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これでは極刑もやむを得ない…「死刑廃止」を訴え続けた教誨師が唯一さじを投げた死刑囚の言動

プレジデントオンライン / 2023年5月26日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/liebre

明治から大正時代にかけて教誨師を務めた浄土真宗僧侶の田中一雄は、当時から死刑廃止を訴え続けてきた。だがそんな田中が唯一「死刑もやむを得ない」と記した死刑囚がいた。ノンフィクション作家の田中伸尚さんの著書『死刑すべからく廃すべし』(平凡社)より、一部を紹介しよう――。

■短絡的な計画殺人と思われたが…

岐阜県出身で寄留先の茨城県で殺人事件を起こした死刑囚がいた。1853(嘉永6)年の生まれで犯罪時の年齢は40代後半であった。1901(明治34)年10月17日夜、かねて知り合いだった精米水車業者宅へ行き、無心したところ拒否された。そこで男は短絡的に殺して強奪するしかないと、凶器を用意し、しかも、血痕が衣服に付かないように裸になって同じ日の深夜に同宅を襲い、夫婦を殺害して金品を奪った。計画的で悪質な犯行であった。これが裁判の判決謄本に記載された「事実」だった。

ところが男が田中と典獄の藤澤に語った「事実」は、いささか事情が違っていた。精米水車業者宅で8カ月間手伝いをしたが、約束の労賃が払われなかったので何度も催促したが断られた。犯行に及んだ日は、手許に金がほとんどなくなり、労賃の支払いの催促に行ったところ、わずかな金銭を投げつけられたために、談判したが拒否されて殺害に及んだというのだった。

判決で認定された事実と判決確定後の本人の弁と異なる例はほかにもあったが、その究極は冤罪(えんざい)である。男の説明はしかし冤罪とは異なり、犯行の事実認定の誤りで、そのとおりなら死刑判決に疑義が出る。田中にはしかし、その真偽を確かめる術はなかった。

■備考欄に「可憐なる囚人」と記されるほどの死刑囚

夫婦を殺害した男は若いころから素行が悪く、生業も持たず、諸国を流浪し、放蕩(ほうとう)三昧を尽くしたが、真宗門徒で信仰心は篤く、田中の教誨(きょうかい)を熱心に、かつ喜んで聞いた。性格も温順だった。そこから田中は裁判で認定された「事実」を男が争わなかった心理をこう推し測った。「信仰の厚きため、人を殺せば自分も殺さるるは当然のことと思い」、裁判では事実の争いをしなかったのではないかと。

田中は刑死したこの死刑囚について「備考」欄の末尾で、信仰が篤いだけではなく、性格は温和、獄則もしっかり遵守し、年も50を越え、思慮分別もあり、長く監獄に拘禁しておいても逃走を企てる心配もないなどから、「死刑不必要」と刻むように記す。

獄則を遵守し、教誨に耳を傾け、それに応じた死刑囚に田中は「備考」欄の末尾に「称名念仏怠りなき」「可憐なる囚人」「獄則をよく遵守し」「惜しむべし」などと記すことが多く、言外に生命を奪うことは認め難いというニュアンスがにじむ。

■財産分与を断られて凶行に手を染めた男

しかし死刑囚のだれもが教誨を受け容れたわけではない。

岐阜県出身の死刑囚(犯行時40歳)は熊本で知り合った女性と対馬へ渡り、夫婦同様の生活をしていたが、生活費のために不動産など資産のある女の実父(東京市四谷区在住)にしばしば虚言を弄(ろう)して金を送らせていた。

2人は1900(明治33)年11月ごろに長崎に移住して鮮魚・酒小売店を営んでいたが、数カ月で失敗した。生活費にも困っていた折り、男は娘の父親が不動産分与の意思があることを知った。男はすぐにでもそれを実行するようにと女に迫り、上京した娘が父に懇願したが、存命中の財産分与はできないと断られた。冷たく扱われたと思った娘は、長崎に帰って男に父の生存中には財産は得られないと伝えた。

男は娘の父を殺めて財産を奪うしかないと決心し、父親の住まいの間取りや構造を娘からくわしく聞き、1903(明36)年9月20日深夜に父親宅に忍びこみ、玄関脇の3畳間で寝ていた父親と、気づかれた父親の妾の2人を持っていた仕込み杖で斬殺した。謀殺と故殺だった。

■執行前最後の教誨すら「要らん」と拒否

高等小学校卒業程度の教育のあった男は、一時キリスト教を信じていたようだと田中は記しているが、それ以上のことには触れていない。刑の執行年月日も手記にはないが、1904(明治37)年半ば以後と思われる。田中はしかし、この男の「心理」については厳しい。

「いたって不遜なる性質にて、気短く、疑い深く、とにかく物事に自分勝手な曲解をする」、何でもないことに当たり散らし、「一癖ありそう」な人物で、「人の為すべき道に背いて邪悪なことを為し」「自分の情婦の父を殺してその財産を奪うようなことは、到底普通人の為し得ることではない」と断じている。

田中が死刑囚を酷評している例はほとんどないが、そんな数少ない一人だった。刑の執行日に典獄がいつものように「何か遺言がないか」と訊くと、「何もない」とぶっきらぼうに返し、「家族はないのか」と問うても「なし」と答えるのみだった。田中とは違う教誨師が執行直前に最後の教誨をほどこそうとしたところ、「宗教の話は要らん。田中教誨師の教えを聞いて十分だ」と拒絶するのであった。

執行直前の最後の教誨を「要らん」という死刑囚は珍しく、「死を恐れる様子もなかったが、とにかく風変わりな者」と田中はもてあましたようだった。死刑の是非については一言もないが、さりとて死刑当然ということばもない。

共犯者の女性は無期刑だったが、1910(明治43)年に仮出獄したとある。

■脱獄を企てた死刑囚へは厳しかった

この男以上に田中が手こずったのは、1906(明治39)年9月に東京監獄の刑場で処刑された29歳の男である。前年9月1日の午後、男は出身地に近い埼玉県内でとある住宅に盗みのために侵入し、蚊帳のなかで午睡していたその家の主人を起こし、持っていた短刀を突きつけ「金を出せ、騒ぐと斬るぞ」と脅しながら斬りつけたが、主人は果敢に抵抗した。激高した男は主人の頭部など十数カ所を斬りつけて、殺害してしまった。強盗殺人である。大審院で死刑が確定したのは1906年2月22日で、刑の執行は7カ月後である。

当時は死刑が確定すると、執行まではあまり時日が置かれなかった。

手記には教誨の内容は記されていないが、「備考」のところで田中は容赦なく突き放す。

「在監中いく度か遁走を企てて止まず。ある時は、看守の帯剣を奪わんとすることもありて、幾分執行を自ら招きたる観あり」

執行時にも何かトラブルを起こしたのか「追って記すべし」と田中は書いているが、それについてはどこにも記載されていない。田中は脱獄を考えたり、試みたりした死刑囚、つまり獄則に従順ではない死刑囚への観方は厳しかった。だから脱獄を企て、看守の帯剣まで奪おうとしたこの男については、死刑は仕方がなかったのではないか、と思ったようだ。それでも教誨に十分な時間があれば、田中は別の表現をしたかもしれない。

墓の前で祈る僧侶
写真=iStock.com/SAND555
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SAND555

■「死刑やむなし」と記した死刑囚の言動

田中がはっきり、死刑もやむなしと記した死刑囚がいた。

長野県出身の蚕網製造業者の死刑囚(39歳)である。1907(明治40)年12月4日深夜、金品強奪のために織物生地商宅の厠の窓から忍びこんだ男は、座敷に押し入ったところ、幼児を含めた家人3人が気づいて大声を上げたため、短刀で次つぎに刺殺した。さらに別の部屋で寝ていた主人を起こし、家人を全員殺害したから金を出せと脅し、現金47円余り(1907年の東京での白米10キログラムの小売価格は1円56銭、06年の巡査の初任給は12円)を強奪した上、殺害した。

一家4人殺しの凶悪な強盗殺人事件であった。男の刑は1909(明治42)年12月9日、大審院で死刑が確定した。執行は半年後の10年6月21日である。

この男についても田中は教誨の様子をまったく記載していないが、男はしばしば脱獄を企てた。それゆえ教誨にも耳を傾けた様子がない。「備考」欄で田中は書いている。

「在監中度々脱監を企てしことあり。ある時は監外に飛び出せるなど、死刑の必要は斯くの如き者あるを以てなるべし」

田中が死刑を事実上認めたのは、手記ではこの男だけであった。それでも死刑確定から執行まではわずか半年だったから、もっと長く教誨していたら田中の手記もあるいは変わっていたかもしれない。

■親殺しの物乞い死刑囚は「救い難い」

教誨に自信のあった田中が救い難いとあきらめたような死刑囚がいた。

越後生まれで住所は定まらず、父母と一緒に諸国を徘徊(はいかい)し、物乞い(「乞食」と表記されている)で辛うじて生活をしていた34歳の男である。1901(明治34)年8月、避病院(伝染病隔離病院)近くで、同じ物乞い生活をしていた女性と知り合い、夫婦になりたいと思い母に相談したところ、強く反対された。何度頼んでもダメの一点張りだった。母が邪魔になった男は親殺しに走ってしまった。

田中のこの死刑囚への向き合い方は、他の死刑囚への寄り添うような姿勢が影をひそめ、眼差しは冷たい。手記の記述をそのまま記すと、「本人は非人、即ち乞食なれば、別に思慮ある者にあらず、己が色情を妨害せられしに由り、この如く無惨の挙動に出でしものなり」。

物乞いで生きているから、思慮が足りないと田中は極めつける。手記の末尾で田中は「本件に付いては救護の道なきもののごとし」と突き放し、このような人物は死刑になっても仕方がないというニュアンスが伝わってくる。田中も身分によって人を極めつける意識や感情からは自由ではなかったのだろうか。

藤澤から刑の執行を伝えられた朝、男は「頻りに命が助かりたし、助かりたし」と哀願した。このような死刑囚にこそ田中には寄り添ってほしかったと、100年後の手記の読み手は思う。

死刑の執行は1902(明治35)年2月2日午前だった。死刑の確定期日は手記には記載されていないが、前年8月の犯行から半年後に執行されているから、やはり確定から死刑執行までの期間は短かっただろう。

■最後まで冤罪を訴え続けた男

手記に記載されている114人の死刑囚のうち明らかに冤罪と田中が断じたケースは見当たらない。教誨師は判決謄本によってのみ事件の「事実」を知る。冤罪の可能性があっても教誨師は真偽を判断できない。だが冤罪をくり返し訴えた死刑囚が田中の前に現れた。

1860(万延元)年生まれの茨城県出身の死刑囚である。判決によると、1900(明治33)年夏のある夜、県内の山林内の山小屋に侵入したこの男は持参した出刃包丁とその場にあった斧で小屋の主を殺害し、現金5円や物品を奪った。

男は教育を受けたことはなかったが、窃盗などの犯罪を何度も重ねたために獄中で読書や学習をし、読み書きや思考力も身につけていた。大審院でこの男の死刑が確定したのは1904(明治37)年2月6日だが、田中の前でも一貫して冤罪を主張し、死刑に処せられることがどうしても納得できないと訴えるのであった。田中の教誨には冤罪だからと耳をふさぎ、懺悔の念はなく、罪に服する意思もまったくなかった。田中の大慈大悲を語る仏教的な教誨にも感応は薄弱だった。遺言は短い。

「冤罪を以て死刑に処せらるること頗る遺憾なり。故に刑に処せらるる人物にあらざることを世に証明するには(以下17字は文意乱れ、不明のため省略)、遺骸を解剖せられ、医学上の参考に供せられんことを望む」

男は1905(明治38)年2月15日に処刑されたが、しきりに主張した冤罪の具体的な中身は手記にはない。しかしこの男が冤罪を訴えた事実は手記に残された。

■「死刑須らく廃すべし 否廃すべからず」

114人はそれぞれ異なった生を生きて、窮極の「悪」である殺人を犯し被害者の生を断ち切った。かれらはそれゆえ国家の死刑制度によって死刑に処せられ、その生を奪われることになった。見てきたように田中は、仏教徒の教誨師として個々の死刑囚の生がぎゅっと凝縮された監獄の現場で、刑事政策からではなく、死刑囚に向き合い、伴走した。全身に補聴器を付けたように死刑囚の声に耳を傾け、対話し、諭し、迷い、憤り、悔やみ、惜しみ、苦しみ、あるいは突き放し、死刑の当否を、さらに制度の是非まで考えつづけた――。

てんびんに掛けられた絞首刑の縄のイメージ
写真=iStock.com/wildpixel
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/wildpixel

『死刑囚の記録』『臨終心状』の二つの手記の「はじめに」に当たるところ(前者では「緒言」)で、田中は篤志の教誨師時代を含めて約20年、200人に及んだ死刑囚に向き合った体験と宗教者としての思索による結論を述べている。

田中は冒頭で言い切る。

「死刑須らく廃すべし 否廃すべからず」

死刑制度は当然、廃止すべきである、と断じてすぐに否定する。わかりにくい。しかし追いかけて「其(死刑廃すべからず)は社会に害毒を流すの大なるものなればなり」とつづけている。

田中にとって死刑の是非の判断のポイントは、個々の死刑囚についてくり返し主張してきた「社会に害毒を流す」かどうかだった。だから田中はこうつづける。「監獄の規律に従順なるものならば死刑を執行する必要なかるべし。如何となれば、監獄に永く拘禁し置かば社会に害毒を流すこと能わざればなり」。

■時間をかければどんな死刑囚でも更生させられる

獄則に従順な死刑囚は、犯した罪を認め、反省し、悔い改めた死刑囚であり、そのような死刑囚なら長く監獄に留めて、じっくり教誨をすれば必ずや社会に「害毒を流す」ことのない人物になるからだ、というのが田中の信念だった。

田中伸尚『死刑すべからく廃すべし』(平凡社)
田中伸尚『死刑すべからく廃すべし』(平凡社)

逆に過ちを認めず、反省せず、悔い改めもしないままなら死刑はやむを得ないが、そんな死刑囚でも時間をかけてじっくり教誨すれば、やがては悔い改め、反省し、獄則に従うようになり、社会に「害毒を流さない」人になり、生き直せるのだという人間への信頼が、田中にはあった。

もちろん田中にも個々の死刑囚についてはいくらかの揺れや迷いはあったが、結論は「死刑は須らく廃止」であり、「否廃すべからず」というのは、時間をかけた教誨によって必ずや「害毒を流さない」人物になるから、結局「須らく廃すべし」という最初のテーゼへ返っていく。

田中のこの信念を支えていたのは、犯罪者も必ず生き直せる、という人への信頼であったろう。ややわかりにくいところもあるが、田中の結論をわたしはそう受け止めた。

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田中 伸尚(たなか・のぶまさ)
ノンフィクション作家
1941年東京生まれ。朝日新聞記者を経て、ノンフィクション作家。『ドキュメント 憲法を獲得する人びと』(岩波書店)で平和・協同ジャーナリスト基金賞、『大逆事件 死と生の群像』(岩波書店、のち岩波現代文庫)で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。その他の著書に『自衛隊よ、夫を返せ!』(現代書館)、『ドキュメント昭和天皇(全八巻)』『憲法を生きる人びと』(以上、緑風出版)など多数。

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(ノンフィクション作家 田中 伸尚)

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