記者と取材先という矩をこえてしまった…"安倍首相に最も食い込んだ記者"岩田明子が悔やむ「最大の失敗」
プレジデントオンライン / 2023年5月25日 11時15分
■学生時代はマスコミ志望ではなかった
2002年に当時官房副長官だった安倍晋三元首相の番記者になって以来、官邸や政党、外務省などの担当をしつつ、結果として20年以上にわたって安倍さんの取材を続けました。2022年7月8日、安倍さんが遊説先の奈良市で凶弾に倒れる前日の夜も、電話で話をしていました。なぜ私は政治記者になったのか。
私にとって政治は縁遠いものでした。そもそも学生時代は記者になるつもりすらありませんでした。
高校時代を県立千葉高校で過ごし、理系のクラスに所属していた私は、医者になるのが夢でした。でも、いくら勉強しても物理と化学が苦手で。私は泣く泣く夢をあきらめ、高校2年生の夏に文系に転じる決意をしました。そこからは、数学や現代国語を中心に得意な教科を強化する方針で勉強をすすめ、東京大学に進学しました。
東大生は1、2年生のうちは全員が教養学部に所属し、3年生から法学部や経済学部といった専攻に分かれます。このため多くの学生は3年生から勉学に本腰を入れるのですが、要領の悪い私は1年生からメリハリをつけずに勉強していました。
テニスサークルや大学祭など、楽しい学園生活はあっというまに終わってしまい、法学部に進んでからは司法試験を目指して予備校に通い始めました。予備校、大学の図書館、自宅のみを往復する、砂漠の「三角生活」を送ることになりました。
■最初は雰囲気が良い山一証券に入ろうと思っていた
とにかく「公法」が克服できずにいました。当時の司法試験は、論述の試験が6つの科目に分かれていましたが、「憲法」や「刑法」の点数が一向に伸びなかったんです。
あえて単位を残して大学に残り、司法留年をして試験に挑み続けましたが、何度トライしても論文試験の壁が立ちはだかっていました……。悩んだ末に大学6年目の7月、まだ採用活動をしている企業を片っ端から受けました。その結果、山一証券や電力会社などの一般企業のほか、NHKの内定を得ることができました。
私は、面接の時から山一証券の家族的な雰囲気に親しみを覚えていました。ところが採用担当の方から、「採用が決まった後に言うべきかどうか、悩んだのですが……。長期的な観点から、うちには来ないほうがよいかもしれません」と言われてしまいました。
理由を尋ねても口ごもるばかりで、明確な理由は教えてもらえませんでした。その後、山一證券の不正会計が報道され、自主廃業が発表されました。その報道に接した時、山一証券の親心のようなものを感じました。
■NHKへの入局を決めるが、暗闇のスタートだった
NHKへの入局を決めたのは、「いろいろな世界を知ることができるマスコミに身を置いてみたい」という、理屈では説明のつかない気持ちがふつふつと芽生えたからです。ただ、実際に入社してみると、そんな漠然とした気持ちでこの世界に足を踏み入れた同期は見当たらず、高い志を抱き、学生時代を通じて、海外でボランティア活動をするなど、多くの経験を積んでいる人ばかりでした。
4年間、単調な「砂漠の三角生活」を送っていた私にとって、マスコミの世界は異次元そのもの。研修で行われる「模擬記者会見」の時も、私だけ質問が思い浮かばず、いちばん後ろの席で顔を赤らめている始末でした。
記者を続けていく希望や自信は早くも崩れ去り、すぐにでも会社を辞めてしまいそうな、そんな暗闇のスタートでした。
■辞令が出たのは配属希望とはまったく違う岡山
研修を終え、配属先の希望を聞かれた時には「横浜、静岡、名古屋」と答えました。一人暮らしの経験が無かったため、実家の千葉からできるだけ近く、新幹線で帰省することができ、気候が温暖なところがいいなと思ったからです。ところが辞令は岡山でした。
たしかに「新幹線は通っているし、晴天も多い県だ」とは思いましたが、親戚はもちろん、知人もいません。そもそも旅行ですら中国地方自体に行ったことがなかったので、不安でいっぱいでした。
岡山での4年間はいわゆる「サツ回り」として警察や検察を担当し、事件・事故の取材をしていました。当時はどの社も先輩たちはとても厳しく、また事件取材は独特な世界です。
事件記者は、いわゆる「夜討ち・朝駆け」の取材がメイン。夜は捜査関係者の帰宅後に、朝は通勤前に自宅を訪ね、捜査の進展状況や逮捕日(いわゆるXデー)を聞き出そうと努力しました。独自性の高い情報を他のテレビ・新聞社に先駆けて掴み、「特ダネ」を報じるためです。
■警ら中の警察官に「死んじゃだめ!」と声をかけられた
そのため、捜査員に「容疑者をいつ逮捕するのか」「事件にいつ着手するのか」などと聞くのですが、最初は要領がつかめず、「そんなこと言えるわけないだろ!」と怒鳴られっぱなし。そして事件が起きれば、いち早く現場に行くのですが、勢い余って規制線を越えてしまい、また怒鳴られました。そんなことが365日続くわけです。
私は事件取材が本当につらくて、夜回りの途中、川のほとりや田んぼのあぜ道で泣いていたこともありました。ある夜、川べりでしゃがんで将来のことを考え込んでいると、パトロール中の警察官が、「おえん(だめだ)! 死んだらおえん!」と駆け寄ってきました。自殺未遂と誤解されたようでした。そのときほっとする気持ちがこみ上げてきましたが、警察は取材先。後から猛烈に恥ずかしくなりました。
■巡査部長から言われた「ひとこと」が支えになった
転機となったのは、取材先の巡査部長のひとことでした。その日は昼下がりの裁判所の裏玄関。私は川べりの時と同じように、しゃがんで悩みを深めていました。すると、たまたま逮捕状を取りに来ていた取材先の巡査部長が私をみつけ、こう言葉をかけました。
「新人さん、最初は誰でも不安はつきもの。会社はいつでも辞められる。だけど、小さくても良いから『私はこれをやりました』という、自分なりの実績がないと、これから先の人生、敗北体験だけを引きずって生きていくことになるんじゃないの。まずは何でもいいから、小さな実績を作って、辞めるならばその後にしたら?」
この言葉は、その後の記者人生の中で、長く私を支えることになりました。
その日を境に、「夜討ち・朝駆け」を徹底して行いました。私は子供の頃、水泳を頑張っていたこともあり、当時は体力に自信があったんです。早朝から夜遅くまで取材に明け暮れました。一見、事件のない平時にも、サンズイ(汚職事件)がはじけるのを警戒して、警察署をくまなくまわり、知り合いを増やす努力を続けました。またどんなに小さな事件でも、「どんな背景があるのか」と精緻に取材することを意識しました。
すると、少しずつですが「特ダネ」を取れるようになりました。最初に掴んだ特ダネは「中年男性がパンを50個盗んだ」という単純な窃盗事件。ただ、この事件には特殊な背景もありました。阪神大震災で家を失い、その後、岡山まで流れ着いたものの、放浪、空腹のあまり、業務用軽トラックから50個のパンを盗み、食べてしまったというのです。
事件をいち早く報じるだけでなく、背景も含めてニュースにする。私にとって初めての成功体験となりました。
■当初は社会部希望、異動先は政治部
その後、入局5年目の2000年、東京の報道局に異動します。司法試験と事件担当という自分の経験を基に、社会部希望、としていたのですが、異動の辞令は政治部でした。
政治取材は基礎知識も経験もなかったため要領がわからず、初めは失敗だらけでした。政治部では最初に「総理番」という首相の動静を追う仕事を担当することで、基礎を構築するのですが、私は首相を見失ったり、面会に来る人の顔がわからなかったりして、毎日のように上司や先輩から怒られていました。
1年目は森喜朗首相と小泉純一郎首相の総理番を、2年目には古川貞二郎官房副長官番に加えて法務省を担当しました。そして3年目に安倍晋三官房副長官番となり、これが安倍さんとの出会いとなりました。
■当時官房副長官だった安倍さんの担当になる
当時の安倍さんは、政界のプリンスと呼ばれていて、防衛や社会保障などの専門分野を持つ記者や派閥の取材経験がある記者が、活発にやりとりしているように見えました。最初はとっつきにくく、私がおぼつかない質問をしても「そんなことも知らないのか」という雰囲気。取りつく島もないまま時間が流れ、私は、上司に担当を替えてほしいと頼んだこともありました。
ところが2002年9月、小泉首相が北朝鮮に電撃訪問。これに同行した安倍さんは、それまで長年、拉致問題に取り組んできたことで注目を集め、一気にスターダムを駆け上がりました。そして直後の内閣改造で自民党幹事長に若くして抜擢され、「ポスト小泉」の筆頭格に。
各社が安倍さんを総力を挙げて追いかけるようになり、私も担当を続ける流れになってしまいました。もう頑張って食らいつくしかないわけです。私は、運を天に任せるような気持ちで、「焦って結果を求めず、マイペースに最善を尽くすしかない」と腹をくくりました。拉致や防衛については勉強をしながら、情報を取ることができる機会をうかがっていました。
■仕事に誠実な記者にしっかりと向き合う人
安倍さんとの距離を縮める一つのきっかけになったのは、2003年、清和会所属の坂井隆憲衆議院議員が、政治資金規正法違反と詐欺の疑いで東京地検特捜部から捜査を受け、逮捕許諾請求が行われた時でした。
法務省時代に逮捕許諾請求事案が続いたこともあり、私は多少の知見を得ていました。そこで、この事件の読み筋について話してみたところ、初めて安倍さんから「岩田さんの得意分野なんだね」と耳を傾けてもらえるようになったのです。
その後、私は、安倍さんが、首相候補の一人となるならば、法務行政にも関心を強めるべきではないかと考え、「永田町にいるとなかなか見えない世界を見てはいかがですか」と府中刑務所の視察を提案しました。当時の府中刑務所は、過剰収容問題が深刻でした。
外国人犯罪者が大声で叫んだり、刑務官につかみかかったり。そんなすさまじい状況を見た安倍さんは愕然としていました。以来、矯正行政への関心を深めていき、第1次安倍内閣が発足した際には、広島の少年院を視察しました。
■安倍さんと音信不通になったことも
小泉内閣も終盤にさしかかると、安倍さんから組閣の内容を少しずつですが、いち早く聞けるようになってきました。NHKで次々に大臣内定の速報が流れる中、総理室で小泉首相が安倍さんに「この速報、一体どういうことなのだろうか」と口にしたそうで、後から「緊張感が走ったよ」と冗談めかして言われたこともありました。
安倍さんは自分にとって耳あたりのいいことを言う人だけでなく、リスクを取って耳に痛い話をする人のことも評価していました。「それはうまくいかないと思います」とか「世論と乖離(かいり)しているのではないでしょうか」などと意見を言うと、「私はそうは思わないけどね」と憮然として電話を切ってしまうこともありました。
ところが後になると、「確かにその通りだったね。参考になった」と口にすることもありました。批判をすると関係を断ってしまう政治家を見かけますが、安倍さんはそうではありませんでした。夜、さまざまな人に電話をかけて情報収集した後、一人でじっくり自省するのが常でした。
そのことが、結果として最長政権を築くことになったのではないかと思います。
自らに対してゴマをすることを良しとする政治家はいますが、他方で多くの有権者たちと接するのが仕事。それだけで深い信頼関係を構築できるほど単純なものではない、と感じています。
ただ、再登板を実現し、求心力が高まっていた安倍さんに対して私が強い物言いをした時は2週間ほど連絡が取れなくなってしまい、さすがにかなり消耗しました……。
■最大の失敗は2007年、第1次安倍内閣が退陣する時
安倍さんとの関係で、最大の失敗は2007年、第1次安倍内閣が退陣する時でした。
安倍さんは参院選で歴史的惨敗を喫し、森元首相などは「今のタイミングできちんと退陣をして身を引き、再起を考えるべきだ」と提言しましたが、安倍さんは続投を決断しました。
ただ、内閣支持率がかなり落ちていたため、大幅な内閣改造が不可避な状況。安倍さんはだんだん精神的に追い込まれ、体重もガクンと落ちていきました。
セミが鳴く8月下旬の夕暮れ時、安倍さんは私に電話で「もう組閣はやめようかな」と漏らしました。驚いた私は「参院選を大敗した時点で続投を決めたのに、こんな中途半端なタイミングで政権を投げ出すのは指導者としてありえない。絶対にやり抜くべきだ」と声を張り上げてしまいました。
■記者と取材先という矩をこえてしまった
結局、内閣改造は予定通り行われたのですが、私は大きな間違いを犯してしまったと激しく後悔しました。取材するのではなく、ただ、取材先である安倍さんに、自分の思いを主張しただけだったからです。
「記者と取材先という矩をこえてしまった」と思いました。そのわずか2週間後の退陣では、携帯電話の電源は切られていて、つながりませんでした。
報道に携わる者は、社会の木鐸(ぼくたく)であるべきだ、とか国益を考えるべきだ、などとそれぞれの思いを胸に取材していますが、そうした気持ちを大切にしながらも、「正確な事実を迅速に伝える」という使命は絶対に忘れてはいけない。そのことを深く思い知らされました。
その後、安倍さんは雌伏の時代を経て、2012年に再登板を果たし、歴代最長政権を築いていきます。盤石かと思われていた第2次安倍政権でしたが、2020年の夏、第1次退陣の時と似たような状況に直面しました。安倍さんにとって2019年は新しい元号「令和」を決めて、G20大阪サミットを開催するという全力疾走の年だったのですが、その後、新型コロナという未知のウイルスとの闘いが待ち受けていました。
最初は武漢にチャーター機を飛ばして日本人を帰国させたり、「ダイヤモンドプリンセス号」の封じ込め対策を行うなど、熟練の危機管理手腕を見せていました。ところが3月以降になると、「アベノマスク」や困窮世帯への給付金などを理由に、世論が冷え込んでいきました。
夏の初め頃には、安倍さん自身も目に見えて体調が悪くなっていき、再び潰瘍性大腸炎の症状が現れたのです。8月6日の広島訪問で、足を引きずる姿を目にした時、私の頭には、また「あの時」の悪夢が去来しました。
■また同じ失敗を繰り返したかもしれないと思った
第1次内閣の退陣――。あのときも、8月6日の広島で、安倍さんは、痩せた体で足を引きずっていました。「退陣」の二文字が私の頭をよぎり、連日、安倍さんの携帯を鳴らしました。安倍さんは「また腸が悪くなり、数値が悪化してしまったんだ」と言います。
私は不安な気持ちで一杯になりましたが、同時に「記者としての、あの失敗を繰り返してはいけない」とも思いました。私は「第1次内閣で、不本意な辞め方をしたのだから、今回は絶対に投げ出してはいけない」という言葉が喉まで出かかったのですが、このときは様子を聞くだけにとどめました。
お盆が近づいた8月のある日、安倍さんの声には力が失われ、慶応大学病院に入院する可能性も口にしました。思わず私は「二の舞を演じてはいけない。憲政史上最長政権を築いたリーダーが同じ辞め方をするのはありえない」と、つい強い口調で言ってしまいました。
私は「しまった」と思いましたが、後の祭りです。安倍さんは「しばらく考えてみる」と噛みしめるように語ったので、退陣は避けられないと悟りました。私はそれ以上は何も言いませんでした。その日から安倍さんとは電話もせず、不安な気持ちで退陣に向けた予定稿を書きながら、事態を見守っていました。
■複雑な思いを抱えながら「安倍首相、退陣の意向固める」と速報
いきなり退陣を表明するかもしれない。そんな不安を抱えていた8月下旬、安倍さんから「岩田さん、よく考えて、結論を出したから」と伝えられました。そして、こうも言いました。「今回は同じ轍は踏まない」と。
安倍さんは秋冬のコロナ対策をまとめ、8月末にはトランプ米大統領やプーチン露大統領など多くの首脳たちと電話会談をしています。次の政権のために下準備をし、自らも余力を残す形で辞める、という意味だったのだと後から察しました。
私は複雑な思いを抱えながら、特ダネとして「安倍首相、退陣の意向固める」とテロップで速報しました。そして特設ニュースのため、すぐにスタジオに入り、辞任の経緯や今後の課題を淡々と解説しました。でも、頭の中は真っ白。口は機械的に動いているのですが、目の前のモニターに映る自民党本部の風景や、あわただしく出入りする国会議員たちの中継映像は、モノトーンで静止画のように見えました。
ただ同時に、第1次安倍内閣の退陣で情報が取れなかった、という自らが引きずっていた失敗の過去を、今回の退陣でようやく克服することができたのかな、とも感じました。
■事件前日の悪い予感。電話で安倍さんに話したこと
その後の安倍さんは、近い将来、台湾情勢などを含めて国際情勢が緊迫化するだろうと考えていたようで、「もしまた天が私を必要とする時がくるとしたら、その時は、国のために尽くしたい」と口にし始めていました。
そして、2022年7月7日の夜。この日、安倍さんから、二度、電話がありました。
「明日は選挙応援の予定が急遽変更になり、奈良に行くことになっちゃったんだよ」とぼやいていました。
私は、ちょうど数日前、第1次安倍内閣で秘書官を務め、参議院議員となった井上義行さんが旧統一教会で祝福を受けたという情報を得ていたため、その件を切り出しました。すると安倍さんは、それを認めたうえで、抑え目の声で、「大丈夫だから、その件は」と、あまり話したがらない様子でした。
■苦悩の中で、自問自答を繰り返している
私はピンとこなかったのですが、すぐに大学時代の「原理研」を思い出しました。そして論理に飛躍を感じながらも、「第1次内閣、第2次内閣で二度も退陣を経験し、つらい思いをした人たちやさまざまなことへの影響は大きかった。リスクと思われることは、回避すべきだ」と感情に任せてまくしたててしまいました。「そんなことあるわけないでしょう、また明日ね」と言われて電話は終わりました。
しかし、そのわずか12時間後、安倍さんは選挙演説中に凶弾に倒れ、非業の死を遂げてしまった――。テロを許してはいけないし、テロリストと交渉をしてはならない、というのが世界の常識です。そして安倍さん本人もこのような最期に納得していないでしょう。私自身、取材が足りなかったのではないか、あのような悲劇が起きる前に、ジャーナリストとしてやるべきことがあったのではないか。苦悩の中で、自問自答を繰り返しています。
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政治外交ジャーナリスト
千葉県生まれ。東京大学法学部卒業後、1996年NHKに入局。岡山放送局へ配属。地方記者として岡山県警察や岡山地方検察庁などを担当する。2000年東京放送センター報道局政治部へ異動、官邸記者クラブに所属。2002年当時官房副長官だった安倍晋三元首相の番記者を担当。以来、歴代内閣で首相官邸や外務省を担当しながら、20年以上に渡って安倍元首相を取材。2013年解説委員室へ異動、政治担当の解説委員と政治部の記者職を兼務。2022年7月NHKを退局。ジャーナリストとして報道番組に出演する一方で、月刊誌や専門誌などで執筆活動も続けている。千葉大学客員教授、中京大学客員教授。
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(政治外交ジャーナリスト 岩田 明子 聞き手・構成=ジャーナリスト・宮原健太)
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