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タレント・小島瑠璃子と遣唐使・阿倍仲麻呂は「同じ構図」?…関大教授に『唐』(中公新書)のウラ話を聞いた

プレジデントオンライン / 2023年6月3日 12時15分

1979年に友好都市記念として西安の興慶宮公園に建立された阿倍仲麻呂記念碑(写真=Indiana jo/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

遣唐使を通じて、日本にも多大な影響を与えた中国の王朝・唐(618~907年)。その実態は最新の研究によって、次々と更新されつつある。どんなことがわかってきたのか。新著『唐 東ユーラシアの大帝国』(中公新書)を書いた関西大学文学部の森部豊教授に、中国ルポライターの安田峰俊さんが聞いた――。

■多民族によって作り上げられていった中国の歴史

――現代の日本人や中国人は、唐について「中国そのもの」というイメージを持つ人も多いはずです。しかし、皇族の李氏は遊牧民の鮮卑系のルーツを持ち、王朝の歴史の節目節目には、ソグドや突厥(とっけつ)、ウイグル・チベットなどの非漢民族との関わり合いが顔を出します。本書の大きなテーマも、唐王朝と異民族との接触を描く部分に置かれていると感じました。

そうですね。三国志の次の時代、つまり魏晋南北朝時代から隋唐を通じた中国の歴史は、ずっと遊牧民が活躍する時代だったのです。その最終的な到達点が、モンゴル帝国ですね。本書についても、唐の時代についても、草原の世界と農耕の世界が接触して衝突し合いながら新しい世界を作り出していった時代だったという意識で書いています。

――近年の中国共産党のスローガンは「中華民族の偉大なる復興」ですが、ここでいう中華民族は、実質的には「漢族」(および漢族化した少数民族)とほぼイコールです。しかし、実際の中国史は多民族の関わり合いの歴史でした。こうした歴史を語ることは、現在の中国当局の主張を揺るがす“毒”を持つともいえます。現代中国の歴史研究者たちは、過去の王朝と各民族の関係についてどう扱っていますか?

比較的古い時代についての、史料に基づく実証的な研究は中国でもおこなわれています。改革開放政策以降、中国では往年の墓誌(被葬者の事績を記した石碑)が多く発見されている。なかにはソグド人や、高句麗・百済・新羅の出身者で唐王朝に仕えた人たちの墓誌もあり、これらの研究はなされていますね。ただ、近い時代の話になるほど「敏感」な話題も増えますから、語りにくくなる傾向はあるのかもしれません。

■ゆるキャラのモデル・井真成は大人物だったか

――墓誌といえば、2004年に「井真成(せいしんせい)」という名前の、唐に渡っていた日本人とみられる墓誌が中国国内で発見され、大きな話題になりました。なぜか彼のゆかりの地とされた大阪府藤井寺市では「まなりくん」という“ゆるキャラ”まで作られ、現在も活動中です。史実の井真成はどのような人物だったのでしょうか。

ただの留学者だったと思われます。当時の遣唐使は、遣唐大使や副使らの外交官たちのほかに、多くの留学者が含まれていた。こうした留学者には比較的短期間で日本に帰国する人と、次の遣唐使がやってくる20年後まで唐に滞在し続けなくてはならない人がいました。

唐に向けて航行する遣唐使船(写真=PHGCOM/貨幣博物館蔵/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)
唐に向けて航行する遣唐使船(写真=PHGCOM/貨幣博物館蔵/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

井真成はおそらく、この20年滞在組です。ちょうど、次の遣唐使がやってきて交代だ、大願成就だというときに、亡くなってしまったらしい。しかも、阿倍仲麻呂のように唐王朝の官職が与えられることもなく、無位無官で死んでしまった。そこで唐王朝が哀れんで、死後に官職を与えて墓誌を作った……と、考えることができます。

――井真成の墓誌には「天才的な才能を持っていたが亡くなった」といった記述も見られます。かなり期待を集めていた有能な人物だったということですか。

そこは難しいところです。彼の墓誌はおそらく、当時の日本側の関係者がお金を払って作ってもらったもの。一般には、墓誌の文面にはフォーマットがあって、文章は最初からほぼ出来上がっている。そこに死者の名前、生まれた場所や亡くなった場所、亡くなった年を入れて完成する。なので、墓誌の表現から井真成の人となりを判断するのは難しいところもあります。日本側では注目されている人物なので、実情を話すと夢を壊してしまいそうですが……。

■阿倍仲麻呂は「科挙に合格した天才」だったのか

――もうひとりの有名な遣唐使としては、阿倍仲麻呂はいかがでしょうか。科挙に合格したとされ、唐王朝のなかで高官になっています。

阿倍仲麻呂の科挙合格は疑問が大きいところです。唐に渡る前、日本でそこまで高度な儒学の勉強ができる環境があったのか。渡唐後に比較的短期間で儒教の経典をすべて諳(そら)んじられるようになり、中国本土の人間と同じ試験を受けて合格できるものか。首をかしげるところはあります。

ちなみに、朝鮮半島の新羅の人たちも科挙に参加しているのですが、唐の後半まで合格者は出ていない。日本と比べると新羅のほうが、大陸とは陸続きであり儒教の経典も取り込みやすかったはずですが、その新羅人ですら科挙は高い壁だったのですね。

――とすると、阿倍仲麻呂は中国人向けの科挙にあっさりパスできるほどの大天才だったか、もしくは。

■阿倍仲麻呂と小島瑠璃子の共通点

外国人用の試験が別途に存在して、それに合格したか……。でしょうね。この外国人用試験はまだ存在が確認されていませんが、九州大学名誉教授の川本芳昭先生の説です。私も妥当な仮説であると考えています。

――最近、タレントの小島瑠璃子さんの中国留学計画が報じられ、芸能マスコミでは「名門大学で学ぶらしい」と騒がれていました。しかし、実は外国人留学生向けの語学コースは、世界大学ランキングで東大を上回る名門校の北京大学や清華大学でも、学費を払えば誰でも簡単に入れるのですよね。唐の阿倍仲麻呂の時代から、こういう外国人専門コースみたいなものもあったかもしれませんね。

語学コースみたいなものはあったかもしれません。もしくは家庭教師がいたか。空海といっしょに渡唐した橘逸勢(たちばなのはやなり)は中国語が苦手でマスターできずに帰国、いっぽう空海は相当なレベルまで習得したとされます。阿倍仲麻呂も当初はそうやって語学を学んだのでしょう。その後、唐王朝に登用されるにあたっては、やはり唐人とは異なる外国人枠のキャリアパスがあったのではないでしょうか。

■なぜ玄奘はまっすぐインドに向かわなかったのか

――本書『唐』を読んでいて興味深かったのが、『西遊記』の三蔵法師のモデルでもある玄奘(げんじょう)の旅の性質についてです。玄奘が経典を求めておこなった旅で得た中央アジアの情報が、彼の帰国後に太宗・李世民によってスパイ的に利用されたのではないかと指摘されています。

玄奘三蔵像(写真=ColBase/東京国立博物館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
玄奘三蔵像(写真=ColBase/東京国立博物館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

京都大学人文科学研究所名誉教授の桑山正進先生の説です。実はあまり広くは知られていない説なのですが、私は妥当な見立てだと考えています。当時、唐の強力な外敵だった東突厥は弱体化していた。第2代皇帝の太宗・李世民から見て、次に勢力を伸ばすべき対象は東の朝鮮半島の高句麗と、西の中央アジア方面に割拠していた西突厥です。来るべき征服事業のために、現地の地理的情報は喉から手が出るほど欲しかったでしょう。

玄奘は長安からまっすぐインドには向かわず、天山山脈を北側に越えてパミール高原の外周をぐるっと回るという、不可解なほど遠回りな旅路を選んで中央アジアを旅しています。いっぽうで当時の中国王朝にとって、この地域の体系的な情報はほとんどなかった。漢の時代の匈奴征伐はすでに大昔の話でしたから。

■『大唐西域記』には書かれなかった“重要情報”

――玄奘は当時の中国で最高レベルの知識人です。地域の事情を網羅的かつ分析的にとらえて、しかもそれを言語化して文章に残す能力を持つ稀有な人材だったはず。隊商がもたらす断片的な情報とは桁違いの情報を持ち帰ることができたでしょう。

傍証的な事実もあります。玄奘は旅のなかで西突厥の可汗(カガン、君主)の保護を受けたのですが、このことはなぜか『大唐西域記』には書かれず、彼の伝記にだけ残っている。その理由としては、唐王朝が『大唐西域記』を公布した際に、重要情報の記述を故意に削除して表に出したためではないか。

いっぽうで西突厥のことが書かれていた伝記は、そのまま玄奘の墓に一緒に埋められました。後年、西突厥の滅亡後にそれが掘り出された際に、すでに機密情報扱いは解除ということで、西突厥の記述が修正されたうえで刊行されたのではないか。そうした推理も可能なわけです。

――玄奘が最初からスパイ目的で行動していたかはともかく、彼の情報に諜報(ちょうほう)的価値があったことで、唐王朝から重宝された可能性はありますよね。現在の中国で拘束されている日本人も、似たような事情を抱えている人がいそうですし……。

玄奘が好きな人たちからは叱られそうな説です。ただ、私はありうる話だと感じますね。

■死後も尊敬され続けた安禄山

――唐王朝の歴史を大きく変えたのが、755年から起きた安史の乱です。反乱の中心となった安禄山と史思明は、いずれも中央アジアの交易で知られるソグド人の血筋だったとされます。ただ、彼らは王朝から見れば反乱者ですが、根拠地の幽州(現在の北京付近)では、その後も住民の尊敬を集めていたといいます。

安禄山像(写真=PD-Art(PD-Japan)/Wikimedia Commons)
安禄山像(写真=PD-Art(PD-Japan)/Wikimedia Commons)

唐の憲宗が崩御(820年)した後、中央から幽州に送り込まれた節度使が「反逆者はけしからん」ということで安禄山の墓を暴いて柩(ひつぎ)を壊したところ、地元から猛反発を受けています。当時はすでに安史の乱から3世代くらい時代が下っていましたが、安禄山は地域の英雄としてまだ敬意を持たれていた。当時の幽州は、ソグドや突厥などにルーツを持つ住民も多い地域でしたからね。

――こうした安禄山信仰は、さすがに現在の北京には残っていませんか?

ええ。幽州の周辺地域は、唐の滅亡後の五代十国期に契丹から占領される(燕雲十六州)。その際に多くの住民が契丹領内に連れて行かれているんです。現在でいう内モンゴルや遼寧省のあたりで農耕技術を教えたり、契丹の朝廷に中華式の儀礼を伝えたり。かわりに幽州には、契丹人やその他の民族が入り込みました。住民が入れ替わったことで、現地の安禄山の記憶も薄れてしまったと思われます。

――契丹はこの燕雲十六州に副都の「南京(燕京)」を置き、次の金や大元ウルスはこの街を都にします。現在の北京の直接のルーツです。北京は現代中国の首都なのですが、過去1000年間の歴史を見ると、実は漢民族とは異なる民族に支配されていた時期のほうが長いのですよね。中国の象徴のように思われている街なのに、実は非中国的要素が強い。

■なぜ北京は中国の辺境にあるのか

図表1のように、中国を5つの四角形で図式化すると、北京はちょうど中国本土と満洲とモンゴルの3世界が交わる場所にあるんです。中国本土から見て辺境と言っていい。私の師でもある妹尾達彦先生(中央大学教授)の見方ですと、中国本土だけではなく外の空間の支配も目指すような大帝国は、こうした境界地域に都を置く。

【図表1】北京と周辺諸国との地理的な関係性
図表=安田峰俊

確かに唐の長安も、中国本土のなかではかなり西北に寄った場所で、地理的には中華世界の中心ではありません。ただ、モンゴルや西域に目配りをするなら、それらの地域との境界上にあるといえる。逆に外の世界への関心が薄くて中国本土だけに関心を持っている王朝の場合は、洛陽なり開封なり、また南京なりという、中国本土のより奥まった場所に都を置くわけです。

――王朝の都が置かれる場所によって、大まかに対外的な積極性を判断できるのはすごく面白いですね。非拡大的な性質を持つのは、たとえば後漢(洛陽)、北宋(開封)、初期の明朝(南京)、中華民国(南京)あたりでしょうかね。

宮崎市定先生(1901~1995、京都大学名誉教授)も同じことをおっしゃっていました。たとえば明朝の場合、初代の洪武帝は南京に都を置いた。ただ、永楽帝が政権を簒奪(さんだつ)すると北京に遷都した。これは自分の甥(おい)の建文帝を殺害した南京に住むのが嫌だったからだと説明されるときもありますが、宮崎先生に言わせればそうではないと。

■対外的な意識の強さが都の位置に表れている

永楽帝はモンゴル高原への外征を繰り返していたことからもわかるように、モンゴル帝国の後継者を自認していた。大元ウルスを明朝という名前で復活させようという野望があったのです。当然、中国だけではなく満洲やモンゴルも支配の対象ですから、そのために北京に都を移したのだと。もっとも明朝の場合、その後の皇帝たちが弱くて、対外拡張的な傾向はほぼ永楽帝の一代限りになってしまいましたが。非常に面白い仮説です。

――そういえば現代の中華人民共和国は、北京に首都があります。領域の面では清朝を継承していますし、往年のソ連との関係なり現代の一帯一路政策なり、やはり外に目を向けるうえで首都を北京に置く必然性があるといえるのかもしれませんね。

■北京は歴代王朝と中国共産党を結ぶ「舞台装置」

地理的に中国本土と満洲、モンゴルとの交界地に置いた点については、そう言えるかもしれません。ただ、現在の中華人民共和国については、そのほかの理由もありそうです。

北京には、明清以来の皇帝(すなわち天子)が住んだ宮殿をはじめ、さまざまな歴史的建築物が残っています。それらは専制王朝の伝統的統治理念を具現化したものなのですが、中国共産党はその統治理念を継承するための舞台装置として北京を選んだ可能性もあります。

森部豊『唐 東ユーラシアの大帝国』(中公新書)
森部豊『唐 東ユーラシアの大帝国』(中公新書)

――なるほど。ならば、中華人民共和国の統治理念は、北京においてどのように表現されているのでしょうか。

まず紫禁城には、かつて皇帝が住んだ乾清宮、その真南の政治を行う太和殿、さらに南に故宮正門の午門、そしてその南には皇城の正門である天安門がある。これらは南北の一直線、すなわち中華世界の中心軸線上に配置されています。

いまの中華人共和国は、天安門の南側に広大な広場を建設し、この中心軸線上に国旗掲揚塔、アヘン戦争以来の建国に至るまでの犠牲者をたたえる人民英雄紀念碑、そして極め付きは永久保存された毛沢東主席の遺体を安置する毛沢東主席紀念堂を建設し、新しい「人民共和国」の軸線を創造しています。国家統治の理念的建造物が、伝統的な軸線上につくられているのです。

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森部 豊(もりべ・ゆたか)
関西大学文学部 教授
1967年、愛知県生まれ。専門は、唐・五代史、東ユーラシア史。筑波大学大学院歴史・人類学研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。筑波大学文部科学技官、関西大学文学部助教授・准教授を経て、現職。著書に『ソグド人の東方活動と東ユーラシア世界の歴史的展開』(関西大学出版部、2010年)、『安禄山 「安史の乱」を起こしたソグド人』(山川出版社、2013年)、『唐 東ユーラシアの大帝国』(中公新書、2023年)、編著に『アジアにおける文化システムの展開と交流』(関西大学出版部、2012年、共編)、『ソグド人と東ユーラシアの文化交渉』(勉誠出版、2014年)、『文書・出土・石刻史料が語るユーラシアの歴史と文化』(関西大学東西学術研究所、2023年)がある。

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安田 峰俊(やすだ・みねとし)
ルポライター、立命館大学人文科学研究所客員協力研究員
1982年生まれ、滋賀県出身。広島大学大学院文学研究科博士前期課程修了。著書『八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』が第5回城山三郎賞と第50回大宅壮一ノンフィクション賞、『「低度」外国人材』(KADOKAWA)が第5回及川眠子賞をそれぞれ受賞。他の著作に『現代中国の秘密結社 マフィア、政党、カルトの興亡史』(中公新書ラクレ)、『八九六四 完全版』(角川新書)、『みんなのユニバーサル文章術』(星海社新書)など。

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(関西大学文学部 教授 森部 豊、ルポライター、立命館大学人文科学研究所客員協力研究員 安田 峰俊)

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