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女性2人を殺害し性器をズタズタに…25歳で極刑を宣告された男に教誨師が「死刑の必要なし」と記したワケ

プレジデントオンライン / 2023年5月25日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Gianluca68

浄土真宗の僧侶だった田中一雄は、明治~大正時代に、死刑囚に道徳や倫理を説く教誨師を務めた。田中は手記で「死刑の必要なし」と死刑制度にあらがい続けた。その真意とは何か。田中の手記を読み解いたノンフィクション作家の田中伸尚さんの著書『死刑すべからく廃すべし』(平凡社)より、一部を紹介しよう――。

■明治時代は殺人が区別されていた

田中が手記に書き残した100人を超える死刑囚の犯罪の多くは、時代を投影した強盗殺人や色情による謀殺(計画的殺人)、また酒や賭博などによる故殺(旧刑法では謀殺と故殺は区別されていた)などである。

死刑囚の起こした殺人事件のうちでとくに多いのが、田中が「情欲殺人」と呼んだ事件である。

田中が1900(明治33)年2月2日に絞首台に見送った千葉県出身の謀殺犯の死刑囚(犯行時41歳)は、両親とともに農業に従事していたが、学校には通ったことがない。地元の日蓮宗の寺の信徒で、酒は5勺(約90cc)程度を嗜むぐらいだったが、賭博を好み、夫のある女性と親しくなり、情交をつづけるために女の夫を殺害してしまった。情欲殺人で初犯であった。

田中はこの男が犯行に至ったのは性格に起因していると見た。「小児らしき性急と、強烈なる情欲を有し、その情欲を満足せしめんためには、毫も危険を顧みるの暇(いとま)なし。今回の犯行の如きも強烈なる情欲の結合に起因する」。

■和歌を嗜む田中は死刑囚をどう諭したか

このような人物に田中はどんな教誨(きょうかい)をしたのか。死刑執行の前月の教誨では、古歌に精通していた田中は、僧正遍昭(へんじょう)作の著名な和歌「たらちめはかかれとてしもむばたまの わが黒髪を撫でずやありけむ」を読み上げ、両親が愛情を注いで育てたのは世の中で悪事をするためや世の人から忌み嫌われるためではない、と教誨した。

この死刑囚はこれに強く心を震わせたようで、「誠に申し訳なし」と深く頭を垂れたと田中は書き記している。これだけで男が、犯した罪を悔い改めたとは思えないが、刑の執行を告げられて監獄を出る直前の様子を「出監時の動作」のところで田中は書き留めている。

「死刑執行出監時、最も改悟せるものの如く、藤澤典獄及び(監獄)二課長へ懇切なる謝辞を述べた」

「備考」欄で田中は、「罪なき人を殺害し、余命を保つべき謂(いわ)れなし」と、この死刑囚のことばに接し、観念して刑場へ向かったと記しているが、そのあとにこんなことばを置いている。

「斯くの如きものもまた死刑を執行する必要を認めざるなり」

なぜだろう。

「すべて情欲より起因する犯罪(謀殺あるいは強盗殺人)は、時日を経過するに従い、改心の情頻りに起こるもの(が)多」いからだと。これは、長い教誨体験によって田中が得た結論の一つだった。

■嫉妬から2人の女性を殺害した25歳の少年

東京・東村山出身の25歳の青年には、早くから将来を約束した女性がいた。その契りから2年ばかりしたころ、許嫁(いいなずけ)の態度が急に冷たくなったため問い詰めると、互いの家の経済状態があまりに不釣り合いなので結婚はできないというのだった。今さらなんだ、と青年は憤懣やるかたない思いを抱いたが、じつは許嫁は他家の男との結婚が決まっていたのだった。それを知った青年は嫉妬で狂いそうになったが、許嫁の結婚の世話をした女性がいることを知った。嫉妬は憎しみに変わり、2人に強い殺意を抱くようになった。

1897(明治30)年春、4月下旬のある日の午前8時ごろだった。2人の女性が知人宅から帰宅することを聞きつけた青年は包丁を懐にして待ち伏せしたが、2人は現れなかった。諦めずにその日中探し回り、ついに街道を歩いている2人を見つけ、許嫁の前に立ちはだかり、街道脇の山中に引っ張りこみ「将来を約束しておきながら他家に嫁ぐとはあまりに人をバカにしてる」と罵り、怒りと嫉妬と憎悪の炎を一気に燃え上がらせて懐の包丁を取り出して胸倉をつかんで喉を突き刺し、即死させた。

心配で追ってきた結婚の仲介をした女性は現場を見て、驚き逃げようとしたが、捕まり絞殺されてしまった。非道な犯罪を隠すために青年は、2人の死体を縄で縛り、猿轡(さるぐつわ)をかませ、数カ所を包丁で刺し、陰部にまで激しい傷を負わせ、さらに2人が持っていた金まで奪った。強盗強姦(ごうかん)を装った非道な情欲殺人であった。

壁に映るナイフを握る手の影
写真=iStock.com/Makhbubakhon Ismatova
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Makhbubakhon Ismatova

■「一命は助けてほしい」との懇願は聞き入れられなかったが…

惨(むご)い殺人を犯したこの青年の両親は健在で、兄弟姉妹が7人もいた。教育はまったく受けておらず、若いころから気ままな生活をしていた。酒は嗜む程度で、家の宗教は真言宗だったが信仰心はほとんどなかった。

そんな家庭環境で育ち、情欲殺人を犯してしまった青年は、教誨のたびに非を諭す田中に訴えるのだった。自分はやってしまった行為を十分に悔悟し、改心しているので、何とか一命が助かるように典獄に頼んでほしいと。この訴えに田中が具体的にどう応答したかは手記には書かれていないが、むろんその訴えが叶えられるはずはなかった。田中はしかし、「備考」欄で書いている。

「彼の如きも永く監督の下に導き教訓することあれば、必ず改心者となるものと信ずるなり。多くは色情より起因する犯罪の如き、死刑執行の必要なき、今さら言を俟(ま)たざるべし」

田中はここでも色情による犯罪に対して死刑不必要と述べ、長く拘禁してじっくり教誨すれば「必ず改心者となるものと信ずる」に、傍線を引くように記している。田中はさらに付け加える。

「毎時ながら、恋情殺人罪の如きは、いつまでも社会に害毒を流すものに非ず。殺すの必要なきものなり」

田中は「恋情殺人罪の如き」の前に「毎時ながら」ということばをわざわざ置いた上で、「(情欲殺人は)社会に害毒を流すものではない」からという理由を挙げている。これは刑事政策上からではなく、やはり長い教誨体験から、情欲によって殺人を犯してしまった犯罪者には、死刑で生命を奪うのではなく、「再生」の道を探ってじっくりと時間をかけた教誨こそが必要だと田中は強調したかったのであろう。

■不倫関係の末夫を殺害し死刑囚となった男女

事件から9年後に捕まって死刑囚になった男女がいた。

長野県小県(ちいさがた)郡出身の2人の男女による殺人事件が起きたのは1891(明治24)年夏である。男は28歳の時に商売を営んでいた他家の養子となり、そこで迎えた妻が病死し、それから放蕩(ほうとう)がはじまり、しげく通うようになった料理店の妻と好(い)い仲になる。いつとはなしにそれは店の主人に気づかれ、2人は愛を遂げるには店主を亡き者にするしかないと、7月のある日知人と酒を飲んで泥酔していた店主を襲って殺害した。

男は33歳、女は31歳で3人の幼子を置き去りにして一緒に東京へ逃げる。それから9年の歳月が流れた。だが2人の犯罪は発覚し、逮捕され、ともに死刑判決を受けた。

田中の教誨に男は犯した罪を深く悔いるようになった。田中は手記の「備考」欄で、「噫(ああ)、色情より起こりし犯罪の如きを、死刑に処するは真に無益の刑と言うべし」と死刑は無益だとまで断じている。つづけて「(情欲殺人は)生命を絶つまで(社会)に害毒を流すべきものに非ず」という持論をくり返す。「(2人は)犯罪当時より九年間の長年月、東京に潜匿なりしも、何らの社会に対して不良行為あることない」のがその証だからだという。

■社会に害悪のない者は「死刑にするには及ばず」

田中は女監で3人の子の母だったこの女性の教誨も担当した。郷里から逃げて9年間、女性は義母や子どもたちのことが気になりながらも、罪を背負っての生に嘖まれて便りも出せなかった。それを聞き及んだ藤澤典獄が女の出身地の役所などで子どもたちのその後を調べ、そのおかげで女性は処刑前に詫びの手紙を家族に出すことができた。

田中の教誨の折りに女性は、郷里を逃げたとき三女はまだ8つで、右の手に火傷をし、包帯をして痛みをしきりに訴えながら眠っていたのを、「鬼か蛇か」のように見捨ててしまったと咽びながら語るのだった。藤澤の調査で8つだった子が結婚したことも死刑執行の日の朝に知らされた女性は身体を震わせて慟哭(どうこく)した。

藤澤の加害者への温情豊かな寄り添いについて田中は手記のなかでしばしば言及しているが、ここでは典獄と教誨師の2人の温情が一つの物語になったようでもあった。田中は処刑されたこの女性についての「備考」欄でも「死刑を行なうの益なき」と結んでいる。

2人の死刑執行は1900(明治33)年5月29日、同じ日であった。

手記には、情欲に絡んだ殺人事件は十数件を数えるが、いずれについても田中は「死刑の必要なし」「死刑にするには及ばず」「死刑は無益なり」などと言い切っている。

■先輩の妻との関係を続けたくて先輩を手にかけた染め物職人

情欲に起因する殺人事件は、いつの時代も、どこでも、そして不思議な具合で起きる。

長野県中部出身の28歳の染め物職人は同業者の先輩宅に住み込みで働いていたが、20歳上の同業者の妻と通じるようになった。1900年3月下旬、染め物職人はその妻との関係をつづけたくてついに先輩を殺してしまった。これが一、二審の裁判で認定され、死刑判決を受けた。ところが上告審になって染め物職人は、殺したのはじつは女のほうで、自分は使嗾(しそう)されて遺体を埋めるのを手伝っただけだという「新事実」を明かした。それによると、あらましこうだった。

先輩の妻は、夫がなかなか賭け事を止めないので注意すると暴力を振るわれ、このままでは死ぬしかないと訴えた。驚いた染め物職人が止めたところ、一緒になってくれれば思いとどまると言い寄るのだった。その後も女は、夫には将来の見込みがないから一緒になりたいなら、始末してほしいと再三にわたって夫殺しを持ちかけたが、染め物職人は同意しなかった。

ある日の夜、女がやって来て、今しがた夫を殺したので死体を片付けてほしいというのであった。言われたとおり、男は遺体を先輩宅の土蔵脇の土中に埋めた。そうであれば殺人ではなく、死体遺棄である。

■教育が足らず情欲を抑えきれなかった

上告審判決はしかしこの「新事実」を斥け、一、二審どおりの死刑判決であった。

田中は上告審での染め物職人の申立てを聞いたが、どちらが真実かはわからなかった。いずれにしても「もはや詮ないこと」と思った。田中の見たところ女は相当に老獪(ろうかい)で、わけても色の道にかけてはなかなかの手だり、経験も豊かだった。28歳の男は女に翻弄(ほんろう)され、痴情の果てに先輩殺しへ走ったか、あるいは荷担させられた――田中はそう判断した。だがじつはこの男には妻も乳飲み子もいたのである。

情欲に溺れて犯した罪の深さを悔い改めるように説く田中の教誨に、28歳の青年は夢から醒めたようにはっとしてうなだれるのだった。青年は情に厚かったが、教育が足らなかったために理性に乏しく、強い情欲を抑えられなかったと田中は見ていたようで、それが凶行に及んだ原因の一つだと判断した。

■「教誨を続ければ必ず良心は育っていく」

獄中でのこの男性は犯した罪に悩み、苦しみ、打ち沈むことが多く、しばしば田中の教誨を求めた。情欲に引きずられ、罪に苦しむ男の姿に田中は改めて、やはり長く監獄に拘禁し、教誨をすれば必ず良心が育っていくにちがいないと確信するのだった。死刑執行は、1903(明治36)年の春3月16日午前だった。

執行直前、青年は田中に礼を述べ、母と妻宛に遺言書を認(したた)め、発送を頼んだ。「これまた死刑の必要を認めざる」と田中は手記の終わりのほうで書き付けているが、どうにもできなかった無念さと苛立ちが押し寄せてくるようだ。

■執行後に男の妻が監獄に姿を見せた

この事件には後日譚がある。

死刑執行から5日後の3月21日午前8時ごろだった。すでに常勤の教誨師として監獄教務所長になっていた田中が東京市麹町区の鍛冶橋監獄に登庁してきたところ、門前に24、5歳の若い女性が幼児を背負って泣いている姿が眼に留まった。

〈朝早くにだれだろう〉

訝(いぶか)しく思った田中が門衛に尋ねた。

「だれかね?」
「所長、あの母子はつい先だって死刑になったばかりの男の女房とその子です」

ウム。うなずいた田中は母子を教務所へ案内し、長野からわざわざ来た訳を質(たず)ねた。背中の幼子を揺すりながら若い母親は訴えた。

「主人から遺言が届いて、驚いて……生前に会えなくて何とも残念でなりません。せめて墓参だけでもと思って、参ったわけでございます」

田中伸尚『死刑すべからく廃すべし』(平凡社)
田中伸尚『死刑すべからく廃すべし』(平凡社)

天を仰ぐようにしてため息をついた田中は母子を典獄室へ連れてゆき、事情を藤澤に話した。いたく同情した藤澤は東京に不案内だろうからと、署長の馬車を用意させて夫の遺骨が埋葬されている渋谷の埋葬地へと案内させた。おそらく田中も同道しただろう。その日、田中は自宅(このころの田中の住まいが判然としないが、もしかしたら上野の池之端界隈か)に母子を1泊させ、翌3月22日午前8時上野発の汽車で郷里の小諸へ帰した。帰郷後、妻と義父から田中と藤澤に何度も丁寧な礼状が届いた――。

手記には、犯罪と悲劇と人情がからみ合った心揺すぶる話もさりげなく綴られてある。

そんなこともあって田中は「斯くも良き妻がありながら……何ごとぞ」と処刑された青年を批判し、それでも再び「死刑の必要を全く認めざるなり」とダメを押すのであった。

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田中 伸尚(たなか・のぶまさ)
ノンフィクション作家
1941年東京生まれ。朝日新聞記者を経て、ノンフィクション作家。『ドキュメント 憲法を獲得する人びと』(岩波書店)で平和・協同ジャーナリスト基金賞、『大逆事件 死と生の群像』(岩波書店、のち岩波現代文庫)で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。その他の著書に『自衛隊よ、夫を返せ!』(現代書館)、『ドキュメント昭和天皇(全八巻)』『憲法を生きる人びと』(以上、緑風出版)など多数。

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(ノンフィクション作家 田中 伸尚)

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