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残業はないのにメンタルがぐったり…誰もが憧れる「ホワイト企業」に入った人が抱える"つらさ"の正体

プレジデントオンライン / 2023年5月30日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/tuaindeed

仕事がハードではない職場に入ったのに、長続きせず辞めてしまう人がいる。文筆家の御田寺圭さんは「ゆるい職場では、時間の流れが緩慢に感じられてしまう。充実感や成長の実感を得られない職場で冗長な仕事をこなす時間は、健康な人間のメンタルには堪えるものだ」という――。

■「のんびり働ける職場」なのに長続きしない

仕事がゆるくて、のんびり働ける職場にせっかく入ったのに、長続きせずに辞める。

――そんな人が近年じわじわと増えているという。実際、そうしたニュースを目にすることも増えてきた。

「いやいや、なんでそんなもったいないことをするんだ」と疑問に思われるかもしれない。しかしながら、そういったいわゆる「ホワイト企業(ホワイト部署)」に入った人でなければ分からないつらさが存在しているのだ。

前職がとんでもないブラック企業で、身も心もボロボロに摩耗してしまった人からすれば、転職先にはその心身のダメージをゆったりと癒やせる、のんびりとした雰囲気の、さながら温泉宿のような「ゆるい職場」はいいかもしれない。しかしながら、そうした特別な事情がない常人はほどなくして「ゆるい職場」に耐えられなくなっていく。

「もうハードな仕事はこりごりだ」
「スケジュールに追われる日々はもうたくさんだ」

そんな気持ちを抱えている人にとっては、たしかに「ゆるい職場」は魅力的に見える。実際のところ「ゆるい職場」では、山積みの仕事を片付けるために残業だらけになったり、パンパンに膨れ上がったスケジュールで目を回したりすることもない。ゆっくりとしたペースで、心身に負担なく、穏やかに日々の業務をこなしていく、そんな環境が用意されている。

■「まだ始業から1時間しか経ってないのか……」

だが「ゆるい職場」はその“ゆるさ”ゆえに、時間の流れが緩慢になってしまう。

目まぐるしいスピード感も、業務のハードさもない。たしかにそれはまったりと心穏やかであるが、言い換えれば手持ち無沙汰で緊張感や張り合いのない時間が、体感的にとても遅く過ぎていくのをじっくり待たなければならないことも意味している。

とくにノルマも課せられていない、日々のルーチンワークをゆっくりとこなしている最中に時計をちらちら見るが、ほんの少ししか時間が進んでいない。「ええっ、まだ始業から1時間しか経ってないのか……」というじれったい気持ちを味わいながら勤務時間を送ることになる。

ブラック企業のように、険悪な人間関係のギスギス感はないが、しかし充実感も成長性も感じられない仕事場と業務内容で、のんびりとしたスケジュール感のもと、冗長な仕事をこなしていく時間は、健康な人間のメンタルにはなかなか堪えるものだ。

■「仕事の拘束時間」が長く感じられてしまう

そうした職場や部署に入社してすぐは「なんて楽な職場なんだ! 最高!」と心躍るかもしれない。だが、よほど労働に対してのモチベーションが低い無気力な人でもないかぎり、そう感じられるのはごく最初の期間だけだ。次第に状況は変わってくる。毎日の仕事に「ぎっしりと充満した感じ」「体や頭を精いっぱい駆使した疲労感と達成感」が欠如しているせいで、とにかく「仕事場にいなければならない拘束時間」として味わう時間が体感的に長く感じられてしまい、それが苦痛で苦痛で仕方なくなってくる。

ブラック企業ほどギスギスしていないが、チャレンジングでハードな仕事が次々と押し寄せる「ゆるさ」とは縁遠いタイプの職場、いわば「熱い職場」は、たしかに体力的にしんどいこともあるし、タフな状況に追われることもある。しかしながら、ほどよい張り合いや緊張感を持って身体をどんどん動かしていると、時間が過ぎるのはあっという間だ。

自分の力量では絶対に耐えられないくらいハイレベルな熱量を持つ職場に行くのはさすがに危険ではあるものの、自分からして「ここはちょっと熱いな」と感じるくらいのほどほどの熱量が保たれている職場を選んだ方が、「自分は仕事をさせられている」と感じさせられる主観的な時間は短くなるから、トータルで体感する「つらさ」は下回ることもよくある。

作業時間の概念
写真=iStock.com/coffeekai
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/coffeekai

■仕事で得るのは「安心感」や「金銭」だけではない

だれもが憧れているはずの、リラックスした雰囲気で、業務負荷も軽く、ノルマなんかもってのほかで、人間関係もほのぼのとしている「ゆるい職場」を辞めてしまうというのは、傍から見ればどう考えても道理に合わないし、とてももったいないように思える。いったいなぜそんな人がいるのか?

その理由は簡単で、私たちは仕事を通して「安心感」や「金銭」だけではなく「自分がここにいる理由」を欲しがるからだ。

ようするに、「なぜ自分がこの仕事をしているのか」「なぜこの仕事が存在しているのか」「自分がこの仕事をすることでだれに貢献できているのか」といった理由をこそ、私たちは仕事でぜひとも得たいと欲しているのだ。それはときに高い給与や充実した福利厚生よりもずっと重要で優先度の高い要素になる。

「金払いの良さ」はもちろんだが、近ごろ流行の「心理的安全性」もあるに越したことはない。あるに越したことはないのだが、しかしそれだけのために私たちは働いているわけではないし、働くモチベーションを得られるわけでもない。

■仕事を通して得られる「共同体感覚」

ウェブメディアでこのようなことを書くのはたいへんにウケが悪く「お前はブラック企業の手先か」「やりがい搾取を肯定するのか」と言われかねないことは百も承知だが、それでも述べたい。むしろそれよりも「自分が仕事を通じて貢献している実感や証拠」を得られるような職場環境である方が、喜びや満足感や生きがいを感じられると。

私たちが仕事を通して欲してやまない「この仕事をしていることで、自分が直接的にだれか/なにかの役に立っているという実感」とはつまり“共同体感覚”のことだ。

その仕事が存在している理由がはっきりしていて、それを自分が遂行することで仲間や顧客に対する明確な結果(貢献)がフィードバックされる――そういう状況におかれると、その人は「自分がここにいる理由」をつねに供給されることになる。「ここにいる理由」が絶えず供給されると、それはその人の自己肯定感や実存的な存在感の向上をもたらす。

それなりにタイトなスケジュールで、積みあがるタスクをこなす毎日を送ることは当然ながらしんどい。しかしそのしんどさについて「仲間や関係者や顧客のためにこそある」ということを確信できれば、閉塞(へいそく)感や苦痛は感じにくくなる。さらには「自分はここにいてもいいんだ」「自分の頑張りを待ってくれている人がいるんだ」という気持ちが湧いてくる。

チームワークの概念
写真=iStock.com/whyframestudio
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/whyframestudio

■ある程度チャレンジングな方が「心地よい疲労感」を得られる

ブラック企業のような相互不信的な人間関係では難しいが、ある程度に相互協調的で信頼感や安心感のある仲間と一緒にチャレンジングな仕事に取りかかれる職場は、労働負荷の点ではハードであるとしても、しかし「ゆるい職場」のように冗長で手持ち無沙汰な時間を味わわされることは少なく(どちらかといえば時間はあっという間に過ぎていく)、なおかつ生きがいや自己肯定感をセットにした「心地よい疲労感」を与えてくれるものになる。

「自分は仕事を通じてだれにも貢献できていないのではないか」「こんな仕事やってもやらなくても同じなのではないか」――という疑念がずっと消えない共同体感覚の欠如した職場環境は、たとえ絶対的な業務負荷量が軽く「ゆるい職場」だったとしても、しかし自分の内面にある自己有能感や自己肯定感をじわじわと蝕んでいく。暗くどんよりとした感情がまるで滓(おり)のように心の底にじわじわ堆積してくる。

■“凡人”には「背伸びするくらい」の職場がいい

とくに傑出したところもない、とりあえず体が健康であるくらいしか見るべきところがない凡人であると自負する人にこそ、なるべく「ゆるい職場」を避けてほしいと個人的には思っている。「ゆるい職場」は理想的に思えるかもしれない。それでもだ。

だからといって、自分の身の丈には合わない能力や負荷を求められるような職場に飛び込む必要はない。自分のコンディションやバイタリティをよく確認しながら、ほどよく「背伸び」をするくらいの仕事や職場を選んでほしい。

連続するはしごを見上げる人
写真=iStock.com/DNY59
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/DNY59

私たちはお金や安心感だけでなく、「働いている理由」ひいては「自分がここにいる理由」を求めて仕事をしている。「自分がここにいる理由」は、仕事を通じて他者貢献や共同体感覚を実感することで得られる。そう、私たちの心は結局いつだって「だれかのために生きたい」と願ってやまないのだ。私たちはその心の願いを叶えてあげなければ、生きることに喜びを得られないし、自己肯定感を得られない。

自分のプライベートの時間を持ちたいからとか、心身を疲労させてまで仕事をする理由なんてないからと、「ゆるい職場」を選びたくなる人がいるのはわかる。だが、そこで心が本当に欲している栄養を与えてあげられなければ、心はどんどん元気を失って萎びていき、やがては生きることにさえ苦痛を感じるようになる。私たちは平日の起きている時間の大部分を仕事して過ごす。この部分で大事な栄養を得られないと、他の時間でそれを十分に補うのは難しい。

■私たちの心は「だれかのために自分がここにいる」実感を求める

別にお金や安心感を犠牲にしろと言っているわけではない。当然ながら、私たちが社会生活を送るにはお金や安心感は大切だ。仕事をしてお金を稼いで生活費を稼がなければお話にならないし、長く働くなら温かくポジティブな人間関係も欠かせない。お金や安心感は私たちにとって大切な栄養であり生命線だ。

しかし私たちの心は、お金や安心感だけではなく「ここにいる理由」という栄養を欲している。

私たちがここで働く理由、与えられたこの仕事をやるべき理由、与えられた課題を頑張る理由――それこそが、私たちの心を強く生かすものだ。私たちの心は「だれかのために自分がここにいる」という実感を求めている。だれかと一緒に挑戦し、ときにだれかを支え、だれかに支えられ……そうした関係のなかで自分自身の存在感や存在理由を確認したいと願っているのだ。

極言すればお金はどんな職場のどんな仕事でも得られるが、私たちの心が求める栄養は「ゆるい職場」ではしばしば見つけられない。

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御田寺 圭(みたてら・けい)
文筆家・ラジオパーソナリティー
会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS(シノドス)」などに寄稿。「note」での連載をまとめた初の著作『矛盾社会序説』(イースト・プレス)を2018年11月に刊行。近著に『ただしさに殺されないために』(大和書房)。「白饅頭note」はこちら。

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(文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺 圭)

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