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「休みから学ぶものは何もない」名将オシムがどれだけ批判を受けても"61日間オフなし練習"を続けた理由

プレジデントオンライン / 2023年5月19日 15時15分

2007年7月15日、1次リーグのベトナム戦を控え、会見で記者の質問におどけた表情を見せる日本代表のイビチャ・オシム監督(ベトナム・ハノイ市内のホテル) - 写真=時事通信フォト

強いチームを作るにはどんな指導が必要なのか。サッカー日本代表の監督を務めたイビチャ・オシム氏は、ジェフユナイテッド市原・千葉の監督に就任した際に61日間連続で練習を続けたことがある。チームドクターだった池田浩さんは選手のケガを心配したが、意外なことに練習を重ねるほど選手のけがは減った。ジャーナリストの島沢優子さんの著書『オシムの遺産』(竹書房)から一部を紹介しよう――。(第2回)

■「公式戦の帯同ドクターはおまえひとりでやれ」

チームドクターは、心配でたまらなかった。

目の前の選手たちは、息を切らせて懸命に走っている。だが、ボールはまともにつながらない。それぞれの判断もサポートも遅いのに、監督は「パススピードを上げろ!」と高速パスを要求する。パスを受けに来る味方に合わせてボールスピードを落とすと「遅いっ」と雷が落とされるのだ。

「もう全然サッカーになってなくて。専門家でもないし余計な心配かもしれませんが、これで大丈夫かなとハラハラしていました」

そう話すのは、当時ジェフを任されていた池田浩だ。茨城県の名門日立一高サッカー部出身で、順天堂大学医学部大学院在学中に古河電工サッカー部のドクターに。その後Jリーグ発足からしばらくして、ジェフのチーフドクターになった。

オシムがやって来る前は、合宿には帯同するものの、練習日にクラブハウスを訪ねるのは1週間に1回だけだった。練習を見て、けが人のチェックをしたら監督に報告し、週末は公式戦に足を運ぶ。公式戦約40試合はドクター5人が交替で担当したが、池田はチーフなので、その6割を請け負った。

ところが、オシムが「ドクターが変わると選手のメンタルに影響するから、公式戦の帯同ドクターはおまえひとりでやれ」と池田に命じたのだ。当時、ひとりのドクターが専任でつくのは、浦和レッズ、ガンバ大阪、名古屋グランパスといった大きなクラブだけ。ドクターを雇用できるのは資金力があるからこそである。これに対し、ジェフは勤務医や開業医が本業の合間に自分の時間を割いていた。そのなかで池田ひとりが、順天堂大学での病院勤務をこなしながらほぼ全ての公式戦に帯同する。異例のことだった。

■オシムが予定表を作らなかったワケ

なにしろチームドクターの仕事は多岐にわたる。選手の入団時などにメディカルチェックを翌朝までにやってくれとか、外国人選手の夫人が発熱したので今から見てほしいといった要望にも応えなくてはならなかった。

そのうえ、キャンプ後の3、4月は、途中からリーグ戦も開幕したというのに丸々2カ月、61日間オフは一日もなかった。困ったのはそれだけじゃない。オシムジェフで「スケジュール表」が配られたことはほとんどない。練習後にようやく翌日の集合時間が決まるのだ。チームから「オシムさんが今日は午後ではなく午前10時から練習を始めると言っている」などと突然連絡が入ることも少なくなかった。

この当時、池田の家には幼い息子と娘がいた。子育ては全面的に妻任せであった。午前中に大学へ行って仕事をした後、いったん自宅へ戻ってからジェフの練習に出かけようとする父に、娘がこう言った。

「お父さん、今度またおうちに遊びに来てね」

池田がたまらず「なぜ予定表を作らないんですか?」とオシムに聞くと「休みに合わせて遊んだり、デートするからだ」と返された。選手にはこう言い放った。

「選手が疲れているかどうかを判断するのは私だ。それに、おまえたちは休んでるじゃないか。今日の練習は午前中で終了した。明日は夕方からだ。ということは24時間以上休みを与えている」

記者からの「選手を休ませないないのか」という質問にはこう答えた。

「忘れないでほしいのは、休みから学ぶものは無いということ。選手は練習と試合から学んでいくものだ」

選手もコーチも池田も、最初からオシムに振り回され続けた。

■「まるで別のチームを見ているかのようでした」

ところがある日、池田は自分の仕事を忘れ一瞬練習に見入ってしまう。

「ボールがつながるようになってたんです。あれ、選手たち、上手くなってるぞと驚きました。キャンプから帰って来て3週間くらいでしょうか。医者の僕が言うコメントではないかもしれませんが、まるで別のチームを見ているかのようでした」

ボールをキープするサッカー選手の足元
写真=iStock.com/matimix
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/matimix

一方で池田は「オーバートレーニングになっているのではないか?」と心配もしていた。選手はかなりの負荷をかけられていたからだ。試合翌日も休まず練習する。大学や社会人チームとのトレーニングマッチが入れられるときもあった。けが人を出してしまえば、ドクターの責任だ。

優勝争いを演じ3位に入ったファーストステージを終え、セカンドステージに入る前にミニキャンプが行われた。すると、1日で2人も肉離れを起こした。池田は「監督にメディカルに問題があると言われるんじゃないかと内心ドキドキした」が、報告に行くとこう言われた。

「いや、今みたいにやっていれば、あと2、3人(けが人が)出てもおかしくないぞ」

池田は「拍子抜けしました」と苦笑する。

「それとともに、オシムさんはどれだけ厳しいトレーニングを選手がやっているかをわかってやってるんだと思いました。その後、そのときの予言通り、実際に故障者は増えたのです」

■ハードな練習をしたのにけが人は半減

池田の手元にあるジェフ時代のデータを見ると、2003年に17人、04年に22人と肉離れを起こす選手が増えていった。オシムは上手く選手を回していたのでそんなに目立たなかったのは、若い選手を軸にした布陣だったからだ。その陰で、ベテラン選手がどんどん壊れていった。それでも、オシムは手綱を緩めない。

「(練習の)やり過ぎなどではない。とにかくトレーニングしなくちゃいけないんだ」

その後、衝撃的なことが起きる。2005年、06年になると肉離れを起こす選手が半減していた。勇人も羽生も「あんなにハードに練習していたのに、けが人が少なかった」と記憶している。池田も当時は「なぜ減ったんだろう? 以前と同じように厳しい練習をしているのに?」と不思議でたまらなかった。

選手にそのころ施したメディカルチェックの結果を見ると、筋力に変わった様子はない。ただ、乳酸テストの結果が著しく向上していた。要するに、選手は乳酸がたまりにくい体に変化していた。これが肉離れなどけがの減った大きな要因だと考えられる。

特に、レギュラークラスで20代前半の若手選手は顕著だった。例えば豊富な運動量が持ち味の羽生などは毎年肉離れを起こしていた。羽生自身も「年に一度は(肉離れで)1カ月は離脱しなきゃならなくなることを、毎シーズン想定していた」と話している。

■調子が良くなりすぎて肉離れを起こす選手も

ところが、2006年のけが人リストに、彼の名前はない。

「彼の乳酸テストの結果も急激に良くなっている。これがすべてとは言いませんが、ひとつの背景ではないかと思います」と池田は振り返る。乳酸がたまりにくければ当然筋持久力は増す。選手たちは負荷をかけ続けることで、縦横無尽に走れ、なおかつけがをしない体になっていた。

また、オシムは、練習後に自主トレをしたがる選手をこう言って諫めた。

「(居残りの)シュート練習も、筋トレもやらなくていい。俺のトレーニングに全部入っている」

マーカーコーンを使ってウォーミングアップ
写真=iStock.com/Koonsiri Boonnak
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Koonsiri Boonnak

つまり、自分が用意した練習をやれば体もつくれるというわけだ。このことについて、池田は「オシムさんが言ったことは本当だった。それがひとつの結果になって表れたんでしょうね」と唸った。

池田によると、肉離れを起こすのは「比較的コンディションがいいとき」だという。気分良く張り切って走っていたのに、突然太もも裏を押さえながら倒れ込む。選手から「今日は体がキレてたのに」とこぼすのを何度も聞かされた。

「体が動くからつい行き過ぎちゃうのかもしれません。本当はそこまでやらなくていいのにやってしまう。そういうときに起きるようです」

■メディカルも選手と同じようにリスクを負っている

よく似た状況で思い出されるのは、2004年7月29日に国立競技場で行われたレアル・マドリードとの親善試合だ。オシムに二度もオファーを出した銀河系軍団は、これ以上ない豪華な顔ぶれだった。左サイドバックはロベルト・カルロス。中盤にベッカム、フィーゴ、グティで前線にラウル。ベンチにはジダンがいた。この特別な試合、オシムは「選手全員を出してやりたい」と言ってはばからなかった。

「ドクトール(ドクター)、山岸はいけるか?」

このレアル戦前、オシムから山岸智の先発出場を打診された。肉離れで離脱して4週間が経過。戦線復帰のタイミングをちょうど探っていたときだった。20歳の右サイドのアタッカーにロベカルとのマッチアップを体験させたかったのだろう。

圧痛はすでにない。筋力測定の値もOK。肉離れの復帰基準はすべてクリアしていた。池田は「問題ないでしょう」GOサインを出した。

後半5分。それまで快調にプレーしていた山岸は肉離れを再発。交代を余儀なくされた。肉離れの再発は治すのに時間がかかる。再起するまで結局8週間程度を要した。

池田は(怒られるのではないか)と気が気ではなかったが、このときもオシムは何も言わなかった。頭の中に、自分たちが言われたオシムの言葉が浮かんだ。

「メディカルも当然リスクを負うんだ。われわれはチームとしてリスクを冒している。だから、あなたたちも、ともにリスクを負う必要があるんだ」

■「リスクを冒して失敗したら褒めてやるんだ」

これに関連する話はいつも示唆に富むものだった。

例えばプレミアリーグでは、それぞれのクラブのスター選手が出るか出ないかで客の入りが変わってくるうえ、テレビの放映権料にも影響を及ぼす。したがって負傷した選手の離脱や復帰にかかわるメディカルグループ、つまり池田らドクターやトレーナーも大きなリスクを背負わなくてはいけない――そんな話をたくさんした。そのたびに「リスクがないサッカーは面白くない」と言いながら首を小刻みに振るのだった。

「リスクを冒して失敗したら、褒めてやるんだ。その代わり、次に同じ失敗をしないようにすることを考えてもらう。そうやって選手は成長する」

池田は「もしかすると、僕らもそういうふうに成長させられたんでしょうね」と微笑みながら当時に思いを馳せる。

痛みの走るひざを両手で圧迫している選手
写真=iStock.com/PeopleImages
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PeopleImages

レアル戦から3カ月後の10月17日に日本平スタジアムで行われた、Jリーグセカンドステージ第9節清水エスパルス戦。オシム体制2年目にしてスーパーサブにのし上がっていた林丈統は、膝の半月板を痛めていた。練習は出ていたが痛みはあり、エントリーメンバー18人に入れるかどうか微妙な状況だった。コーチングスタッフがいる場面で、オシムが池田のほうを見て言った。

「おまえが決めろ」

池田がオシムの信頼を得た証しだった。

え? なんでオレ? 一瞬たじろいだが「えー、(痛み止めの)注射をすればいけます」と答えた。

■「サッカー選手にとって痛みなんて日常なんだ」

激戦になった。前半はスコアレスドローだ。後半8分にサンドロが得点しリードしたものの、25分に伊東輝悦が同点打。ホームのエスパルスは勢いづき、追いつかれたジェフに焦りが見え始めた32分、オシムはサンドロに替えて林を投入した。

「祈るような気持でした。試合終了まで何とか持ちこたえてくれ、と」

池田の祈りに応えるかのように、林は決勝ゴールを決めてみせた。

「痛み止めの注射をしてね。で、決勝ゴールを決めちゃったんです」

池田はまるで昨夜行われた試合を振り返るかのように、興奮気味に語った。どれほど嬉しかったのかが垣間見えるのと同時に、オシムから最終決定を任された「重さ」が伝わってきた。

「プロのサッカー選手がどこも痛みがなく出られる試合なんて、何試合あると思ってるんだ。サッカー選手にとって痛みなんて日常なんだ」

そう言って、オシムは選手時代の終盤はほとんどの試合で痛み止めの注射を打って出場していたと話してくれた。さらに、痛みのためにトレーニングをコントロールしたり、負荷を軽減して調整することも許さなかった。

「試合に使いたいからといって、練習をコントロールするのは絶対ダメだ。痛みがあってもトレーニングを優先させる選手しか出さない」

■リスクを見極めてチャレンジするかを判断していた

実際に、痛みがあるからと練習を休む選手は起用しなかった。当時は週末にリーグ戦などがあったため、ほとんどの場合は水曜日に大学生などを相手に練習ゲームをやったが、その試合に出なければリーグ戦では起用しない。それは外国人であっても同じ条件だった。これは日本代表監督になった後も貫かれた。別調整の選手は使わないと断言して新聞記事になったが、ジェフの選手やスタッフは何を今さらという感覚だった。

当時痛みに関する考え方は「選手の痛みを全部取ってあげること」がメディカルの役目のように池田は感じていた。

「医者の立場からすると、けが持ちだったり痛みのある選手は試合に使わない。休ませるのが一番なんです。それが最もセフティ。そうすればリスクを回避できる。無理に試合に起用するのが一番のリスクなんです」

違和感のあるすねに手を当てている選手
写真=iStock.com/Koonsiri Boonnak
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Koonsiri Boonnak

だが、オシムは違った。選手のリスクがどの程度なのかを客観的に判断して、そこをチャレンジするかどうか。痛みと共存させるリスクをとる。そこがメディカルの腕の見せどころだと教えてくれた。

■「限界に、限界はない」

起用する側はもちろんだが、選手からしても「ここで出場しなくては」というチャンスや瀬戸際の場面がある。そこを踏まえ、池田は「痛みを抱えている選手の対応についても、あらためてオシムさんから学びました。本当に勉強させてもらった」と言って頭を垂れた。

「限界に、限界はない。限界を超えれば、次の限界があらわれる」

オシムのこの言葉を、池田は大切にしている。次々に出現する「限界」に挑み続けた結果、見たことのない景色に出会えたのだ。林のゴール然り、チームの躍進然り。また、チーム全体のありようを俯瞰で見ると、さまざまな革新が起きていた。

島沢優子『オシムの遺産』(竹書房)
島沢優子『オシムの遺産』(竹書房)

まず、選手が「休みたい」と言わなくなった。健康管理に注意するようになった。練習以外は体を休め、きちんと食事を摂った。飲みに行くこともなくなり、サッカー中心の生活を送るようになった。医学的な面をみると、内科疾患までぐっと減った。風邪や腹痛はもちろんのこと、体調不良がほとんどなくなった。

「オシムさんのサッカーは楽しかった。試合を観ていて、ワクワクしました。自分たちが負けても、楽しかったです」

負けても、楽しい。

池田はさまざまな学びとともに、スポーツの本質をも満喫したのだった。

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島沢 優子(しまざわ・ゆうこ)
ジャーナリスト
筑波大学卒業後、英国留学等を経て日刊スポーツ新聞社東京本社勤務。1998年フリーに。近著に『スポーツ毒親 暴力・性虐待になぜわが子を差し出すのか』(文藝春秋)『世界を獲るノート アスリートのインテリジェンス』(カンゼン)『部活があぶない』(講談社現代新書)など。『高学歴親という病』(成田奈緒子/講談社α新書)『教えないスキル ビジャレアルに学ぶ7つの人材育成術』(佐伯夕利子/小学館新書)など企画構成した書籍もヒット。「東洋経済オンラインアワード2020」MVP受賞。日本バスケットボール協会インテグリティ委員。沖縄県部活動改革委員。

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池田 浩(いけだ・ひろし)
順天堂大学大学院保健医療学研究科 教授
1989年より日本リーグ・古河電工サッカー部チームドクター、そして1993年よりジェフユナイテッド市原チームドクターを務め、2003年からの3年半は、オシム監督の下でチームの医学管理に携わった。2010年からはサッカー日本代表チームドクターとして、2014年FIFAワールドカップ・ブラジル大会、2018年ロシア大会に帯同した。2014年からJFA医学委員会委員長を務めている。

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(ジャーナリスト 島沢 優子、順天堂大学大学院保健医療学研究科 教授 池田 浩)

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