き合う方法が組織的な宗教の外で提示されるようになってきたのです。

例えばアルコール依存症の自助グループであるAA(Alcoholics Anonymous)では、自分の力では依存症に太刀打ちできないという「限界」の自覚を持つことで自分の問題に向き合おうとするのです。

最近「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念も注目されています。つまり最相さんがおっしゃるように、コロナや戦争、震災があって苦しい。しかしそのことを忘れるのではなく、心に留めながら共に生きていく。それが大切な人間の力なのだと。これも「限界意識のスピリチュアリティ」と似たものとして私はとらえています。

■お寺や教会の役割も自然と変わっていく

【最相】そうしたところに宗教者の役割は残るということですね。これからの宗教の在り方を考えると、中心になって導く人たちが、教団を支配するようなトップダウン型ではなく、自ら社会に出かけていくアウトリーチの活動に力を入れるようになっていくのだと思います。

【島薗】お寺や教会がやっている子ども食堂とか介護カフェなど新しい動きです。そうした活動は、宗教が今までもってきた共感力や、人の弱さをくみ取る力を、社会に生かすような方向性だと思いますね。

【最相】実際に、路上生活者や、外国人労働者の方を招いた集い、子ども食堂などの活動を積極的にされている教会は多くあります。

【島薗】外国の方、弱い立場の人、LGBTQといったマイノリティへの居場所になるだけではなく、自ずからお互いが支えあう力に、教会が寄与するという形になっていくといいですよね。

最相葉月氏と島薗進氏
撮影=髙須力
『証し』では、「教会に人を引き付ける力がない」「日本の教会はこれまでの体制では継続できない」と危機感を抱えるキリスト者も登場する - 撮影=髙須力

■迷いながら信仰を続ける現代のクリスチャン

【島薗】このような状況の中、日本のキリスト教は、だいたいが小さい集団で、いつも外の目にさらされています。常に相対化を免れない人たちが多いのです。『証し』を拝読していても、若い人であればあるほど、その傾向が強くなっていると感じました。無宗教の人に近い感覚があるように思いますね。自己を相対化せざるを得ない中で、なお信仰を持つとはどういうことなのか? が書かれていると思います。

【最相】私も取材をしながら非常に感じていたことです。具恩恵(クウネ。前編を参照。最相さんがキリスト教に興味を持つきっかけになった中国の朝鮮族の友人)の信仰を見ていたこともあり、もっとキリスト教を盲目的に信じている人が多いのだと思い込んでいました。でもそうした人は本当に少数派で、自分の信仰の迷いを口にされる方のほうが多かった。

親から宗教を受け継いだ方たちも、さまざまな葛藤をしています。ある牧師は、「教会から一番遠い場所に行ってみようと思って、中野のキャバクラで働きはじめました。ところが、キャバクラってところは、どちらかといえば教会に近い世界でした」とお話しされていました。

【島薗】一度離れて、新しい形で戻る経験をされたわけですね。いま「宗教二世」や「カルト」問題に注目が集まっていますが、「宗教二世」と言われてイメージされるような方とは違った育ち方をしていますよね。

宗教的な環境に育った人がみんな同じ状況なわけではない。特に日本ではオウム事件を経験しているので、布教がかなりソフトになった経緯があるんです。そんな中で、強引な布教を続けていた代表が、統一教会やエホバの証人だったといえます。

■「宗教二世」という言葉の裏にある思い込み

【最相】「『宗教二世』と言われるのは嫌だ」とおっしゃる若いクリスチャンの方もいらっしゃいましたね。

【島薗】必ずしも宗教二世が抑圧されているわけではなく、イスラム圏に行ったら、国民のほとんどが宗教二世なわけです。「宗教二世」というときに、「無宗教なのが当たり前で正常なんだ」という前提があるように思いますね。これは日本で生じやすい錯覚でしょう。

みんな、何かしらの影響を周囲から受けていて、例えば、科学を信奉していた父の子である私は「科学二世」であるといえますね(笑)。宗教の影響なしに育ったことを、当たり前のことだと思わず、自分はそれなりの歴史があってそうした環境であったんだと顧みる必要があると思っています。

島薗氏
撮影=髙須力
医師家系に生まれた島薗氏は、東京大学医学部に入学したあとに文学部に移り、宗教学を専攻した - 撮影=髙須力

そもそも「カルト」という言葉自体も、一般的に通用していますが、学問的には規定できません。説明しようと思っても、ちゃんと説明できないものです。

■信仰は人を強くする一方で、先鋭的にする

【最相】宗教を考えるとき、「○○はカルト」と言って特定の団体を排除して解決するのがいいのか、いつも疑問に思います。今回は統一教会の問題になっていますが、どんな宗教でも起こりうることだと思います。

なにかを信仰することは、人間を強くするかもしれませんが、信じないものに対する排除や攻撃に転じたり、先鋭的になってしまう危険性を持っている。その強さと怖さの両方をふまえながら、信仰自体を理解していくことが必要なのではないかと思いますね。

【島薗】そこが宗教の難しいかつ、面白いところでもあると、私のように共鳴しつつも距離をとっている人間からすると思います。

宗教は尖っている部分があるからこそ、深みも出てくる。宗教の力をうまく柔軟な方に向けていくためには、社会全体が宗教に関心を持つことが大切です。『証し』は、日本のキリスト教を考えるヒントが数多く埋め込まれていながら、しかも日常語で宗教を語っていますから、ぜひ多くの方に読んでいただきたいですね。

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最相 葉月(さいしょう・はづき)
ノンフィクションライター
1963年、東京都生まれ。関西学院大学法学部卒業。著書に『絶対音感』(小学館ノンフィクション大賞)、『星新一 一〇〇一話をつくった人』(講談社ノンフィクション賞、大佛次郎賞ほか)などがある。

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島薗 進(しまぞの・すすむ)
宗教学者、東京大学名誉教授
1948年、東京都生まれ。東京大学文学部宗教学・宗教史学科卒業。同大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。上智大学グリーフケア研究所前所長。NPO法人東京自由大学学長。主な研究領域は近代日本宗教史、宗教理論、死生学。著書に『宗教学の名著30』(ちくま新書)、『国家神道と日本人』(岩波新書)、『日本人の死生観を読む 明治武士道から「おくりびと」へ』(朝日選書)、『いのちを“つくって”もいいですか? 生命科学のジレンマを考える哲学講義』『宗教を物語でほどく アンデルセンから遠藤周作へ』(ともにNHK出版社刊刊)など多数。

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(ノンフィクションライター 最相 葉月、宗教学者、東京大学名誉教授 島薗 進 構成=山本ぽてと)

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