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37年間、毎朝駅前に立っている…「船橋の泡沫候補」だった野田佳彦氏が"総理大臣"になれた本当の理由

プレジデントオンライン / 2023年5月29日 11時15分

インタビューに応じる野田佳彦元首相。 - 撮影=遠藤素子

【連載 #私の失敗談 第2回】どんな人にも失敗はある。旧民主党政権時代に首相を務めた野田佳彦氏は「37年間、平日はかならず駅頭に立つようにしている。県議を目指した時に始めたことだが、まさかずっと続けることになるとは思わなかった」という――。(聞き手・構成=ノンフィクション作家・樽谷哲也)

■トラウマになった「生徒会長選挙」の大惨敗

私は、自分自身の政治人生を振り返ってみると、そもそも失敗から始まっていると思っているんです。失敗なんてしないほうがいいのでしょうけれど、失敗したことが人生を大きく変えていくきっかけになるという場合もある。

私は1987年から千葉県議を2期務め、1993年に衆院議員に初当選しました。96年に落選を経験し、現在は通算9期目を迎えました。公職選挙法にのっとった選挙では11勝1敗です。勝率はいいほうだと思うんですが、実は隠れた敗戦というものがありましてね。

それが千葉県船橋市立薬円台小学校、生徒会長選挙なんです。

■「“あかつき”って何だよ」同級生の演説に圧倒される

6年生の時、生徒会長の選挙に立候補することになったんです。当時4クラスあって、各クラスから1人ずつ候補者を出すという“枠”がありましてね、みんなやりたくなかったので押し付けだったのかもしれませんが、ともかく6年4組からは、まったくその気がないのに私が立つことになった。

立候補者による立ち合い演説会が開かれまして、6年1組の美藤君がいきなり「私が当選した暁(あかつき)には――」と口火を切ったんです。そばで聞いていた私は「“あかつき”って何だよ? 聞いたことがない言葉だよ……」と内心びっくりするやら、うろたえるやら。

彼のお父さん、お母さんが相当に演説原稿に手を入れたのかもしれませんが、とにかく常套句がちりばめられていて、その名演説に圧倒されっぱなしでした。文句なしの圧勝です。

次は2組の宮島君。いまでいうジャニーズ系のイケメンで、女子生徒に抜群の人気があって、浮動票を集めて2位に入ります。3位になるのが今野君というごく普通の生徒でした。

■得票数40票、最下位で落選…

4番目に自分の番が回ってきた私は、美藤君に圧倒され、女子の憧れの宮島君にプレッシャーを感じていて、このような見た目ですし、大した中身もないし、とにかく元気に演説するしかないと気負っていました。

いま考えると、男子特有の変声期だったんですね。喉がむずむずするような感じで、ちゃんと声が出ない状態だった。にもかかわらず、緊張もあって気負って話し始めた瞬間、妙にすっとんきょうな声が出てしまったんです。そして、全校生徒が大笑い。同じ小学校に通っている弟まで目の前で笑っているんですよ。

これで深く傷つきまして、あとは何をしゃべったのか全然覚えていません。ただ恥をかいただけで、結果、私の得票は40票ほどでビリでした。つまり、6学年全学級のうち、同じクラスの子だけが私の名前を書いてくれた。足元の組織票といいますか、同情票といいますか……。

以来、人前で話すのが大の苦手になって、積極的に人の輪に飛び込んでいくこともしなくなり、極めてシャイな少年期を中学・高校と過ごすことになりました。

■偶然目にした松下政経塾のパンフレット

早稲田大学の政経学部政治学科へ進んだのですが、雄弁会(政治家への登竜門として知られる学内弁論クラブ)の面々はまともな集団に見えなかったですね。なんでこんなに人前でしゃべりたがるやつばかりがそろっているんだろうと不思議でしょうがなかった。

政治には関心があったのですが、人前でしゃべることなんてできない。だから彼らとは一線を画すように、当時、ロッキード事件を批判して自民党を離党して河野洋平さんらが結成した新自由クラブという新しい政党の学生ボランティアになって、ポスター貼りやビラ配りなどの裏方の仕事をするようになります。立花隆さんのように、ペンの力で政治を正していくジャーナリズムの世界に進みたいという小さな志も持っていました。

大学4年の時、松下幸之助さんが私財を投じて設立した松下政経塾の第1期生募集というパンフレットを見て、ふと応募したら、塾長である松下さんと直接お目にかかる最終面接まで進んで、なぜか入ることができてしまったんです。そして、当時は5年制だった――現在では4年制です――研修期間中に、さまざまな経験を積むことになりました。

インタビューに応じる野田佳彦氏
撮影=遠藤素子
経験を積むことで無口な自分を変えられるかもしれない。野田氏は就職せず、松下政経塾への入塾を決めた。 - 撮影=遠藤素子

■もう少し人前で話せるようになりたい

ここに入れば、無口な自分ももう少し人前で話せるようになったりするのではないかという気持ちはありましたが、まさか、毎朝、駅前や街頭に立って活動するようになっていくとは、このときはまだ思いもしませんでしたね。

原体験は薬円台小学校生徒会長選挙での大失敗です。そのトラウマを克服したいという思いがどこかにあったのかもしれません。

ふとしたきっかけから、自分にとっていちばん苦手な世界へチャレンジすることになったということですね。思い切って挑戦してみようと行動したことで何かが大きく変わる。ふとした思いつきで、人生、どうなるかわからないものだと、本当に実感します。

■初めての選挙戦、集会に来たのは1人だけだった…

いまでこそ松下政経塾出身の議員は国会にも地方議会にも数多いですが、なにしろ1期生というのは、実績がゼロでOBやOGもいません。だから、卒業後の身の振り方が誰もわからない。

1985年に政経塾を卒業する時、私は27歳でした。いちばん近い選挙がその2年後に統一地方選挙としてありましたので、政経塾を出た以上、一度はチャレンジしないと意味がないと考えて、千葉県議選に無所属で挑戦すると決めたんです。

どこかの企業に就職することもできないまま、働き口を探しては家庭教師や登山ポーターをやったりして、月に10万円稼ぐのってえらく大変だと痛感しながら、選挙活動を始めました。

いまでも忘れません。活動報告会を兼ねた最初の集会を、地元の公民館の和室を借りて開いたんです。それこそ小学校時代の卒業生名簿をかき集めたりしながら、事前の挨拶回りをたくさんして、自分で座布団を50枚くらい敷き並べて準備したことを覚えています。

当日、緊張感いっぱいで迎えた開始時刻になって、来たのは1人だけでした。

その方も、私も、いずれもっと集まってくるだろうと思っていた。しかし、待てど暮らせどほかには誰も来ない。目の前のそのたった1人に帰られてはいけないと、用意してきた原稿や資料を基に、県政にかける思いを必死に語りかけました。

まるで1対1の家庭教師です。がっかりしたのは私だけだったではないでしょう。その人は最後までおつきあいいただいて、「がんばってください」と言って帰られました。小川さんという学校の先生で、私の支援者第1号になってくださいました。

■「これじゃ選挙で勝てっこないですよ」

このさんざんな最初の集会について、当時ご存命だった松下幸之助さんにご報告に伺ったんです。「一生懸命に人を集めようとしましたが、1人しか来ませんでした。これじゃ選挙で勝てっこないですよ」と。松下さんは、「わしだったらね……」とほほ笑んだんです。

「人がいっぱいいる前に立って、皿回しをやる。さらにマイクとスピーカーを用意してしゃべればいい。もっと人は集まる」――。

なるほど、さすが松下さんは知恵者だと、目からうろこが落ちる思いでした。しかし、皿回しをするには技術がいります。私にその技術を習得する時間はありません。要は人に話を聞いてもらうきっかけをつくればいいだろうと考えて、毎日、朝早くから街頭に立つようになったんです。

インタビューに応じる野田佳彦氏
撮影=遠藤素子
街頭に立ち始めた当初は「冷たい空気」を感じたという。 - 撮影=遠藤素子

忘れもしません、37年前の1986年、10月1日からJR津田沼駅に立って、2日はJR船橋駅、3日が西船橋駅……という具合で、平日は毎日、街頭に立ちつづけました。

爽やかな秋晴れの朝、通勤・通学に急いでいる人ばかりでみなさん通り過ぎて行く。手応えらしきものはゼロでした。これまた失敗だったのかもしれませんが、2カ月たち、3カ月がたって、だんだん寒い季節になってくると、「毎朝大変ですね」と使い捨てカイロを持ってきてくれたり、のど飴を差し入れしてくれたりする人が現れてきたんです。

■駅前に立ち続けて感じた人々の変化

誰もが無関心なのではなく、気づいてくださっている方もいるのだと、ありがたさが身に染みながら、ビラもそのころから配り始めました。

私が毎朝、街頭に立つようになって半年がたつという翌1987年の春ごろになると、4月の県議選が近づいてきて、現職や大物候補たちがみんな多くのスタッフとともに街頭に出てくるんです。いくら半年つづけていたといっても、私のように政党の支援も推薦もない新人は、埋没してしまう。

そこで、私は、ある日、朝7時から夜8時まで、13時間を1カ所でしゃべりつづけるのを「マラソン辻説法」と名づけて挑戦しました。

JR津田沼駅で、落語の寄席にあるような「めくり」で「5時間経過・残り8時間」と書いた紙を置いて、つまりは駅を乗り降りして通っていく人たちにも“見える化”して、ぶっ通しでつづけていると、一瞥するだけでなく、足を止めてくれる人が出てくるんですよ。

お昼ごはんに急いでおにぎりを頬張るようなときだけは、友だちが「いましばしご飯を食べさせてください」と臨時にマイクを持って代わってくれるんですが、そのようなとき以外は全部、自分1人でしゃべりつづけました。

インタビューに応じる野田佳彦氏
撮影=遠藤素子
後ろからぶつかってくる人もいた。ビラを目の前で破り捨てられることもあった。それでも街頭に立ち続けた。 - 撮影=遠藤素子

■皿回しはできないが、言葉が人々に届き始める

朝から晩までしゃべりつづけていますと、頭の中がだんだん真っ白になってきまして、自分でも何をいっているかわからなくってきます。

同じような話を繰り返すようになってきて、えらく苦労するんです。声はだんだん嗄(か)れてきて、嗄れ果てたあとに、これまた不思議といい塩梅の張りと弾みのあるビロードのような声になってくる時がありましてね、私自身も疲れているはずなのに、夕方以降に人が足を止めて「この人は何を訴えているんだろう」と聞いてくれるようになってくる。

最後の2時間くらいになると、500人くらいも足を止めてくれていて、質問が出てくるんです。「教育についてどう考えているのか」「税金のあり方をどう変えていくのか」というように。

このような得難い経験をすることによって、私には松下幸之助さんのいうような皿回しはできなかったけれど、長時間、決まった場所で、半年間、毎日こつこつと立ちつづけ、そしてそのフィナーレに13時間話し続けた結果、500人ほどの人たちが私の話を聞きに来てくれて、有権者とお互いの意見交換もすることができるようになりました。

■20万円で買った中古の街宣車が選挙戦初日に壊れる

政治活動の3要件といわれる「地盤・看板・カバン」の何一つない中、苦し紛れでひねり出した知恵だからこそ、大袈裟にいえばイノベーション、新たな技術革新が生まれるのだと心底思い知ったこともあります。

選挙期間中、市長の息子さんだったか、当選が確実視される候補者がベンツのオープンカーに乗って「野田君、頑張れー!」なんて露骨に余裕綽々のエールを送られることがあった。私は、助手席のドアが外れてしまうような20万円で買った中古の軽自動車で演説に走り始めた初日だったんですが、「こんな街宣車、いっそやめちまおう」と、すぐに車を降りて歩き始めることにしました。

駅や街頭に立ってしゃべりつづけるのとはまったく別です。ハンドマイクを肩に担いで、ひたすら歩きながら辻説法をつづけました。勢いづいてこんな判断をしたことが成功であったのか失敗であったのか、いまも私にはわかりません。

ちょっとした坂道を歩きながら演説するだけでもゼーゼーと息が上がってしまったものです。選挙運動は午前8時から午後8時までですから、12時間歩きつづけなければならなくて、本当にきつい。足は棒のようになりました。

現在の私が太っていることはみなさんおわかりでしょうけれど、初めての千葉県議選直前当時の私は29歳ですから、もっとスリムな体型だったんですよ。それでも、あっという間に10キロ痩せました。

■ハンドマイクを担いで、ひたすら歩く

だけれども、見よう見まねの思わぬ効果とでもいうのでしょうか、自らの足を使って街頭演説に歩いているからこそ気づくこともありました。

演説するコースの途中に公団住宅があって、その前に小さな公園があるんです。公園には、たいてい真ん中辺りに滑り台がありますね。私は、子どもたちの邪魔にならないように注意しながら、その滑り台のいちばん上にのぼって、たすきをかけたまま、ハンドマイクを担いで演説をするんです。

たとえば、ベランダで洗濯物を干している奥さんがいらっしゃると、スピーカーをそちらに向けて、「こんにちは――」とバズーカ砲を向けるかのようにして語りかけるんです。

別の奥さんがベランダに出ていらしたら、スピーカーの向きをそちらに変えて、ロックオンしたといわんばかりに、また「こんにちは――」と演説を始める。聞いてもらいたい一心で、とにかく必死だったんですね。

困って困って困り抜いたときこそ、知恵が出てくるということを身をもって知っていったように思います。

インタビューに応じる野田佳彦氏
撮影=遠藤素子
どうしたら自分の話を聞いてもらえるか試行錯誤を続けた。「苦し紛れの知恵からイノベーションが生まれるんだと思いましたね」と当時を振り返る。 - 撮影=遠藤素子

■知名度も、カネも無い「泡沫候補」から千葉県議に

船橋市選挙区の定数は7。当時、私を含め14人が立候補していました。私以外の13人は皆さんしっかりとした経歴をもった方々で、自分だけが地盤、看板、カバンなしの「泡沫(ほうまつ)候補」だったんです。しかし、選挙期間中の情勢調査で「当選圏に入った」という情報が流れましてね、結果、1万8707票をいただき初当選することができました。

いまになって思い返しますに、最初の公民館での集会で座布団が埋まるようなことになっていたら、結局、中途半端な演説をして、支持を集めていくことなんてできなかったかもしれません。

最初にたった1人で来てくださった小川さんにはいまも感謝していますが、この最初の集会での失敗があったからこそ、退路を断って、思い切った活動ができるようになっていきました。そして、松下幸之助さんに5年間の教えを受けたことで、それまでとは逆転の発想ができるようになったと思っています。

「経営の神様」といわれている松下幸之助さんですが、小学校までの学歴しかなく、お金もない上に、病弱でした。だから、人から意見を聞くことを大事にして、聞き上手で衆知を集めた。衆知を募って、適材適所、人に任せることで零細企業を起こしていかれた。

私にとってのお師匠さんも、最初はマイナスばかりのところからスタートして現在の世界に冠たるパナソニックを一代でつくりあげられた。ないない尽くしなりに、やりようがあるのではないかという気持ちがあったからなんだと思いますね。

私にしても、最初から地盤・看板・カバンに恵まれて、父親が政治家であったりしたなら、つまらない世襲議員になったかもしれないし、まったく違う生き方をしたかもしれません。成功も失敗も、わからないものですね。

――その後、野田佳彦氏は、県議を2期を務め、国政へ打って出る。新党ブームを巻き起こす元熊本県知事でのちの首相である細川護熙氏の率いる日本新党の結党に参加し、1993年、中選挙区制での最後の衆院選で旧千葉1区で最多票を得て初当選を果たす。だが、非自民党政権が誕生するも、短命に終わる。

政党の離合集散が繰り返されている中、選挙制度改革も進み、小選挙区比例代表並立制が初めて導入された1996年の衆院選で千葉4区から新進党公認で2期目をめざすも、記録的な接戦の末、わずかな得票差で涙をのむ結果となる――

■105票差で落選した衆院議員総選挙

大失敗でした。小選挙区比例代表並立制に変わった最初の選挙だったとはいえ、やはり小選挙区で勝たなければならない。重複立候補して比例代表の名簿に載っていれば惜敗率が高ければ復活当選できる。比例復活と呼ばれるものです。私は、重複立候補せずに退路を断ち切って立ちました。

NHKテレビの開票速報でも、開票率99%の時点でライバル候補に200票以上勝っていたんです。選挙の常識として、ここまで差があるなら逆転はない。さすがのNHK担当記者も「もう当確を出しましょうか」と言ってきました。「情勢の微妙な地区の開票がまだ残っているようなので、その結果を待ってからにしましょう」と私のほうから言ったくらいなんです。

インタビューに応じる野田佳彦氏
撮影=遠藤素子
公職選挙法に則った選挙では11勝1敗。唯一の敗北は105票差の逆転負けだった。 - 撮影=遠藤素子

最後の最後まで待っていましたら、私の確定得票数は次点の7万3687票で、わずか105票差の逆転負けを喫することになりました。1位当選者と比べた惜敗率は99.9%近く、いまでも、衆院選小選挙区の惜敗率では史上4番目の記録であると聞いています。

開票が終わったあと、疑問票の判定作業を進めると、「がんばれ野田佳彦」「祈必勝野田佳彦」「毎朝ご苦労さま野田佳彦」といったように、候補者の名前以外のことを書くと「他事記載」という扱いになって公選法では無効になる票がたくさん見つかったそうです。

本音をいえば2票であっても3票であっても、それらを有効票としてカウントしてほしいと思いました。思いの込められた得票をいただきながら敗北に至るとは、何という非情であるかと泣くに泣けませんでしたね。

■ふとんに入っても、なかなか眠れない…

しかし、比例区との重複立候補はしていなかった以上、敗北は敗北として潔く受け入れようと腹をくくりました。負けたことから必ず何かを学びとらなければいけないと思ったんです。

かつての中選挙区制であれば、1つの選挙区で数人が当選します。水泳や陸上競技と同じように自分のペースを守り、結果を待ちます。しかし、小選挙区制は格闘技です。事実上の一騎打ちで敗北を喫するとボクシングでいうKO負けです。敗北感、挫折感は中選挙区制の比ではありません。

夜、ふとんに入っても、天井を見上げたまま、眠ろうにも眠れないんですよ。あきらめがつかない。なんで、こんな負け方をしたのか、と。わずか105票差であると思えば思うほど、108つといわれる人間の煩悩と同じくらいに、負けた理由が次から次へといっぱい思い浮かんでくるんです。

あの地域にもっと繰り返し演説しに行っておけばよかった、あの有力支援者の方にもっとお願いに伺っておくべきだった、顔なじみのあのご家族はなんで投票日に旅行へ行ってしまったんだろう、といった具合に、煩悩の数のように数え切れないほど負けた理由と後悔が浮かんでくる。

いくら惜敗率が高くても、負けは負けなのであって、容易に「次もがんばろう」などとは思えないものです。いっそグレてやろうかとさえ自暴自棄になりかかりました。

インタビューに応じる野田佳彦氏
撮影=遠藤素子
政治家をやめようと思わなかったのか。そう尋ねると野田氏は「何度もなりかけましたよ、何度も」と話した。落選から約3年半、浪人生活を送ることになった。 - 撮影=遠藤素子

落選当時の私は39歳と世間でいういちばん働き盛りの年齢で、2人の子どもは6歳と2歳、生活は一転して不安定になり、そのうえ所属していた新進党は、党内対立がつづいた末に党そのものが解党されてしまいました。

■無職・無収入のどん底を支えてくれた50人

1990年代の後半は、金融機関による不動産業者らをはじめとするいわゆる貸し渋り・貸し剝がしが激しいころで、私が事務所として船橋市に借りていた5階建てのビルでも、1、2階の借り手の会社が潰れて、4、5階の会社は夜逃げして、3階の野田佳彦事務所だけがかろうじて維持しているという大変な状況に陥りました。

当然、私自身も無職無収入の身となったわけです。この苦境のどん底の時に助けてくれたのが50人の私の支援者の人たちで、中小零細企業の社長をはじめ、年金生活者の方もいました。

毎月、一人ひとりに「このような活動をしています」と報告に伺って、その場で「がんばってますね」と1万円の支援金をいただいて領収書を書いて手渡す、ということを、次の総選挙まで、3年あまりつづけました。本当にありがたいことでした。

たとえば、ご支援してくださる方であるなら、年会費12万円をまとめて銀行に振り込んでいただくという方法を採ることもできなくはなかったんですよ。それでも私は毎月お伺いするということを変えませんでした。

中小の会社であれば、社長本人に会えた時はすんなり話が進むけれども専務しかいなかった場合は支援金をいただけなかったり、個人のお宅であれば奥さんがいらっしゃる時は難しい顔をされたりという具合で、50人の方から1カ月に1万円ずついただくことの大変さ、尊さをいつも痛切に感じていました。

そのようにして支援してくださった方たちの半数くらいの方がもう亡くなられました。そういう人たちがいたからこそ、1票の大切さ、1万円のありがたさを身をもって私は知っていて、だからこそ総理大臣にまでなることができたのではないかと、いまは思っています。

■夕食は「肉の少ない鍋」が多かった

妻は偉かったですね。お1人おひとりから月に50万円いただいたとしても、ほとんどは活動費に使うのですから、生活費にはあまり回りませんでした。そうした時期に、よく家計のやりくりをしたと思います。

食べ盛りの子ども2人を抱え、夕食のテーブルに載るのは、やたらと鍋が多かったですね。あまり肉の入っていない鍋でした。

落選中も、支持者の中には「君は将来、総理になれる」と励ましてくれる人が多くて、力づけられました。「彼が総理になった時に渡してくれ」と100万円を用意して亡くなられた方もいたと、のちになって知るということもありました。

この人に出会えて本当によかったと思えることがいっぱいあると人間が豊かになりますね。同時に、そうした出会いが責任を強烈に感じることにもつながって、途中で投げ出さなかったんだと思います。

政治の世界に導いてくださった松下幸之助さんもそうですし、落選中に支えてくれた50人の人たちもそうです。責任ある人たちへの恩は、私が生涯をかけて返していくしかないんですね。

インタビューに応じる野田佳彦氏
撮影=遠藤素子
アサガオが可憐な花を咲かせるために必要なことは何か。ある勉強会で女性研究者は「日が当たる前の闇と冷たさ」と語っていた。この話を聞いて目が覚めたという。 - 撮影=遠藤素子

■街頭で鍛えられたから今がある

初めて県議選に出たときから、街頭の演説でたくさんの失敗をしてきました。たとえば、朝刊で読んだお年寄りがアパートの一室でひとり亡くなっていたという記事にふれながら、独居死の問題を話していたら、「朝から暗い話をするな!」と道行く人に大声で一喝されたことがあります。その瞬間、言葉が出なくなってしまった。

読売ジャイアンツが勝った翌朝、「昨日のジャイアンツはすごかったですね」と話し始めたら、みんなの足が止まるということもありました。こうやって足を止めてくれるものなのかと、また驚いて、何をしゃべったらいいのだかわからなくなってしまった。足を止めてくれたり、逆に怒られたりと、小さな成功と失敗の繰り返しですね。

ビラを配っていると、後ろからわざとぶつかってくる人もいれば、足を踏んだり、中には体当たりするように通り過ぎて行ったりする人もいます。我慢の連続でした。ずっと路上で鍛えられ、自らの言葉を紡ぐようになっていったんだと思いますね。

きょう、このインタビューを受ける前にも、朝2時間、街頭に立ってきました。もう37年つづけています。コツコツつづけるというのは大事なんですよ。コツコツつづけることによって、たとえ1ミリでも、あるいは0.5ミリでも前進していると信じています。

調子のいい順風満帆のときだけでなく、逆風にさらされているときでも街頭に立っているからこそ、信用を積み重ねることになっているのではないかと思いますね。

■「安倍さんともう一度、真剣勝負をしたかった」

2022年10月、銃弾に倒れた安倍晋三元首相への国会での追悼演説では、まさに私自身の政治家としてのすべてを集大成のようにして練り上げた原稿を書きました。あれほど推敲(すいこう)に推敲を重ねて原稿を書いたのは初めてのことです。決して広告代理店に代筆を頼んだりしてはいません。

われわれのような仕事をしていますと、結婚式の祝辞などはもちろん、弔辞を読む機会も少なくありません。祝辞に比べて、弔辞ははるかに難しい。

ご本人への哀悼の意を表して、またご遺族には決して失礼があってはいけないので、ものすごく神経を使います。ましてや、歴代で最も長い期間、激務である総理大臣だった方への追悼となると、一字一句たりとも失敗があってはなりません。

志半ばで亡くなられた安倍さんに、当初の原稿では「安倍さん、勝ち逃げはないでしょう」と呼びかけるような一文を用意していました。しかし、安倍さんは仲間の選挙の応援演説中に銃撃されて亡くなられたのであって、決して逃げたのではない。

マイクを持って未来を語ろうと前を向いているときに背後から襲われたという無念を強く感じていくうちに、逃げるという言葉は失礼だと思い直して、「安倍さん、勝ちっぱなしはないでしょう」と言い換えたんです。

私にとっては勝ったまま去られてしまった感じはあります。もう一度、真剣に勝負したかったですね。

■政権交代が起こり得る政治をつくりたい

日本の国会議員の選挙制度自体は二大政党制を志向してはいるんです。自民党はたしかに強いんですが、野党の側がもう少し力を合わせて、一強他弱の状態を克服して、もっと緊張感のある政治をつくっていきたい。そして、時には政権交代も起こるという政治をふたたび実現したいと思っています。

インタビューに応じる野田佳彦氏
撮影=遠藤素子
ときには政権交代も起こる「緊張感のある政治」を実現させたいと意気込む野田氏。 - 撮影=遠藤素子

人前でまったくしゃべることのできない学生の頃、金権政治を変えようという精神で自民党を離党した若い議員たちによって結成された新自由クラブのボランティア活動を始めたことが私の志であり、原点なんです。

私、顔は自民党のようだとよくいわれるんですが、自民党に入ったことは一度もないんです。有力な仲間がずいぶんと自民党に行ってしまいました。居場所を失ってしまったからなのかもしれません。

しかし、私はあちらへは行きません。入らないと決めていますから。野党の中で保守的な、ライトの守備位置に立ちながら、時にはファウルフライであっても全力で捕りに行こうと常に準備しています。

自民党を支持する穏健な保守層もとりこんでいって、無党派層にも政権交代可能な勢力であると向き合ってもらえるようなチームをつくるために、それができるまでは、死んでも死にきれないという覚悟を持っていまもやっています。

もうひと踏ん張りしなければなりません。

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野田 佳彦(のだ・よしひこ)
元首相、衆議院議員
1957年千葉県船橋市生まれ。千葉県立船橋高校、早稲田大学政治経済学部卒業後、松下政経塾に第1期生として入塾。千葉県議2期を経て、93年に日本新党から立候補し衆議院議員初当選。96年の衆院選に新進党公認で立候補するも、次点の7万3687票で落選(票差105票、惜敗率99.9%)。2000年の衆院選に民主党公認で立候補し、当選(2期目)。以降8期連続当選。2010年、財務大臣、2011年、第95代内閣総理大臣に就任。父親は自衛官。非自民を貫き、政権交代可能な政治の実現を目指している。著書に『民主の敵 政権交代に大義あり』(新潮新書)、『松下幸之助と私』(共著、祥伝社新書)がある。

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(元首相、衆議院議員 野田 佳彦 聞き手・構成=ノンフィクション作家・樽谷哲也)

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