1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

兵士1591人が「エリートのプライド」の犠牲になった…日本軍の「謹厳実直な武人」が無謀な作戦を立てたワケ

プレジデントオンライン / 2023年5月29日 9時15分

長沙近郊湖南戰線の煙幕、『寫眞週報』第百八十九號(昭和十六年十月八日)(写真=内閣情報局/PD-Japan/Wikimedia Commons)

日本人の「恥の意識」は、非常事態において大変な損害をもたらすことがある。軍事史研究家の藤井非三四さんの著書『太平洋戦争史に学ぶ日本人の戦い方』(集英社新書)より、1941年の第二次長沙作戦で起きた悲劇を紹介しよう――。

■「恥の文化」は時に国家の破滅をもたらす

日本は「恥の文化」だと語られて久しい。普段は恥を知ることは美徳かもしれないが、戦争などの非常事態となるとそれは国家の破滅をもたらしかねない。

国難に直面した国家の指導者や高級指揮官の多くは、厚顔無恥で融通無碍であるのがごく普通で、勝利を収めさえすればそんな姿勢をあれこれ批判されることもない。ところが日本では、初志貫徹、首尾一貫しなければ恥ずかしく面目ないと凝り固まり、方針転換を渋りに渋って万事手遅れとなる場合が多い。

どうして進んで自縄自縛となったり、意地になって行動の幅を狭めてしまったりするのかと考えると、そこに虚栄心が働いているからだ。自分がいかに意志堅固で、なにかをやり遂げる強い決意があったかを知ってもらい、できれば史書に名前を残してもらいたい、という政治家や高級指揮官の心根が見え隠れする。

太平洋戦争中に限っても、こうした硬直した戦い方をして無意味な損害を被った例は数多くある。まず、昭和16年12月24日からの第二次長沙作戦だ。

■日本軍は「不落」の長沙を制圧しにかかった

中国戦線の進攻作戦が一段落した昭和13(1938)年末、支那派遣軍の任務は占領地の治安確立と安定を図ることが主となった。しかし、それだけでは部隊の雰囲気が退嬰的になりかねないとされ、長江沿岸地域で限定的な進攻作戦を行ない、中国軍の戦力を減殺させることとなった。

ところが新たに進攻した地域を確保するだけの戦力がないため、攻め込んでは後退するピストン作戦にならざるを得ない。これを見た中国国民政府は、「またもや日本軍を撃退」と宣伝にこれ努め、日本側を苛立たせていた。

昭和16年9月18日からの「加号」作戦(第一次長沙作戦)もこのピストン作戦だった。実施部隊は4個師団を基幹とする第11軍、軍司令官は阿南惟幾中将(大分、陸士18期、歩兵)だった。目標は中国が「不陥」(攻略不可能)と宣伝してきた湖南省の省都である長沙だ。ここを占領すれば中国に和平の気運が生まれるのではとの淡い期待もあった。

■軍に広がる「完全占領ではなかった」との噂

第11軍の諸隊は、洞庭湖に注ぐ新墻河の線から一斉に攻勢を発起、100キロ南の長沙を目指した。そして早くも9月27日、先遣隊が長沙市街に突入し、翌日には第4師団(大阪)が入城した。予定していた通り、第11軍は10月1日から反転を始め、11月初旬までにもとの態勢に戻った。

ところがすぐに支那派遣軍の内で妙な話が交わされるようになった。中国が言うように長沙市街の一部には中国軍が残っており、第11軍が主張するように完全占領ではなかったらしいという噂だ。

侍従武官も務め、謹厳実直な武人として知られる阿南軍司令官にとって、これは面目の問題となり、この恥辱を雪がなければと思い詰めたようだ。また、長沙入城を第4師団に譲った形となった第3師団(名古屋)の豊嶋房太郎師団長(山口、陸士22期、歩兵)としても、「俺が長沙に行けば、こんな話にならなかったのに」という気持ちになったかもしれない。

阿南惟幾。 侍従武官。侍従武官たる陸軍歩兵大佐。銀色の侍従武官飾緒を佩用。昭和八年、紅葉山御撮影所にて写す。(写真=『絶版 陸軍大将(大臣)「阿南惟幾 伝 」344項 日本陸軍 一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 武人 割腹自決』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
阿南惟幾。侍従武官。侍従武官たる陸軍歩兵大佐。銀色の侍従武官飾緒を佩用。昭和八年、紅葉山御撮影所にて写す。(写真=『絶版 陸軍大将(大臣)「阿南惟幾 伝 」344項 日本陸軍 一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 武人 割腹自決』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■師団が転用される前に再び長沙を叩く

雪辱戦を行なうとなれば急がねばならない。第4師団は長沙入城で花道を飾って、フィリピンに転用された。これで支那派遣軍に残る精強な常設師団は第3師団と第6師団(熊本)だけとなり、これもまたほかの戦線に転用されるのは時間の問題と思われた。

そうなると支那派遣軍は警備師団、治安師団、独立混成旅団からなる治安軍となり、ピストン作戦すらも行なう戦力がなくなる。そこで第3師団と第6師団が残っているうちに、再び長沙作戦を行なわなければならないという話になった。

しかし、ひとたび南方作戦が始まれば、再度の長沙作戦など大本営はもちろん支那派遣軍も難色を示す。そこで阿南軍司令官が唱え出したのが「徳義の作戦」だった。

開戦劈頭、支那派遣軍の第23軍が香港攻略に向かう。これに対応すべく中国軍は広東省正面に圧力を加えるだろう。そこでこの中国軍の動きを牽制するため、第11軍は再度長沙正面で攻勢に出るという構想だ。

だれもがエゴイストになりがちな戦場で、自ら進んで友軍のために動くというのだから、まさに徳義の作戦、「武人阿南」の面目躍如ということになる(佐々木春隆『長沙作戦 緒戦の栄光に隠された敗北』光人社NF文庫、2007年)。

■軍司令部は長沙作戦に懐疑的だったが…

まず問題となるのは、この作戦の効果だ。長沙と香港付近の広州とは粤漢線で結ばれているが、直線でも550キロ以上も離れている。長沙に圧力が加えられたからと、すぐさま反応するような敏感さを中国軍が持ち合わせているとは思えない。さらに第4師団がフィリピンに転用されたため、第11軍が投入できる兵力は第一次作戦の歩兵大隊46個基幹から22個基幹にまで減っている。

第11軍司令部でも、再度の長沙進攻には懐疑的な意見が多かった。参謀長の木下勇少将(福井、陸士26期、騎兵)は、もし香港攻略の第23軍が苦戦に陥ったならば、やむなく長沙に行かざるを得ないという程度の認識だった。後方担当の参謀副長だった二見秋三郎少将(神奈川、陸士28期、歩兵、航空転科)は、補給幹線を維持できるのは汨水までという姿勢を崩さなかった。作戦参謀の島村矩康中佐(高知、陸士36期、歩兵)にいたっては、ピストン作戦そのものに批判的だった。

■「恥ずかしさ」が軍事的合理性を押し退けた

こうして長沙への再進攻はむずかしくなったが、阿南軍司令官は諦めなかった。ここで断念すれば恥ずかしい限りという意識が働いていたのだろう。加えて第3師団長の豊嶋房太郎も積極的だった。

この2人の関係だが、阿南が陸軍次官のときに豊嶋は憲兵司令官で直属の部下という形だった。そして豊嶋が第3師団長に転出すると、追いかける形で阿南が第11軍司令官となった。中央官衙で上司と部下、出征してからは軍司令官と師団長という関係は、そうあることではない。

豊嶋は第3師団長を昭和15年9月から務めているから、そろそろ転属の時期だ。本人としても花道を飾りたいという思いがあっただろうし、上官の阿南としても飾ってやりたいという気持ちになっても不思議ではない。また、第3師団は昭和12年8月以来、長らく中国戦線にあったから内地に帰還するか、ほかの戦線に転用される可能性が高まっていた。これまた大陸戦線の最後に快勝させて送り出してやりたいという気持ちにもなる。このような人情論が出てくると、軍事的な合理性が引っ込むことになりかねない。

友軍のための「徳義の作戦」という話が称賛の声とともに広まってしまった以上、第11軍としてもなにかしなければ格好がつかない。また、太平洋戦争が開戦となって香港攻略戦が始まると、第11軍正面の中国軍が動きだして南下しつつあることが偵知され、これを牽制することになった。具体的には兵力や補給の問題から長沙までは行かないが、屈原(楚の詩人)が入水したことで知られる汨水の南岸まで進出して中国軍を打撃することと決められた。徳義の作戦を屈原で知られる汨水一帯で展開するとなると、ヒロイズムに酔い出すのが当時の日本人だ。

■軍総司令部には一言もなく独断で作戦を決行

第二次長沙作戦に発展する「さ号」作戦は、香港陥落の前日の昭和16年12月24日に始まった。豊嶋は留守近衛師団長(出征した師団のあとを管理する部隊長)への異動内示を受け取っていたが、これを握り潰して第一線に立った。このときすでに豊嶋は長沙に突進する決心を固めており、阿南との暗黙の合意もあったと見てよいだろう。

藤井非三四『太平洋戦争史に学ぶ日本人の戦い方』(集英社新書)
藤井非三四『太平洋戦争史に学ぶ日本人の戦い方』(集英社新書)

作戦は順調に進展し、第11軍主力は12月29日までに汨水の南岸に渡河していた。そしてその日の夕刻、中国軍が長沙に向けて後退中と航空偵察で知った阿南軍司令官は、即刻、長沙への追撃を決心した。支那派遣軍総司令部には一言もなく、阿南のまったくの独断だったという。歩兵大隊22個基幹という戦力で長沙まで押しだせるのかという問題はさておき、そもそも補給幹線の準備は岳州から汨水までであり、汨水から長沙までの70キロには補給の準備がない。

昭和17年1月1日から3日にかけて、第3師団と第6師団は長沙市街に取り付いた。ところが中国軍は長沙死守の構えを見せた。そのため軍旗を集めて保管していた第3師団の指揮所までが戦闘に巻き込まれ、豊嶋師団長自らが旗護中隊長を務めるという難戦に追い込まれた。これでは長沙の完全占領など無理と判断され、1月3日から北上、全軍反転となった。

■1591人の命が不合理な判断で奪われた

第二次長沙作戦の本番は、実はそれからだった。中国軍は退却する日本軍の縦隊を両側から叩き上げた。これを中国では「天炉戦法」という。こちらに十分な火力があれば対応できるのだが、日本軍の第一線に弾薬が補給されたのは1月11日が最初で、それまでは一切補給がなかったというから、天炉戦法の前に苦戦するのも無理はない。その結果、第11軍は戦死1591人、戦傷4412人という大損害を被った(図表1参照)。

防衛庁防衛研究所戦史室『戦史叢書 香港・長沙作戦』(朝雲新聞社)
防衛庁防衛研究所戦史室『戦史叢書 香港・長沙作戦』(朝雲新聞社)

「長沙を完全には占領できなかった」「占拠5日で逃げ帰った」といった噂話をまともに受け止めて、これは耐えがたい恥辱、雪辱するとなって強行されたのが第二次長沙作戦であり、その結果がこの大損害だった。高い地位にある者に過剰な恥の意識があると、合理的な判断が阻害され、悲劇が生まれることをこの第二次長沙作戦は物語っている。

Japanese prisoners captured by Chinese troops at Changsha, January 1942(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
長沙で中国軍に捕らえられた日本人捕虜、1942年1月(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

----------

藤井 非三四(ふじい・ひさし)
軍事史研究家
1950年、神奈川県生まれ。中央大学法学部法律学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科修士課程修了(朝鮮現代史専攻)。

----------

(軍事史研究家 藤井 非三四)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください