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だから関ケ原の戦いで完勝できた…家康が言動から戦術まで徹底的にマネした「戦国最強武将」の名前

プレジデントオンライン / 2023年5月20日 13時15分

徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉(図版=大阪城天守閣/PD-Japan/Wikimedia Commons)

なぜ徳川家康は天下をとることができたのか。作家の加来耕三さんは「生涯唯一の敗戦である『三方ヶ原の戦い』後の行動に象徴される。武将としての凡庸さを痛感し、失敗や敵から徹底的に学ぶようになった」という――。(第1回)

※本稿は、加来耕三『教養としての歴史学入門』(ビジネス社)の第三章の一部を再編集したものです。

■徳川家康と武田信玄の意外な共通点

人間は往々にして、成功の類型(パターン)からは逃れられない。たとえば、一人の武将が奇襲戦を敢行して、それによって敵の大軍を破ったとする。多くの場合、この奇襲戦がその武将の成功の見本となり、“いざ鎌倉”の重大な局面には、かならずといっていいほど、決戦形式として使用されるものだ。

豊臣秀吉は木下藤吉郎時代、墨俣築城で売り出し、北近江の浅井長政と対峙したのも横山城(現・滋賀県長浜市)。信長の中国方面軍司令官に任じられて西へ遠征してからも、大半の敵地で城攻めをおこなっている。

なかには、わざわざ城攻めにしなくともよさそうな敵に対しても、かならずといっていいほど、秀吉は四方を囲んで攻城戦にもち込んだ。

これはさらに詳細を見ていくと、秀吉の出世の源が、調略によって敵将を寝返らせるという手法をもちいたことと、密接な関係があったろう。

一方、徳川家康はどうかといえば、心密かにその師と仰いだ武田信玄にも言えることだが、この2人は揃って城攻めが大の苦手であった。――ここ一番の決戦は、ともに野戦をもちいた。

■関ケ原前夜に家康が講じた策

まず、関ヶ原の合戦から語らねばならない。慶長5年(1600)9月15日、美濃の関ヶ原においておこなわれた、戦国史上空前絶後のこの一大決戦は、東軍を率いた徳川家康が、石田三成を主将とする西軍を一挙に屠(ほふ)り、その後の日本の方向である徳川幕藩体制を、事実上、瞬時にして成立させたものとして知られている。

家康の勝因については、これまでにもいくつかの要因が論じられてきたが、なかでも主因の一つと言われるものに、決戦前夜の家康の策略が挙げられている。

前日の9月14日の時点まで、石田三成をはじめ字喜多秀家、小西行長ら西軍主力は、美濃大垣城(現・岐阜県大垣市)に本拠を構え、東軍との決戦に備えていた。

この地は東山道(中山道)と美濃路を結ぶ交通の要衝であり、東海道と東山道のふた手から西上してくるであろう東軍を迎え撃つには、戦略上、格好の場所であったと言われている。

大谷吉継ら友軍が待機する関ヶ原は、大垣の西方、およそ16キロの距離でしかなかった。この時点では、西軍の方が地の利を得ていたといえる。当然、東軍側は地の利の差をなんとか、逆転しなければならなかった。

そこで家康は、大垣城の主力をおびき出す作戦に出た。

■関ケ原と武田信玄をつなぐ点と線

「東軍は大垣城を無視して素通りし、まずは佐和山(三成の居城)を落とし、近江から一路、伏見、大坂を突く」というニセ情報を、西軍陣営に流したのである。

するとどうであろう、驚いた三成は午後7時頃、秋雨をおして主力の3万余の軍勢を、密かに関ヶ原へ移動させてしまった。大垣城を迂回してくる東軍を、関ヶ原で迎え撃つ作戦に転じたのである。

まんまと作戦どおりに三成が関ヶ原へ誘い出されたことによって、結果的に西軍は負けたのだ、とする見方は専門家のあいだに根強い。

さて、この関ヶ原の敗因と、信玄・家康の城攻めに苦手であることがどう結びつくのであろうか。実はこの関ヶ原の戦いは、武田信玄がその死の直前、原型を立案し、自ら実践していたものであった。

「まさか、そんな馬鹿な――!?」

疑問に思われる向きもあろうが、うそではない。

高野山持明院所蔵「武田晴信(信玄)像」
高野山持明院所蔵「武田晴信(信玄)像」〔写真=『風林火山:信玄・謙信、そして伝説の軍師』(NHKプロモーション編)より/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons〕

■なぜ信玄は浜松城を攻めなかったのか

“三方ヶ原の合戦”が、信玄の死の4カ月前におこなわれた。この戦いは、のちに天下人となった家康が、生涯に一度の完敗であったことを素直に認めた合戦であり、家康の率いた負けしらずの三河軍団が、完膚なきまでに、叩きのめされた数少ない敗戦であったといえる。

元亀3年(1572)10月、ついに上洛を決意した信玄は、周到なプロジェクトを組んで西上作戦を展開したといわれている。京までの途中、その行く手を阻むものは織田信長とその同盟者・徳川家康の2大名だけであった(西への領土拡大策であっても、敵は2人)。

信玄は無敵の甲州軍団を率いて、進軍を開始。家康方の二俣城を攻略し、信長方の美濃岩村城を落として、計画どおりに進撃した。

12月中旬、家康の居城浜松城を目前に、甲州軍団は軍議を開いている。目前に迫った家康をどう処理すべきか、を話し合うためであった。

このときに信玄のとるべき処置は、大別して二つしかない。

一つは、浜松城を包囲して持久戦にもち込む戦法。信長が反対勢力(浅井長政、朝倉義景、本願寺、松永久秀ら)に釘づけとなっている以上、城を包囲すれば必ず落とせるという考え方から出ていた。

もう一つは、浜松城を無視して西上の軍を進め、徳川氏の本拠地三河を突くという戦法だ。

普通なら信玄は、前者を選択したに違いない。それが、戦(いくさ)の定石でもあったからだ。なのにこのとき信玄は、後者を採用している。軍議の席上、後方に浜松城を残したまま進めば、補給路が断たれる懸念が提議されたにもかかわらず、である。

■俺にも信長のような戦いができるはずだ…

信玄は軍団に、「浜松城は捨ておき、祝田、刑部、井伊の谷道(いずれも現・静岡県浜松市)を通過して、東三河に進発する」という布告を発した。

この決定を知った浜松城内では、徳川家の重臣・石川数正、内藤信成らが、「このうえは、敵がいかなる動きを示そうとも、味方は城門を閉じて出撃せぬことこそ肝要です。敵が通過したあと、その後方を攪乱するに越したことはありませぬ」口々に進言し、家康に自重を説いている。

同盟者の信長からも、同様の趣旨をしたためた書状が届けられていた。ところが、ひとり家康が納得しない。

「城下を通過する敵に対し、一矢も報いずに黙って見送ったとあっては、武門の名折れとなる」爪を噛みながら、珍しく怒りを露(あら)わにし、出撃の決断を下してしまった。

おそらく若い家康の脳裏には、自分の先輩ともいうべき織田信長が、27歳のおりになした快挙――このたびの信玄と同じく上洛を企てた、今川義元を桶狭間に奇襲した1件が浮かんでいたのではないか。

穿(うが)った見方をすれば、(自分は今、そのおりの信長より4歳も年長の31歳ではないか、信長にできて自分にできぬことはあるまい)と思ったとしても、不思議はなかった。

■2時間で死者1000人以上

家康は本来、血の気の多い人物である。慎重に物見(ものみ)を放ちつつ、家康は信玄の一行が“一望千里”といわれた三方ヶ原の台地が尽きるあたり、祝田と呼ばれる狭所で、そろって食事をとるとの知らせを聞きこむ。

三方ヶ原は浜松城の北にあって、東北から西南に横たわっている高原――ちょうど、のちの関ヶ原のミニチュアとみなしてもさしつかえはなかったろう。

家康はここぞとばかりに奮いたち、一気に甲州軍団を奇襲すべく出撃命令を下した。しかし、実はこれこそが信玄の策略であったことが、その直後に明らかとなる。

浜松城を無視して素通りした、と見せかけて甲州軍団は、食事をとるとのニセ情報を流す一方、家康の出撃を見越して、信玄の采配一つで一糸乱れぬ臨戦態勢をとっていた。

奇襲を企てた家康は、信玄のワナにかけられ、かえって迎撃を受けるはめに陥る。

――結果は、家康の完敗であった。

徳川方はすでに落とされていた二俣城の元守将・中根正照、青木貞治や部将の夏目次郎左衛門吉信などを失い、信長からの援軍の将・平手汎秀(政秀の子)も戦死。死闘2時間ののち、さらに疾風のような甲州軍団の追撃を受け、最終的には1000人以上の戦死者を出している。

■信玄に負けたから関ヶ原に勝てた

信玄は当初から、浜松城を放棄したまま通過するつもりはなかったようだ。といって、城攻めは苦手である。西上を急がねば、信玄を頼って信長に叛旗を翻(ひるがえ)した“信長包囲網”の諸勢力が危ない。

ぐずぐずしていれば、国力、火力にものをいわせた信長に、各個撃破される恐れがあった。この状況は、ちょうど関ヶ原の合戦前夜、家康がおかれていた立場に酷似していた。

西軍との対峙が長引けば、豊臣秀頼が政治的な動きを示し、味方の東軍諸将に亀裂が生じないとも限らなかった。そうなれば、万事は休する。

「勝兵は先(ま)ず勝ちて後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて後に勝を求む」と言ったのは孫子だが、若き日の大敗北を教訓とした家康は、己(おのれ)が信長と同じタイプの人間ではないことを思い知り、同時に、完敗した信玄に学んだのである。

家康は老練な信玄の戦法をマネることによって、“天下分け目”の戦いに勝ち、ひいては天下を取ることができたといえる。

三方ヶ原の戦いのおりの信玄は、52歳。関ヶ原の合戦のおりの家康は、59歳であった。家康がいかに、三方ヶ原の合戦を教訓としたか――。

■凡庸な自分が生き残る方法

これまでいわれてきたのが、今日なお徳川美術館に残る、三方ヶ原での敗戦のあと家康が命じて描かせたとされる自画像、いわゆる「顰(しかみ)像」であった。甲冑姿で床凡に腰をかけ、猛省する家康の姿が、そこにあった。

加来耕三『教養としての歴史学入門』(ビジネス社)
加来耕三『教養としての歴史学入門』(ビジネス社)

家康の非凡さは、多くの成功者が自身の敗北をひた隠しにしようとするのとは裏腹に、自らの敗北を、曲げた左足をかかえ込み、左手を顎にあてがい、意気消沈した姿に残して、失敗を肝に銘じたことにあった、とされてきた。

近年、この「顰像」は三方ヶ原とは関係なく描かれたものではないか、との疑懐(疑念)が研究者から呈(てい)されたが、このとき家康が心の底から自らの性格を反省し、凡庸な自分が生き残る方法として、学びの源=“真似び”を徹底して、敵の武田信玄の立ち居振る舞い、言行、戦略、戦術を徹底的にマネしたのは間違いなかった。

関ヶ原も、その一部であったわけだ。

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加来 耕三(かく・こうぞう)
歴史家、作家
1958年、大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業。『日本史に学ぶ リーダーが嫌になった時に読む本』(クロスメディア・パブリッシング)、『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』(日経BP)など、著書多数。

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(歴史家、作家 加来 耕三)

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