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10時10分の時計を描くテストで丸は書けたが針が描けず、今日の年月日が言えない76歳母親を見守る娘の心情

プレジデントオンライン / 2023年5月27日 11時16分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/BeholdingEye

70代母親の認知機能が日に日に衰え、「10時10分の絵を描けない」状態に衝撃を受ける50代娘は、自身のコロナ感染を機に、特養に入所させることを決断する。デイケア施設に通所したほうが認知症を遅らせることが正しい対処法とされているが、娘は「プロにお任せして、認知症の症状を無理に遅らせず、施設など安全な場所で自然に進行させてあげたい」という。その理由とは――。
【前編のあらすじ】関西地方在住の小窪百恵さん(仮名・50代・既婚)は怖い父親と言葉がきつい母親に育てられた。そのため自分の家庭が嫌いで、早く家を出たいと考えていた。高校を卒業後、結婚して2児をもうけ、病院や介護の現場で働いていた。ところが40代に入ると、実家の69歳の母親に認知症の兆候が見られるように。両親を心配した小窪さんは、通い介護を始めたが、母親の症状は悪化。実家で同居することを決意した――。

■子の気持ち親知らず

2019年11月、小窪百恵さん(仮名・50代・既婚)は76歳の母親を病院の物忘れ外来へ連れて行った。受診時に長谷川式認知症スケールを受けると、母親は、今日の年月日と曜日を答える質問は全滅。3つの言葉を言われて、後で答える質問は、覚えていたのはひとつだけ。5つの品物を見せて隠した後、何があったか答える問題も、言えたのはひとつだけ。知っている野菜の名前は、スイカとニンジンと大根とレンコンしか言えず、同じ野菜名を繰り返す。「時計描画テスト」では、「10時10分の時計を描いてください」と言われたが、丸を書いた後、針が描けない。

「ショックでした。母は絵が得意なので、時計の絵はまだ描けるかなと思っていましたが……。丸に数字を書き入れ、10時の針は描けたものの、10分のところに針を描くことがどうしてもできませんでした」

母親の認知症は中等度ぐらいという結果となった。

2020年1月。母親は要介護3になったのを機に、デイサービスを「ほぼ毎日利用」に変更。しかし、デイサービスが休みの日のこと。2階の部屋で休んでいると、下階から父親が声をかけてきた。

「おーい、買い物に行くかー?」

81歳になった父親は足腰が弱ってきており、飼っている犬と猫の餌や、仏壇に供える花、日用品や食料品など、いつも大量の買い物をするため、小窪さんが手伝わないわけにはいかない。母親は塗り絵に夢中になっていたため、一人で留守番をさせることにした。

小窪さんは、買い物のついでに母親の冬物のセーターをクリーニングに出した。先週10枚出して、今週も10枚出した。家でセーターを洗う元気と時間は、小窪さんにはなかった。母親に見つかると、もううまくできないのに「自分で洗える」とか、「お金がもったいない」と言い張るので、こっそり出して、こっそり片付なければならなかった。

■母親は、スパゲティに黒豆やブルーベリーを

デイケアやデイサービスの利用料の振り込みも、母親が金額を気にするので、母親に見つからないように、こっそり行った。

帰宅して買ってきたものをしまっていると、台所で母親はブルーベリーを見つけ、「ぶどう?」と言って首を傾げた。その後、小窪さんが昼食にスパゲティを作ると、母親は、「『黒豆』入れたらどうなるかしら?」と独り言のようにつぶやきながら、ブルーベリーを入れようとしていた。

丹波黒大豆
写真=iStock.com/gyro
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gyro

食後の後片付けがおわり、「さぁ、ゆっくりしよう」と座ったところで、母親が何度も何度も階段を上がったり下りたりし始める。小窪さんは心がザワザワしてきて、気が休まらない。

すると今度は母親が、冷蔵庫からいろいろな物を出し、皿にのせて並べ始めた。3人では食べきれない量の漬物や佃煮の封を切ってしまい、ジッパーの袋で作ったきゅうりと昆布の浅漬けは、袋から液が流れ出ている。

それを見た途端、小窪さんは声を荒げていた。「もー! 嫌なことばっかりする! うっとうしい!」

母親は、「私が何したの? 食べればいいじゃない!」と怒り出す。「めっちゃウザイ! もう、あっち行って!」

しばらく言い争いのようになり、母親は自分の部屋に入ると、雨戸まで閉めてしまった。

それから数時間後、夕食の準備が整った頃、母親は何もなかったように食卓に座っていた。すると父親が母親に、「怒られとったなあ〜、怖かったなぁ~」と冗談めかして言う。小窪さんはせっかく忘れかけたイライラを今度は父親に感じる。

夕食の後、母親に「お父さんは後でするから、先にシャワーしてね」とシャワーへ誘導すると、母親は素直に従った。しかし浴室に入ったきりなかなか出てこない。やっと出てきた母親は、「お湯が入ってないお風呂に入らされたわ! お湯入れといたわよ!」と怒っている。

小窪さんが「は? シャワーだって言ったやん」と言うと、「そんなん、聞いてないわよ!」と憤る。

そこへ父親がまた、「え? お湯の入ってないお風呂に入らされたん? かわいそうに〜」と小バカにしたように口を挟んでくる。

「とても嫌な気分になりました。なんで私がこんな目に遭わないといけないのでしょう? 両親のためを思って仕事を辞め、夫を置いて同居をしているのに。『自宅に帰って元の暮らしに戻りたい』と何度思ったかしれません……」

子の心、親知らずだ。小窪さんは台所を片付けながら、人知れず涙を流し、2階の部屋に入ると、イヤホンで好きな音楽を大きめの音で聴いた。

■コロナにW感染

2020年12月。母親が通うデイサービスでコロナ感染者が出たため、母親もPCR検査をしたところ、陽性と判明。デイサービスはしばらく休みになった。

コロナ陽性の母親は、認知症のため、何度説明しても忘れてしまい、マスクをし続けることができず、家の中をマスク無しで自由に歩き回る。小窪さんは高齢の父親を守るため、気を張り詰めていた。

保健所に相談すると、母親の入院先を探してくれることにはなったが、認知症を理由に、一向に受け入れ先は見つからない。「症状が急変したら、『陽性』と伝えて救急車を呼んでください」と言われたまま放置され、小窪さんのストレスはMAXに達しようとしていた。

ソーシャルディスタンスを保ちながら、列に並ぶ人々
写真=iStock.com/recep-bg
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/recep-bg

母親のコロナ感染から約1週間後、小窪さんは頭痛と肩こりに悩まされていた。保健所ののらりくらりとした対応にも疲れ切っていた。

2021年1月。ついに恐れていた事態になる。小窪さんがコロナに感染したのだ。発熱と味覚障害があり、保健所に連絡すると、数日前に受けたPCR検査が陰性だったことから、「救急車は呼ばずに、再度検査を受けるしかない」と言われた。

あまりの対応に愕然とした小窪さんだったが、すぐさま母親の主治医に相談すると、「救急車を呼びなさい」と勧められたため、両親が就寝したのを見届けると、夫と妹に連絡し、自分で救急車を呼んだ。

救急病院に着くと、貧血を起こした時のように風景がチカチカと白黒になり、めまいに襲われる。看護師と医師が、「一瞬、意識喪失で、目が上転していました」「グロッキーな状態です」と話している声をぼんやり聞いた。小窪さんは肺炎を起こしていた。

小窪さんが入院した後の実家の両親のケアは、妹に頼むしかなかった。コロナのせいでしばらく会っていなかった妹を、母親はもう自分の娘だと分からなくなっていた。

12日後、小窪さんは退院できたが、味覚や嗅覚、体力は回復しきらず、実家ではなく自宅へ戻り、約半年間の自宅療養を余儀なくされることになる。

2月。小窪さんは自宅でコロナ感染後の後遺症に悩まされ続けていた。実家の両親を妹に任せているとはいえ、妹には持病があるため無理はさせられない。そのため母親の特養入所を検討し始めた。

希望施設は、2年前に母親の姉も入所した特養。実は、そこなら小窪さんの自宅から自転車でも行くことができる。小窪さんは、父親や妹と相談し、母親にもわかるように説明。特養を申し込んだ。

そして3月。母親の特養入所が決定した。

「みなさん、『特養は介護度の重い人が入る所で、待機人数が多いから無理』と思っているようですが、実際は少し違っています。確かに入所条件は要介護3以上となっていますが、申し込み順ではなく、本当に困っている人からの優先となっています。身体は元気でも、徘徊(はいかい)して家族が目を離せない、家族の介護疲労が強く共倒れや虐待の危険がある、など自宅での生活が困難で、急いでいる人から『判定会議』にかけられます。

また、現在特養はとても増えています。新しい特養はオープン時に一定の入所者を確保するため、入所しやすいのです。その代わり、職員に新人さんが多いので、介護力は入所してみないと不明ですが……。こうしたことを、私はケアマネとして働いていたため知っていたことや、近所の特養のオープン時に伯母(母の姉)が入所し、施設との関係を築いていたことで、コロナ感染・入院・療養で私が母の介護を行えなくなった時に、同施設で判定会議にかけてもらうことができたのだと思っています」

母親の認知症の進行具合からはグループホームの方が合っているかもしれないが、母親は認知症の初期の頃に父親の退職金などを使い果たしてしまったため、金銭的な理由もあった。しかし、小窪さんが特養入所を希望したのは、もうひとつ理由があった。

「ケアマネやヘルパーを経験した介護の専門職として、『もう、ゆっくり穏やかに過ごしてほしい』という気持ちがあったからです。特養では自宅として生活するため、デイサービスのように、運動やレクリエーションは特にしません。運動やレクリエーションをしなければ、認知症も進行し、身体状態も低下していくでしょうけれど、私は『もうそれでいいよ』と思っているのです」

■「認知症の進行を遅らせる」のは良いことか

小窪さんの祖母(母親の母親)も65歳ごろ、認知症になった。

「その頃認知症は、『呆け』や『痴呆症』と言われていました。当時はまだ『介護保険』や『デイサービス』などもなく、認知症はみるみる進行して、病院に入院しました。今思えば、周りの対応の仕方など、知られていないことが多く、かわいそうなこともたくさんありました。ですが、認知症の状態で長期間過ごすことなく、身体と頭(脳)の状態が同じペースで進行して、病院で最期を迎えることができました。

しかし今は介護保険があり、認知症の進行予防の仕組みや薬ができ、認知症の人も病院ではなく、住み慣れた場所で安心して長く生活できるように……ということが当たり前になっています」

ヘルパーの手を握るシニア女性
写真=iStock.com/FG Trade
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/FG Trade

小窪さんはヘルパーやケアマネジャーの仕事をしてきたうえで母親の介護をし、その中で、認知症の人が認知症の進行を遅らせることが「果たして幸せなのか?」と疑問を持つようになったという。

「母の認知症の進行予防も当たり前のように支援してきました。早い時期からデイケアやデイサービスの利用を進め、たくさんの方のおかげで母は、服薬なしの状態を維持することができたと思います。もしも何もせず家にいて、失敗を父に指摘される生活を続けていれば、認知症はもっと早く進行していたでしょう……。

でも、だんだん身体と頭(脳)の進行のペースが合わなくなってきました。短期記憶ができなくなり、『間違えないように』『失敗しないように』と毎日必死です。家族のことさえわからなくなってきています。もうすぐ排泄の失敗が始まるでしょう。それは仕方のないことですが、父に失敗を指摘されたり、父に後始末をさせたりすることは、プライドの高い母にとってとてもつらいことだと思います。変な言い方かもしれませんが、その前にプロにお任せして、認知症の症状を無理に遅らせず、安全な場所で、普通に進行させてあげたいと思うのです」

現状、認知症は早期発見し、薬や運動などで進行を遅らせることが“正しいこと”とされているが、ヘルパーやケアマネジャー、訪問看護師などの中には、こうした考え方の人が少なからずいるという。

「母の認知症の症状に気づいた後、1年間ほど、アルツハイマー型認知症の進行を抑制する薬を使用しましたが、怒りっぽくなる副作用が出て、使用をやめました。以降、全く薬なしでデイケアやデイサービスで他者交流や体操などを続けているだけですが、ケアマネ目線で見て、母は長持ちしているほうだと思います。現在、『認知症の進行を遅らせる』ことは『良いこと』という前提になっていますが、もし、自分だったら、認知症時期が長くなるのは嫌ですし、つらいと思うのです」

医療職でも福祉職でもない筆者は、「認知症になったことがない人には、認知症になった人の気持ちはわからない」と思うが、多くの認知症患者を見てきた小窪さんだからこそそう思えるのかもしれない。

「近年、治療や延命について選択できるようになってきましたが、認知症になったときも、進行を遅らせるのか、遅らせずにつらい期間を短く、家族に負担をかけずに寿命を迎えられるようにしたいのか、早い段階で本人の意思で選択ができるようになったらいいなと思います」

確かに、本人が選択できるに越したことはない。筆者は「認知症の進行をあえて遅らせない」という視点はなかったため、目からウロコだった。ただ、治療や延命についての選択同様、丁寧で詳細な説明が必要となることは間違いないだろう。

■母親の特養入所

2021年3月。78歳になった母親は事前に入所が決まっていた特養に入居した。83歳の父親は前日から大きなため息ばかりで、「見送るのは、涙が出そうになって嫌やから、ワシは先に釣りに行くで」と言って釣りに出かけた。

小窪さんは、母親をだまして連れてきたような形になるのが心苦しかったため、道すがら、認知症が進んでいることや、母親の姉も入所している施設へ行くことを説明。

電車を1時間半ほど乗り継いで特養に到着すると、すぐにケアマネジャーや職員が出迎えてくれた。母親は廊下で会った初対面の入居者と、「まぁ、久しぶり~!」と言ってお互いにハイタッチ。自分の部屋に入ると、あらかじめ小窪さんが用意しておいた自分の服があるのを見て、「まぁ! 私、忘れて帰ったのね。恥ずかしいわぁ~」と言っていた。

小窪さんは、「夕方になったら、『帰る』って、言い出すと思いますけど、よろしくお願いします」と言って、自宅に帰った。実家の父親のフォローは、妹に頼んでいた。

コロナ禍に特養に入所した母親とは、その後なかなか面会ができなかった。2021年12月にかろうじて透明のビニールカーテン越しに会ったが、以降、全く会えていない。2022年1月ごろに施設内感染が起きたため、面会が中止になったのだ。

第6波が落ち着いてきた7月ごろ、施設からタブレットでの面会のお知らせが来た。小窪さんは以前、サービス付高齢者住宅でケアマネをしていた時に、窓越しやタブレットでの面会が行われていたが、耳の遠い人や認知症のある人は、うまく会話ができなかったり、理解できずに混乱してしまったりすることもあり、職員として大変だった記憶があり、躊躇した。

タブレット端末を使用する女性の手元
写真=iStock.com/kaorinne
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kaorinne

「毎日同じ人に囲まれて、同じペースで過ごすことで、安心して過ごしている『認知症』の母に、私が“会いたい”という思いだけで、面会という“いつもと違うこと”を起こして母を不安にさせ、混乱させてしまうのは心が痛みます。また、私が帰った後に、混乱して不穏な状態の母を、なだめたり落ち着かせたりする職員さんの負担も申し訳なく感じてしまうのです」

しかし、もう半年以上面会していないことや、また感染の波がきていることなどから、小窪さんは面会しようと思い立った。

タブレット面会は、LINEのビデオ通話が利用されていた。小窪さんは特養の1階にある相談室。母親は4階の自分の部屋にいる。母親は付き添いの職員が横にいるようで、横を向いて困った様子で座っていた。

「お母さん、私のことわかる~? 元気にしてる?」

小窪さんが話しかけると、母親は慌てた様子。職員に、「娘さんですよ。娘さんがここに映ってますよ」と言われると、「えっ? 知りません。私、わかりません。違います」と言い、不穏な時に見せる、目が三角になったような、ひきつったような表情をして、何を言っても、「わかりません」と言って職員に助けを求めている。

少しの間マスクを外してみたが、やはり面会ができなかった約半年の間に、母親の記憶から小窪さんは消え去っていた。

「お母さん、お父さんは覚えてる? ○○さんだよ」
「それは知っています。でも、私も忙しいので、あまり会っていません」

小窪さんを他人だと思っているため、母親は敬語を使い続ける。父親の名前は覚えているようだが、母親の中にあるのは、若い頃の父親かもしれない。

母親は、娘や孫のことはわからなくなってしまったが、自分の姉妹のことは覚えているようだった。タブレット面会終了後、帰途に就くと、小窪さんの頬には涙が流れていた。

■再びの別居と同居

同じ年の8月、コロナの後遺症からだいぶ回復した小窪さんは、自宅近くで訪問調査員の仕事を開始し、翌年から84歳の父親の通い介護をスタート。

しかし、母親が特養に入所して以降、2年弱ひとり暮らしを続けた父親の孤独感が強く、精神的に不安定になってきたため、小窪さんは夫や妹、父親や職場の人たちと相談し、12月に訪問調査員の仕事を退職。2023年4月から再び実家に移り住み、父親と2人暮らしをすることに決めた。

特養に入所した母親が認知症初期の頃は、小窪さんが自宅に帰る時に毎回、手紙とお金が渡され、「いつも遠いところからありがとう」と書かれていた。その手紙も、だんだん母親は置いた場所を忘れたり、用意したことを忘れて、家の中で小窪さん自身が見つけたり、受け取ったのに、またもう1通が私のカバンに入れてあったりするようになった。

父親は口に出して感謝を伝えることはあまりないが、時々、「ありがとうな」と言うことはあり、小窪さんには、父親が心の中で、自分や夫に感謝してくれていることが伝わっているという。

「時代の流れ的には、『介護離職はなるべくしない、させない』が主流となっていて、ケアマネは介護家族が介護離職をしなくてもいいように支援していく立場でした。自分が時代や立場と逆の行動をとることに、ためらいも大きかったし、約2年間父母と同居し、イライラさせられることもありました。私のコロナ感染がなければ、今も続いていたかもしれません。けれど、この2年間があったから、母の特養入所に対して後悔は全くありませんでした。この2年間がなければ、『もっとこうしてあげれば良かった……』と悔やんでいたと思います」

子どもの頃に自分の家庭が嫌いで、「早く家を出たかった」と言う小窪さんだが、それでもここまで両親に献身的になれることに脱帽する。数十年の時を経て、両親に世話が必要になり、子どもだった小窪さんが親のようになった今、家族をやり直すことができたことは、双方のために良かったことかもしれない。

「この経験をしたことで、私は介護離職が一概には悪いこととは言えないと感じています。今、自分にできることをすることで、その後、悔やむことなく前に進むことができるのではないかと実感しています。家族や生活、金銭的な事情はみんなそれぞれ違いますが、それぞれが“その時にできること”に精いっぱい取り組むことが大切だと思いました」

介護は施設に入れて終わりではない。母親とはなかなか会えないが、月に1度は必要なものを届けに通っている。父親との同居も始まったばかりだ。

現状、時々妹のサポートがあるとはいえ、介護のキーパーソンである小窪さんが一人であまりにも多くのものを背負い込みすぎているようにも見える。釈迦(しゃか)に説法かもしれないが、頼れるものは頼り、養生に努めてほしい。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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