台湾をジワジワと追い詰める…中国政府が「3年ぶりに本土を訪ねた編集長」をいきなり拘束した本当の狙い
プレジデントオンライン / 2023年5月16日 10時15分
■発禁本を多数出版し、中国共産党に危険視されていた
台湾の出版社「八旗文化」編集長の富察(フーチャー、本名は李延賀)氏が今年3月中旬、病気の母親を見舞いに中国本土を訪れた際、上海で国家安全当局に拘束された。台湾メディアはこのことを大きく報じている。
中国政府は26日、記者会見で富察氏について問われると、
「李延賀は国家の安全に危害を与えた疑いにより、司法機関の調査を受けています。合法的な権利は法律により保障されています」
と述べ、拘束の事実を表明した。
八旗文化はこれまで、中国大陸では出版できないような書籍を多数発行しており、中国政府から危険視されたと見られる。
中国での突然の拘束は日本も決してひとごとではない。3月には日本の大手製薬会社・アステラス製薬の50代男性社員が反スパイ法違反容疑で中国当局に拘束されている。台湾の編集長はなぜ逮捕されてしまったのか、過去の事例とともに考えてみたい。
■出身は中国大陸、中国の少数民族がルーツ
富察氏は中国の少数民族・満洲族で、1971年、中国・遼寧省鞍山市生まれ。90年代半ばに上海・華東師範大学で文学博士を取得し、上海文芸出版社副社長を務めた。中国共産党の党員でもあったとされる。
2005年に台湾籍の女性と結婚し、当初は別々に暮らしていたが、2009年に台湾に移住し八旗文化を立ち上げた。2013年に長期滞在を可能とする居留許可(居留証)を取得した後、台湾(中華民国)の戸籍(身分証)も取得した。
社名の「八旗」は、世界史の授業で聞いたことがある人もいるかもしれない。清朝における満州人が中心の軍事組織で、漢人を主体に編成された「緑営」と対をなす。ペンネームの「富察」も満洲族の伝統的な姓の一つであり、自身の家族の姓でもある。富察氏が自身のルーツに誇りやこだわりを持っていたことを感じさせる。
■台湾籍取得のため中国籍を放棄しようとしていた
台湾の戸籍は居留証の取得後5年間以上居住したのち申請できるが、原則として元の国籍を放棄しなくてはいけない“顕著な功績を治めた高度な人材”は特例として二重国籍が認められるケースもあるが、一般人には当てはまらない。
中国国籍の者が台湾の戸籍を取得した場合、通常は3カ月以内に中国の戸籍を抹消し、除籍証明を台湾政府に提出しなくてはならない。ただ、コロナ禍により中国―台湾間の渡航が制限されていたため、猶予期間が設けられていた。コロナ禍の間に台湾では2000件以上、中国からの帰化申請があり、除籍を猶予されていた。富察氏も、同じく猶予されていたという。
長年台湾で出版事業に携わっていて、なぜ今年になって拘束されたのか。
富察氏は2020年6月にも中国に渡航したが無事に台湾に戻って来られたため、今回も問題ないと判断したと見られている。だが、この3年の間にロシアによるウクライナ戦争が勃発し、世界情勢は一変した。「台湾有事」への危機感から、中台間の緊張は確実に高まった。台湾が米中対立の最前線と位置付けられるなかで、富察氏の言論活動にも締め付けが強まったものと考えられる。
今回の拘束は、富察氏の発行するような著作物や言論を、中国共産党は決して認めないというメッセージでもある。
■ウイグル、天安門、台湾…中国政府が嫌がる敏感なテーマを扱う
八旗文化は日本語書籍の訳書も多数手がけており、ホームページを見ると、同社の出版物のおよそ1割が日本語の訳書を占める。たとえば、以下のようなものだ。
『新疆ウイグル自治区 中国共産党支配の70年』(熊倉潤、中公新書)
『大東亜戦争肯定論』(林房雄、中公文庫)
『中国人民解放軍2050年の野望 米軍打倒を目指す200万人の「私兵」』(矢板明夫、ワニブックスPLUS新書)
『漢とは何か、中華とは何か』(後藤多聞、人文書館)
『男装の麗人・川島房子伝』(上坂冬子、文春文庫)
『興亡の世界史 大日本・満州帝国の遺産』(姜尚中/玄武岩、講談社学術文庫)
『中国「反日」の源流』(岡本隆司、ちくま学芸文庫)
洋書からの翻訳や、中国語の繁体字での書き下ろし書籍も扱っている。タイトルは私訳だが、例えば以下のようなものがある。
『中国を売り渡す:中国共産党の官界における腐敗分析』
『中国の最底辺:共産党、土地、農民工、中国に来たるべき経済危機』
『天安門へ引き返す:失億の人民共和国と歴史の真相』
『不自由な国の自由な人:劉暁波の生命と思想世界』
『台湾は誰のものか?』
『あなたは漢民族ではない 民族100年の呪いを解く』
学術書が大半を占めているが、刊行物のなかに中国政府が嫌がる内容が含まれているのは確かだ。上記のなかではウイグル、天安門、劉暁波、台湾などのテーマは特に敏感で、中国政府が嫌悪した可能性が高い。劉暁波はノーベル平和賞を受賞した中国の民主活動家で、2017年に事実上の「獄死」をした人物である。大東亜戦争肯定論、人民解放軍、中国の官界腐敗の本も決して喜ばれないだろう。
『あなたは漢民族ではない 民族100年の呪いを解く』の説明文には、漢民族とは清朝滅亡後の近代化の過程で作られた概念に過ぎず、100年程度の歴史しか持たないなどとある。興味深い指摘だが、こちらも中国政府から見れば、非常に好ましくない書籍と言える。
■異なる立場、意見を伝えようとした「視野の広い文化人」
台湾の政府関係者によると、富察氏が拘束された原因は、八旗文化が中国共産党の歴史観や意識形態とは異なる書籍を多数出版していたことにあり、同社の書籍は中国国内では発禁扱いとなっているという。
実は私(筆者)は2018年に、富察氏に直接取材をしたことがある。
上述の『大東亜戦争肯定論』の中国語訳が出版されたタイミングで、出版の経緯や売れ行きなどを聞いた。『大東亜戦争肯定論』は書名はいかにも歴史修正主義という感じだが、決して全肯定しているわけではなく、歴史を長軸のスパンで捉え直そうという試みであり、読んでみるとそこまで単純な内容ではない。
取材した当時、富察氏は
「正しい正しくないは別として、日本側から見た歴史観を紹介したかった」
と語っており、中国政府の見解とは異なる立場の見方にも、関心を持っているようだった。人柄はとても快活、朗らかで、実年齢よりも若々しく見えた。中国とは逆の立場の意見を知ることで、より多面的なものの見方ができると考えていたのかもしれない。中国で生まれ育った人間でも、これほど“自由な”考え方ができるのかと驚いた。
中国にとって不都合な事実や見方も、まずは相手の考えを知った上で相対的に論じようという態度で、私の目には視野の広い文化人に見えた。
■香港民主派の弾圧は出版関係者の拘束から本格化した
出版関係者の逮捕と言えば、2015年に香港にある「銅鑼湾書店」の店長や株主ら5人が相次いで失踪、拘束された事件が思い出される。書店親会社の株主である桂民海氏は、スウェーデン国籍でありながら、タイ・パタヤのリゾートマンションで連れ去られた。
銅鑼湾書店は当時、『習近平とその愛人たち(習近平与他的情人們)』といった、中国大陸では販売できない発禁本を多数扱っていたため、中国政府から圧力を加えられた。
![2019年8月31日、香港機動隊が一緒に香港島のコーズウェイベイMTR駅近くの道路を歩く](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/3/e/1200wm/img_3ee0b75b4c4be5a70121141f49526e4f488545.jpg)
香港ではその後、2019年の大規模デモと国家安全維持法の制定を経て、中国共産党に対する体制批判やゴシップ、天安門事件の再評価などの言論は一掃された。今回の富察氏の拘束を受けて、香港に続いて台湾の言論空間まで自由が奪われてしまうのかと危惧する声もある。とはいえ、その点はもう少し慎重に見極めたほうが良いかもしれない。
最近では、日本の大学に留学していた香港人の女子学生が3月上旬に香港へ一時戻った際、留学中に香港独立を支持するメッセージをSNSに投稿したことが問題視され、国家安全維持法違反の疑いで当局に逮捕された。女子学生は約2年前、フェイスブックにデモを支援するスローガンを転載し、その中に「香港独立は唯一の道」との文言があった。
■台湾の出版・言論の自由に圧力をかける中国
また、「台湾民族党」という組織を立ち上げ台湾独立を訴えていた台湾人男性の楊智淵氏は4月25日、中国・浙江省で国家分裂罪の疑いで正式に逮捕された。楊智淵氏は昨年8月、米下院議長のナンシー・ペロシ氏が台湾を訪問した直後、滞在中だった浙江省温州市で拘束された。
今回の件について、台湾の人権活動家で中国湖南省の刑務所に5年間投獄された経験を持つ李明哲氏は、次のように語っている。
「富察氏の拘束は、出版及び言論の自由に対して中国から圧力を加える手が、台湾にまで及んでいることを意味する」
「中国が堂々と国家分裂や国家転覆などの罪名を付けるのであれば、富察氏の名誉が汚されることはない。だが、中国のこれまでのやり方として、買春などの不名誉な罪を着せてくる恐れがある。私が逮捕された時も、ネット上に多数のフェイクニュースが流された」
![富察さん](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/c/c/1200wm/img_ccc4e08e52b2a722b373a266bf13e33c495680.jpg)
■あいまいな法律で社会を萎縮させるのが狙い
中国の国家安全法や反スパイ法は、取り締まりの範囲が非常に不明瞭とされる。何をしたら違法になるのかはっきりしないため、合法と違法の境界線がよく分からないのである。
身を守るためには「とにかく政府の嫌がることはやめておこう。迷ったら安全なほうを選ぼう」という選択をするしかないのだが、こうして社会全体を萎縮させることもまた、中国政府の狙いなのだろう。
だが、前述のような過去の拘束事例を見てみると、ある程度の“傾向と対策”は見えてくる。中国当局が拘束・逮捕に踏み切る際には、主に以下の要素を踏まえて総合的に判断しているのではないか。
・社会的な立場
・交友関係
・主義主張の内容や程度
・影響力
■中国共産党は「交友関係」も監視している…
国籍については中国籍、元中国籍、台湾籍、外国籍の4つの指標が考えられる。もっともリスクが高いのは中国籍、元中国籍と台湾籍は同程度で、外国籍はもっともリスクが低い。富察氏の場合は台湾籍を取得していたとはいえ、中国籍は残っていた状態だったため、比較的リスクは高い状態だったのではないか。台湾生まれの台湾籍の人物であれば、もう少しリスクは低かったかもしれない。
社会的立場については、一般人、会社経営者、研究者、民主活動家などの分類が考えられる。富察氏は民主活動家などではないものの、出版社の代表であり、しかも中国共産党の党員という立場でもあったと伝えられている。
身近な交友関係に民主活動家や政府高官、公安関係者などが含まれる場合、リスクは高まると思われる。中国メディアによると、富察氏の妻の父(義理の父)は強固な台湾独立支持者だという。また、元行政院長(首相)の蘇貞昌、元民進党秘書長の羅文嘉ら台湾の政界ともつながりがあったという。
主義主張については前述のように、非常にリスクが高い。本人の主張ではないが、出版社として代弁する役割を担っている点は、重視されるだろう。また、出版物が繁体字とはいえ、中国語で書かれている点も大きい。影響力についても、近年は自身のラジオ番組も持つなど、存在感を増していた。
今回拘束された富察氏は台湾に住む中国国籍だ。共産党にとっては、中国籍を放棄する前の「中国国内の中国人」として拘束するほうが、台湾や国際社会からの批判を避けやすいと踏んだのだろう。結果論ではあるが、今回のように政治的な理由で中国渡航のリスクが大きい場合、特例として除籍証明の提出を猶予できないものかと思う。日本人の私が語るのは、余計なお世話かもしれないが。
■この10年で激変したチャイナ・リスクを軽視してはいけない
富察氏が台湾に渡航した2009年は胡錦濤政権下にあり、自由な言論に対する締め付けや圧力は、習近平政権の現在に比べると、相対的に小さかった。
しかし、この10年ほどの変化は非常に大きい。香港の言論の自由が奪われ、台湾有事に関する議論が熱を帯びるにつれて、富察氏が台湾で中国政府の嫌がる出版物を発行するリスクも高まった。中国共産党が台湾問題にいっそう敏感になっている証左であろう。
今回の富察氏の拘束を、香港の言論弾圧を象徴する前述の「銅鑼湾書店事件」になぞらえる見方もある。台湾は香港と違ってそう簡単に手を出せる場所ではないが、強い経済力を背景に、中国は今後もさまざまな手段を駆使しながら、ゆっくりと台湾の言論空間を中国寄りに変容させていこうとするだろう。
富察氏は台湾に戻れるのだろうか。銅鑼湾書店事件で逮捕された店長らは、おおむね半年程度で釈放された。中国ではスパイ罪は罪状によって刑期が異なるが、軽い場合で3~10年、重い場合は10年以上と定められている。過去にスパイ罪などで中国当局に拘束された台湾人は、4~5年ほどの刑期を課せられた例が報じられている。
これらを勘案すると、富察氏のケースは少なくとも数カ月、長ければ5年ぐらい拘束される恐れもある。ただ中台関係、さらには米中関係からも影響を受けるため、はっきりしたところは中国当局にしか分からないだろう。
政治的に敏感な出版物を扱うことに不安はないかと尋ねた際、富察氏は短く「心配はしていない」と自分に言い聞かせるように明るく答えていた。まずは無事に台湾に戻れることを、願うばかりである。
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フリーライター
1981年、神奈川県生まれ。早稲田大学社会科学部卒。地方新聞の記者を経て、フリーランスとして活動。2009年に上海に移住、2015年まで現地から中国の現状をレポートした。主な著書に『この手紙、とどけ! 106歳の日本人教師が88歳の台湾人生徒と再会するまで』『中国人は雑巾と布巾の区別ができない』『上海裏の歩き方』、訳書に『台湾レトロ建築案内』など。
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(フリーライター 西谷 格)
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