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だから家康はすごかった…自分の息子と妻を死に追いやった「恨みある部下」に家康が下した意外な処分

プレジデントオンライン / 2023年5月28日 13時15分

【左】徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉(図版=大阪城天守閣/PD-Japan/Wikimedia Commons)【右】酒井忠次の肖像画(図版=先求院/PD-Japan/Wikimedia Commons)

なぜ徳川家康は天下統一を果たせたのか。歴史評論家の香原斗志さんは「私情に流されず、能力ある人材を登用することができた。その典型例が、自分の長男と正妻を死に追いやった筆頭家老・酒井忠次だ」という――。

■家康の息子と妻を死に追いやった「徳川四天王」のひとり

NHK大河ドラマ「どうする家康」では大森南朋が演じている酒井忠次。ドラマがはじまった当初から、いつも徳川家康の側近くに侍っていたが、このところさらに存在感が増している。

少しさかのぼるが、第15回「姉川でどうする!」(4月23日放送)で、「信長に義はない」と記された浅井長政からの密書を受けとった家康が、織田信長を裏切って「浅井につく」と言い出したシーンがあった。忠次は「義とはなんでござる? 義なんてものはキレイごとだ」と強い口調で家康をいさめ、まちがいに気づかせた。これこそ頼りになる家臣だと、視聴者も感じたのではないだろうか。

事実、家康にとって無二の忠臣であったことは、江戸時代になって徳川幕府樹立にとくに功のあった家臣4人を「徳川四天王」と呼ぶようになったとき、その筆頭に数えられたことからもわかる。

だが、一方で忠次は、家康の生涯の痛恨事を招いた張本人のようにも語られてきた。すなわち、嫡男の松平信康と正室の築山殿(ドラマでは瀬名)を死に追いやるきっかけをつくったというのだ。家康が忠次を恨みに思わなかったはずがないのだが、それでも重用し続けたから不思議である。

■酒井忠次がしっかり弁明していれば…

この「松平信康事件」については、これまで次のように説明されてきた。

信康の正室である五徳(信長の長女)が、信康や築山殿の不行状を12カ条にまとめ、酒井忠次にもたせて信長に訴えた。それを読んだ信長は、ことの真偽を忠次にたしかめると、10カ条まで事実だと認めた。そこで信長は残りの2カ条については聞かずに、忠次が承知しているならまちがいないと、信康への切腹を命じた。

これは『三河物語』に書かれた天正7年(1579)の事件である。家康にすれば、忠次が弁明してくれれば妻子を死に追いやらずに済んだかもしれないわけで、そうであるなら忠次を恨みに思うのも当然だろう。

■家康が酒井を嫌いだったとしか見えない

もっとも、最近では、これは『三河物語』の著者の大久保忠教(通称・大久保彦左衛門)が家康や信康をかばった記述で、事実とは異なるとみられている。

『当代記』や『安土日記』などの史料が精査された結果、いまでは信康の処罰は信長の命令ではなく、家康のほうから信長に申請し、好きなようにしてよいとの了解を得た帰結であることが、ほぼ明らかになっている。

家康が究極の判断をせざるをえなくなったのは、信康や築山殿に、家康がまだ必死に争っていた武田氏とつながっての謀反の疑いが生じたためだと考えられている。

だが、信康の自死を決めたのが家康だったとしても、信長に尋問された忠次が、信康の不行状を認めたこと自体が否定されたわけではない。五徳の手紙を読んで驚いた信長が忠次を問いただした、という話は『松平記』にもある。

こちらでは後日、忠次だけでなく大久保忠世も呼び出したことになっているが、いずれにせよ、忠次が信長の前で、信康の不利になる発言をした可能性は高いと言わざるをえない。

そうである以上、本郷和人氏が「家康が酒井を嫌いだったとしか見えない。(中略)信康腹切事件が一番の原因ではないだろうか」(『徳川家康という人』河出新書)と語るのにも、一理あると思える。

■なぜ忠次は嫌われるような行為をしたのか

忠次にすれば、信長に詰問された以上、下手にウソをついてあとでバレたほうが、自分自身ばかりか徳川家が負う傷が大きいと考えたことだろう。忠次の立場を考えれば、信康の不行状を認めたのもやむを得ないように思える。

だが、家康にすれば、忠次が余計なことを言わなければ、信康と築山殿のとった行動が許しがたいものであったとしても、命まで奪う必要はなかった――。そんな思いが募らなかったはずがない。

それなのに、家康はそんな忠次を、どうして重用しつづけたのか。信康事件のしばらく前にまでさかのぼって考えてみたい。

■徳川家の要と言える活躍

大永7年(1527)生まれの忠次は家康より15ほど年長で、家康の父、松平広忠の異母妹を娶(めと)っているから、血はつながっていないが家康の叔父にあたる。永禄3年(1560)の桶狭間の合戦以後、松平家(のちの徳川家)の家老を務め、以後、家康の主要な戦いには軒並み参戦したほか、外交などでも中心的な役割を担ってきた。

三河一向一揆の収束後、三河(愛知県東部)の平定が進むと、永禄7年(1564)6月、家康は今川家の東三河支配の拠点だった吉田領(豊橋市)を忠次にあたえた。翌年、まだ今川家のものだった吉田城を攻略すると、忠次を吉田城代にして吉田領の統治を管轄させている。

それからは忠次が東三河の国衆や松平一族を管轄し、軍事的な指揮下に置いたばかりか、彼らに家康の命令を伝え、監督することになった。ちなみに、西三河では同じ役割を石川家成、続いて甥の石川数正が担ったのだが、ともかく、忠次は以後、徳川家臣団をまとめる要(かなめ)になったのである。

そういう役割だから、ときに犠牲にも甘んじている。たとえば、家康が信玄と示し合わせて今川領に侵攻した際(1568年)は、忠次は武田方との交渉を担当した挙げ句、同盟を結んだ証しに自分の娘を信玄のもとに人質に出すハメになった。その後、懸川城(掛川城)の今川氏真を支援するために進軍していた小田原の北条氏と和睦し、懸川城を開城させたときも、忠次が北条側に人質を出している。

掛川城
静岡県掛川市の掛川城(画像=Dandy1022/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

■信長が絶賛した攻撃センス

一方、戦いにおいての活躍もめざましかった。元亀元年(1570)の姉川の合戦では、朝倉義景の軍に突入して戦いの火蓋を切り、同3年(1572)の三方ヶ原合戦でも、一時は武田方の山県昌景の軍を総崩れ寸前まで追い込んでいる(その後、忠次の軍が総崩れになるのだが)。

伝わるのは勇ましさだけではない。天正3年(1575)、織田と徳川の連合軍が武田勝頼に圧勝した長篠の合戦でのこと。『信長公記』によると、忠次を中心とした別動隊が鷹ノ巣山砦へ奇襲攻撃を加えて陥落させ、さらには長篠城を押さえていた武田軍も敗走させた。

このため武田軍は退路を断たれ、織田・徳川連合軍の餌食になった。『三河物語』では、この奇襲は忠次のアイディアだったとされている。『常山紀談』によれば、信長は忠次のこの活躍を称賛して「前に目あるのみにあらず、後にも目あり」と言ったという。

天正12年(1584)、家康が信長の次男の信雄と組んで豊臣秀吉と戦った小牧・長久手の合戦でも、忠次は先陣を務め、池田恒興と森長可の部隊を襲って撃破。戦いを有利に進めるきっかけをつくった。

ここまで史料等で裏づけられる逸話を列挙したが、忠次が知略と武威の双方に優れていたことを物語るエピソードは、真偽が定かでないものを加えると枚挙にいとまがない。そのうちのいくつかが真実だとすれば、家康はこの筆頭家老にどれだけ助けられたかわからない。

■四天王のなかではなぜか低待遇

こうした功によって、後世に「徳川四天王」の筆頭と称されるようになった忠次だが、そのわりには、残りの3人とくらべて待遇が見劣りする。

天正18年(1590)の小田原攻めののち、家康が関東に転封になると、忠臣たちの多くは加増された。四天王の残り3人は、井伊直政が上野(群馬県)の箕輪(高崎)に12万石を得たほか、榊原康政は同じく上野の館林に10万石、本多忠勝は上総(千葉県中部)の大多喜に10万石をあたえられている。

ところが酒井家は、家督はすでに天正16年(1596)に長男の家次に譲られてはいたものの、下総(千葉県北部)の臼井に3万7000石をあたえられたにすぎなかった。家康の叔父にあたり、徳川家の筆頭家老を長年務め、多大な功績があった家なのに、である。

その理由は、先に引用した本郷和人氏の記述のとおり、「家康が酒井を嫌い」で「信康腹切事件が一番の原因」だったのかもしれない。だが、嫌いであったとしても排除せず、厚遇こそしなくても、それなりに遇してはいた。

■だから家康は天下をとれた

信康および築山殿に死を命じたのが、これまで言われてきた信長ではなく、家康自身だったとしても、家康はほかならぬ正妻と嫡男を殺したかったはずがない。

しかし、2人に武田方との内通の痕跡があり、それを事実上の主君である信長が知るところになってしまったら、家康は信長に命じられなくても、妻子を殺すしかなかっただろう。

家康と信長の同盟は、当初はまったくの対等だったが、信長が足利義昭に供奉して上京したころから、家康が信長に従属する関係に変質していた。

家康は「自分が首根っこをつかまれている信長に、忠次はなんということを言ってくれたのか」という思いが消えなかったに違いない。だから忠次のことが好きになれず、立場と功績に見合った領地をあたえなかった――。本郷氏の見立ては、それほど外れていないのではないだろうか。

しかし、こうも言える。家康は能力がある人材であれば、どんなに嫌いでも排除しなかった。酒井忠次の戦功を振り返っても、要所で家康を助け、救ってきたことは疑いない。信康事件にしても、情にほだされて家族を救っていたら、家臣に示しがつかなかったかもしれない。

家康は冷静にそう判断し、私情を殺して、能力ある人材を使いつづけた。それができる人物だったから、天下をとることができたのである。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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