史上初のワクチンを開発したのは「無名の町医者」だった…人類が死亡率30%の感染症を克服できたワケ
プレジデントオンライン / 2023年5月28日 14時0分
※本稿は、茂木誠『世界と日本がつながる 感染症の文明史 人類は何を学んだのか』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
■人類最初の「予防接種」はアジアから始まった
天然痘は、ユーラシア大陸でも周期的に小規模な流行を繰り返していました。
天然痘ウイルスが発見される以前にも、患者の皮膚に生じるかさぶたや膿から伝染すること、また、一度感染して回復した者に免疫ができることも、経験則的にわかっていました。そこで、微量の感染によって免疫を確保しようとする人痘(じんとう)の接種が、アジア各国ではすでに実施されていたのです。
中国では、患者の膿を染み込ませた綿を鼻に詰める、あるいは乾燥させたかさぶたの粉末を鼻から吸い込むという方法がとられました。オスマン・トルコ帝国では、親指と人差し指のあいだに小さな傷をつけ、天然痘患者の膿を植えつけるという方法がとられました。
自然の状態で天然痘に罹患(りかん)した場合、死亡率は約30%で、これはペストに匹敵します。種痘を受けた場合も天然痘を発症しますが、その症状は軽微で、多くの場合は軽い発熱と発疹だけで回復しました。重症化する者もいましたが、死亡率は2〜3%でした。種痘の是非は、このリスクを受け入れるかどうかという問題だったのです。
■スチュアート朝最後の君主、アン女王の悲劇
ヨーロッパでは、こうした人痘の接種は忌避されてきましたが、17世紀のイギリスでは王朝断絶の危機によって、それが注目されるようになりました。1694年、名誉革命で即位した女王メアリ2世(1662〜1694年)が子のないまま、天然痘で没しました。
夫であるウィリアム3世(1650〜1702年)は再婚せず、その8年後の1702年、乗馬中に馬がモグラの巣につまずいたために落馬したのが原因で死去します。結局、メアリ2世の妹アン(1665〜1714年)が、スチュアート朝最後の女王となりました。
イギリスには女王のときに栄えるというジンクスがありますが、アン女王もスペインとの戦争(スペイン継承戦争)を優勢に進め、またイングランドとスコットランドとの対等合併で生まれたグレートブリテン王国の初代君主となりました。
しかし、彼女の家庭生活は、悲劇的なものでした。夫との関係は良好で、彼女は17回も妊娠しました。さぞ子だくさんかと思いきや、死産が6回、流産が6回、生後数時間で死んだ乳児が2人。彼女は自己免疫疾患を患っており、胎盤から胎児への栄養補給が滞っていた可能性があるとされています。
■スチュアート朝断絶で予防策が求められる
それでも、女児2人が成長できそうに見えましたが、2歳の誕生日を迎える前にいずれも天然痘で死亡。唯一の男児ウィリアムは先天性の水頭症を患っており、11歳で病死しました。生まれてくる子がみな死んでいく。母親として、これほどつらいことはないでしょう。
アン女王はブランデーなしには生きられない酒浸りとなり、極度の肥満と痛風に苦しんで歩行不能になりました。彼女が脳卒中で亡くなったとき、立方体に近い棺桶を用意する必要があったという逸話があります。
アン女王の死によりスチュアート朝が断絶したため、遠縁のドイツ・ハノーヴァー公国から、ジョージ1世(1660〜1727年)がロンドンに迎えられ、ハノーヴァー朝が始まります(1714年)。54歳という当時としては高齢で即位したジョージ1世の家族をも天然痘が襲いました。スチュアート朝断絶の轍(てつ)を踏まないためにも、予防策が絶対に必要でした。
■人痘法を広めるきっかけをつくったモンタギュー婦人
このとき、1人の貴婦人がイスタンブールからロンドンに戻ります。
彼女の名は、メアリー・ウォートリー・モンタギュー夫人(1689〜1762年)。ロンドン社交界の花形だった彼女は、弟を天然痘で亡くし、自身は一命を取り留めたものの、自慢の美貌が「あばた」で覆われてしまいました。
オスマン帝国駐在のイギリス大使に任命された夫に伴ってイスタンブールに赴いたとき、彼女はトルコ人たちの人痘療法が天然痘予防法として成果を挙げている、という話を聞きます。意を決したモンタギュー夫人は、1718年、自らの5歳の息子にまず人痘を受けさせ、成功しました。
その後、ロンドンに戻った彼女は親交のあった王太子妃キャロラインに働きかけ、イギリス医学界の重鎮が居並ぶなか、今度は自らの娘に人痘を受けさせました。キャロライン妃からこの話を聞いた国王ジョージ1世はおおいに興味を示し、囚人6人に釈放を条件として人痘を接種させ、安全性を確かめたうえで、孫娘の王女2人にも接種させました。王女様が受けたということで、このあとイギリス社会に人痘が広まっていくのです。
イギリスだけではなく、フランスでも、ブルボン朝の国王ルイ15世(1710〜1774年)が天然痘で亡くなったことから、人痘への関心が高まりました。もちろん、各国ともに根強い抵抗がありました。最大の懸念は、やはり安全性でした。
■無名の町医者が天然痘を克服する方法を確立
イギリス西部の田舎町バークリーで町医者をしていたエドワード・ジェンナー(1749〜1823年)は、自分の息子にも人痘を接種していましたが、より安全な方法を探し求めていました。
ある日、ジェンナーは牛飼いの娘から、次のような話を聞きました。
「私たちは牛痘(ぎゅうとう)にかかってるから、天然痘にはかからないの」
牛痘とは、ウシが発症する天然痘によく似た病気で、ウシの乳房に水疱(すいほう)が生じます。乳搾りを通じて人間にもうつりますが、人間は皮膚に水疱ができるくらいで大事には至らず、回復します。
その話を聞いて、ジェンナーは考えました。
「牛痘に対する免疫が、天然痘に対する免疫になっているのだろうか。これは実験で確かめる必要がある」
1796年、ジェンナーは、乳搾りの娘サラにできた水疱からとった液体を、ジェンナー家の使用人の子である8歳のジェームズに少しずつ接種してみました。ジェームズ少年は微熱を出しただけで回復しました。これで免疫ができたと判断したジェンナーは、6週間後に本物の天然痘(人痘)をジェームズに接種してみました。彼は、まったく発症しませんでした。
ジェンナーはついに、天然痘を克服する安全な方法を確立したのです。
■「ワクチン」はジェンナーの造語
翌年、彼はこの成果を論文にまとめ、ロンドンの王立協会(自然科学に関する最高権威)に送りましたが、大学も出ていない無名の町医者の論文がまともに扱われることはありませんでした。しかしジェンナーはへこたれず、さらに2件の症例を追加した研究結果をまとめた報告書を自費出版し、大反響を呼びます。
「ワクチン」もジェンナーの造語であり、ウシを意味するラテン語の「ウァッカ(vacca)」から名づけられました。ジェンナーはあえて特許をとらず、種痘の技術を無償公開することで、その普及に貢献したのです。
反対派は、「牛痘を接種するとウシになる」などの俗説を広めましたが、天然痘の恐怖から解放されたいという人々の願望は強く、1801年までにイギリスでは10万人に上る人が接種を受け、海外のフランスやスペインのほか、植民地にも広まりました。イギリス政府は1840年、ジェンナーの種痘法を公認し、人痘の接種を禁じました。
日本には幕末に長崎経由でオランダからもたらされ、大阪の緒方洪庵、伊豆の江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)ら蘭学者のネットワークを通じて普及しました。
あらゆるワクチンには副反応のリスクがあり、種痘の場合も乳幼児が脳炎を併発して死に至る場合もありました。1970年代には北海道で集団訴訟も起こり、また天然痘の発生自体が稀になったことから、厚生省は集団接種をやめています。その病気に罹ることのリスクと、ワクチン副反応のリスクとを天秤にかける必要があり、それを判断するためには、公的機関による情報開示が必要なのです。
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駿台予備学校/N予備校 世界史科講師
東京都出身。ノンフィクション作家、予備校講師、歴史系YouTuber。学習参考書のほか、一般向けの著書に『世界史で学べ! 地政学』(祥伝社)、『超日本史』(KADOKAWA)、『「戦争と平和」の世界史』(TAC出版)、『「米中激突」の地政学』(ワック)、『政治思想マトリックス』(PHP)、『「保守」って何?』(祥伝社)、『グローバリストの近現代史』(ビジネス社)などがある。YouTube「もぎせかチャンネル」でも発信中。
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(駿台予備学校/N予備校 世界史科講師 茂木 誠)
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