『こころ』も『羅生門』も不要なのか…高校国語で"文学"がどんどん減っていくことの大きすぎる弊害
プレジデントオンライン / 2023年5月26日 9時15分
※本稿は、齋藤孝『格上の日本語力 言いたいことが一度で伝わる論理力』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
■高校現代文が「文学国語」と「論理国語」に分かれる
文学というと「非実用的」「不要不急」というイメージを持ってしまう方が少なくないようです。これはとても残念な誤解です。
その誤解が、いま国語教育の現場でも広がっています。高校の現代文の領域では、契約書や自治体の広報といった実用文の読解を中心とする「論理国語」と、これまでのような小説などを中心とした「文学国語」に分かれ、大学入試や単位システムの問題から、ほとんどの生徒が「文学国語」を取らず、「論理国語」のみを学ぶことになるのではないか、と危惧されています。
これは文部科学省が2018年に告示し、2022年春にスタートした新学習指導要領にもとづいた政策です。
こうした選択制がはらむ危険性はきわめて高いと考えます。というのも、選択しなくて済むなら生徒は自分の苦手な科目は勉強しなくなってしまうものだからです。論理国語のみを選択すれば文学国語は弱くなり、文学国語のみを選択すれば論理国語が弱くなるのは必然です。私は、「論理国語」と「文学国語」を選択制にするのではなく、これまでのように高校1年では「国語総合」を必修とした上で、2年生以降で、発展的な内容を学ぶ際も、文学的テキスト、評論文、古典など満遍なく読むようにすべきだと思います。
■実用的な文章が必要なら、加えればいい
もし実用的な文書を読む力や、社会の中で起きていることに対応していくことがより必要だ、というなら現状の国語の中にそういう部分を加えれば良いわけです。文学的な文章と、実用的な文章を分け、ゼロかイチかを迫るような必要はありません。
思い起こすのは、1990年代から高校で本格的な理科・社会の科目選択制が採り入れられた失敗例です。たとえば、1970年頃までは普通科に通う高校生の9割が物理を履修していましたが、現状は1割台に低下しています。
学校というのは本来、家庭ではうまく継承することのできない、文化的に非常に価値のある「文化遺産」を継承していく場所なのです。物理学という、人類の智が集められた文化遺産を、高校生の8割以上が勉強することなく卒業していくのは由々しき事態です。国民のほとんどが「物理」の何たるかを知らないのに、「科学立国」を唱えてもムリがあります。
同じように、数学も文化遺産ですし、国語においても『源氏物語』や漢文、そして夏目漱石に代表される近代文学は文化遺産です。生徒に得意分野だけをつまみ食いさせるのではなく、すべてを必修で学ばせるべきです。
■国語が「心を強くする」役割を担ってきた
もし教育政策を決めている人たちが、「文学」は実用的ではないと考えているなら、実用的とか社会で役に立つ、ということをあまりに安易に考えすぎていると思います。
いま日本社会で求められている力は、パソコンの取り扱い説明書を理解したり、お客さんの注文にマニュアル的に応えたりする、といった能力ではありません。そういったAI(人工知能)にまかせられるような能力ではなく、インターネットで「検索」しても出て来ないような、「想定外」の状況にどう柔軟に対処していけるかどうか、という「生きる力」です。その土台となるのが「心の力」なのです。
心が弱ければ、どんな仕事も長続きしません。逆に心が強ければ、失敗をしてもそこから学び、仕事を覚えていくことができます。心を強くするのは、道徳だけでは担いきれません。そもそも高校に道徳は、教科としては存在しないのです。これまでその分野を担ってきたのが、実は国語だと私は思っています。夏目漱石の『こころ』や芥川龍之介の『羅生門』や中島敦の『山月記』を読むことで、人間の心の複雑なメカニズムを学び、心の基礎体力をつけることができるのです。
■仕事のできる人は「人の気持ちがわかる」
仕事をする上で、国語力は非常に役にたちます。というのも、仕事で重要なことは、相手の感情の動きをとらえることだからです。会議の中でも、いまこの人の心情は賛成に傾いているのか、反対に傾いているのか、様々な心理的要因を汲み取りながら、その場で臨機応変に読み取ることができない人は仕事が不自由になります。
売る側から買うお客さんの側に、立場を変換して考えてみたり、柔軟に提案の仕方を変えてみたり、といったことは、これからますます大切になってくる「コミュニケーション力」の基礎です。コミュニケーションの基礎になるのは、「人の気持ちがわかる」ということです。
「ああ、こういうことを言うと、人は傷つくんだな」とか、「今この人はこんな表情をして、言葉では表面上こんなことを言っているけれど、内心はこうなんだろうな」とか、心の繊細な部分を感じ取るのは文学の専門なわけです。
そうしたことは契約書や会議の議事録では勉強できません。すぐれた文学は、読者の目の前で事態が同時進行的に動いていくわけですから、まさに「生きた教材」なのです。
■これまでも「想像力」を育てる試みは行われていた
もちろん、新学習指導要領の「問題発見、解決能力」「提案力」といった部分をより強化しなければならない、という方向性は間違っていないと思います。そして問題発見や、提案をするための前提となるのが、「想像力」です。
ただ、そこはこれまでも授業の中で色々な試みが行われてきたのです。たとえば『羅生門』のラストは、「下人の行方は、誰も知らない」となっていますが、「その先がどうなるか、続きを考えてみましょう」とか、森鴎外の『高瀬舟』を読んで、この時代から安楽死が問題になっていたんだ――、どうすべきか自分なりに考える、といった授業も可能でしょう。あるいは新聞を題材に、実用的な日本語を読解し、論点を見出すような授業も実践されています。
しかし、そうした問題発見・提案型の取り組みが今ひとつ目立たなかったのは、主観的な部分が含まれるので採点がしにくく、入試には馴染みにくかったからです。
■架空の高校の「生徒会の規約」を読み解く例題
2021年から、大学入試センター試験に代わり、「大学入学共通テスト」がスタートしました。国語の出題方法も大きく変わると見られていましたが、小説作品が2年連続で出題されたことは歓迎すべきでしょう。しかし本番に先立って行われたプレテスト(試行調査)を見る限り、実用的な志向が強く打ち出されています。たとえば架空の高校の生徒会の規約を読み解き、その規約を改めようとする生徒と教師の会話をもとに、記述式の解答をする、といった例題が出されました。
では、こうした問題作成の方向性は、論理的思考力を測り、実践的な日本語運用能力を高めることにつながっていくのでしょうか?
試験というのは、それが何の力を測るためか、ということ以上に、その試験に向けてどんな準備をすればよいかが明確になっていることが必要です。私は大学の新入生に毎年聞いていますが、彼らは全員これまでのセンター試験はよくできていて、それに向けてどんな対策が必要かは分かっていた、と答えます。しかし、共通テストの問題点は、それに向けて準備をするのが難しいということです。また、「現代国語」しか教えたことのない国語教員の間では、「論理国語」に対する当惑が広がっている、というのが本当のところではないでしょうか。
■文化遺産の継承という役割が疎かになる
単に、PISA型学力に対応しなければならない、といった場当たり的な出題では、予備校的な受験対策で簡単に見切られてしまい、生徒はそのマニュアルだけを覚えていくことになっていくかもしれません。あるいは学校現場も共通テストの出題をにらみながら、より得点を取りやすいよう教える中身をシフトさせていく、といった可能性もあります。それでは、本当に日本語能力を高めるのとは、むしろ逆行することになります。
漱石や鴎外のような文豪の作品、あるいは『源氏物語』や『枕草子』のような古典的な作品は、作者の人格の大きさ、文学世界の広さから来る「凄み」があります。現代的な話し言葉に近づいた文章ばかりが教科書に載るようになると、離乳食のようになってしまいます。ましてや、契約書のような、誰が書いたかもわからないような文章ばかりを読まされるようになると、国語が担ってきた文化遺産の継承という役割がきわめて疎かになる。そこを、私はいちばん危惧しています。
国語力を高めるためには、「文は人なり」を実感できるテキストが大切なのです。
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明治大学文学部教授
1960年静岡県生まれ。東京大学法学部卒業後、同大大学院教育学研究科博士課程等を経て、現職。専門は教育学、身体論、コミュニケーション論。ベストセラー作家、文化人として多くのメディアに登場。著書に『孤独を生きる』(PHP新書)、『50歳からの孤独入門』(朝日新書)、『孤独のチカラ』(新潮文庫)、『友だちってひつようなの?』(PHP研究所)、『友だちって何だろう?』(誠文堂新光社)、『リア王症候群にならない 脱!不機嫌オヤジ』(徳間書店)等がある。著書発行部数は1000万部を超える。NHK Eテレ「にほんごであそぼ」総合指導を務める。
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(明治大学文学部教授 齋藤 孝)
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