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最後まで読むのは時間のムダでしかない…『源氏物語』を「国民必読の文学」と崇める人への大作家の大反論

プレジデントオンライン / 2023年6月11日 10時15分

源氏物語絵巻鈴虫巻。益田男爵蔵。『定本源氏物語新解』中巻口絵より。(写真=『定本源氏物語新解』中巻口絵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

『源氏物語』とはどのような文学作品なのか。作家の中村真一郎さんは「女性解放の教科書や貴族社会への弾劾文などと評価する専門家がいるが、そうではない。当時の貴族を愉しませることを目的とした作品で、深い意味を見出すのは間違っている」という――。

※本稿は、中村真一郎『源氏物語の世界』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

■『源氏物語』にはろくなことは書かれていない

現代の我が国の文明は非常に余裕に乏しいから、文学なども贅沢な熟したものは一般には喜ばれない。現代で流行するものは、まず平易で誰にも理解できなくてはいけない。それから、庶民的でなくてはいけない。さらには国民的全人民的でなくてはいけない。人生はいかに生くべきかという、宗教的哲学的実用的な要請に答える思想が判りやすく表現されていなくてはいけない。

そうして『源氏物語』には、以上のような大事な要素が、まるでないのだということを、誰か通読したことのある人間が、一度断わっておくのが親切かと思うので、私がこの文章を書くことにした。

私のこの意見は信用した方がいい。信用しないで、『源氏』を代表的な国民文学であるはずだとか、人生いかに生くべきかということが書いてあるはずだ、などと思いこんで、読んで損をする人があっては、何しろ、あれだけの大部のものだから、まことにお気の毒だと言うより外はない。

とにかく初めから終りまで、道徳的に見たら碌なことは書いてない。少年少女諸君、あるいはそれと同程度の知能の大人諸君がこの本を読んで、その真似をすることになったら、そして、『源氏物語』に書いてあることに刺戟を受けて悪いことをいたしましたなどと、警察で白状したら、第二のチャタレイ裁判事件を惹き起す可能性なしとしない。

■専門家は読まない劣等感を刺激するな

『源氏』の文章が、伊藤整氏の訳文のようには平易明快でなかったことが、辛うじてこの作品を取締りの対象となることから免がれさせてくれていたのだと思うと、紫式部の複雑難解な文章を、ほとんど賞讃したくなる。

戦争中には、谷崎氏の現代訳が出たばかりに、『源氏』は皇室に対する不敬だとか、国民精神にとって有害だとかいう議論を唱える、元気のいい人たちが現われたし、その人たちも今だって、そう信じて、ただ黙っているだけだろうし、それに、これからの若い人でも、時代の空気が変ってくれば、たちまちそういう議論をまたはじめる気になる者もあるに違いない。

だから、専門家も『源氏』を国民必読の教養書だとか、理想主義的な文学だとか、あまり文学の判らない人たちに、読まないことの劣等感を刺戟するようなことを言って、あおり立てない方がいいと思う。

■当時の貴族を楽しませるためだけの物語でしかない

『源氏物語』は、古代王朝のデカダンスの時代の、ひとりの宮廷女性が、鋭い観察眼と豊かな想像力とを働かせて書いた物語で、当時の京都に住んでいた、ほんのひとつまみほどの貴族を愉しませることを目的とした作品なのだ。小説が時代の鏡だとすれば、『源氏』は腐敗した摂関政治の時代の、腐敗した貴族社会の空気を恐ろしいほど生きいきと伝えている。

だから、文学に通俗的な身の上相談を求めているような、幼稚な読者、常に進歩的な思想の表現であることを要求する、健全な読者は、はじめからこんなデカダンな背徳乱倫の物語などは読まない方がいいのである。無理に有難がって小説を読むのは、ばかのすることである。

文学の判る人間なら、『源氏』を5頁も読めば、比類のない傑作であることは、すぐ判る。面白くて寝食を忘れるに決っている。しかし、文学的傑作が字の読めて文学の判らない動物に毒になることは……。

■女性解放の教科書でも貴族社会への弾劾文でもない

――どうも、大分、殺伐な議論になったが、以上のようなわけだから、文学好きの読者で、まだ『源氏』を読んでいない人、須磨明石くらいまでしか読んでいない人は、早速お読みになるといい。随分片寄った趣味の産物で、豪快な男性的な文学を愛する人の口には合わないかもしれないが、優美艶麗な抒情的な作品も、芸術として高級であるかぎりは、必ず強い力で人間性の深みを揺するものだということは文学読者なら経験によって、先刻、御承知だろうからだ。

私は何も、こんな妙な下品な文章を書かなくてもよかったのだが、しかし『源氏』について論じた研究家たちの論文にも、中には随分、強引な無理解なものがあって、時どき素人の私を苛だたせるので、その苛だちがこの毒のある小文を生んだわけである。

『源氏』を日本文学の伝統の中心に置くのはいいとして、その日本文学の伝統を、直ちに普遍的全人類的未来的なものに仕立てたいという一心から、あるいは無邪気に世界一を誇りたい自慢癖から、『源氏』のなかにありもしない、飛んでもない特徴まで数えたててみせてくれる人がいるので、気にさわる。

『源氏』は世界最古の小説でもなし、ヒューマニズムの書物でもなし、いわんや女性解放の教科書や、貴族社会への弾劾文ではない。好きな人には、忘れられない魅力を持った古代末期の物語だというに過ぎぬ。そして、私はその好きな人のなかの熱心なひとりだ。

■光源氏は女性の多様性を楽しむ「美食家」

光源氏は一生の間に、数限りのない女たちを愛した。

しかし、その愛し方は、ドン・ファンともカサノヴァとも異なっているようである。ドン・ファンは唯ひとつの理想的女性像を求めて、次つぎと現実の女性たちの間を巡歴した。カサノヴァはもっぱら女性の肉の狩人で、これは女なら誰でもいい、無選択の放蕩である。

しかし、光源氏はひとりの女の肉なり心なりを征服すると飽き、次に移るというのではない。敢えて言えば女性の蒐集家であり、多様な女性のその多様性を愉しむ美食家である。だからこそ彼の女性関係は複合的で、同時に何人もの女に愛を分け与えている。あるいは彼にとっては常に多様な女性たちが必要だったので、彼の快適な生活というのは、数人のそれぞれ傾向を異にした妻たちから成る家庭で暮すということだった。そして彼はその生活を実現した。

そこには、明石の上のような聡明な女性も、花散里のような実用的な女性も、また、空蟬の尼のような、昔の恋の生きた片身も住んでいた。さらには末摘花のような、軽率な恋を戒める、これまた生きた教訓のような女性もいた。

■光源氏に残された「子供の部分」

が、一方で源氏は単なる美食家、蒐集家ではなく、いわば日常生活の上の方に、一生を通じて「夢の女」の姿が存在していた。

その根元にあるのは、彼の記憶の中にはない、彼を生むと同時に死んだ母親の面影であり、この女性憧憬に彼の生涯は貫かれた。

中村真一郎『源氏物語の世界』(新潮選書)
中村真一郎『源氏物語の世界』(新潮選書)

少年期に父帝の寵姫、藤壺を愛したのも、それが母に生き写しの女性だったからだし、幼い紫の上を引きとって、自分の思うまま育てあげたうえで妻としたのも、彼女が藤壺の姪であり、ひいては母の面影を伝えていたからだろう。晩年に女三の宮を妻に迎えることで、ついに家庭の平和を破壊することになったのも、彼女が藤壺のもうひとりの姪だったからである。

そういう意味では、源氏は死ぬまで心の一部に、成長しきれない子供の部分を保存していたのかもしれない。「精神的離乳期前」の傾向があったのだろう。

一方で源氏が、朧月夜のような純粋に肉欲的な女と、何度もよりを戻したり、源典侍のような還暦直前の老婆と肉の戯れをしたりしたのも、彼のこの「子供の部分」と秘かな関係があったのではないか、と私は思っている。

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中村 真一郎(なかむら・しんいちろう)
作家
1918(大正7)年、東京生まれ。東京大学仏文科卒。1942年、福永武彦らと新しい詩運動「マチネ・ポエティック」を結成。1947年『死の影の下に』で戦後文学の一翼を担う。「春」に始まる四部作『四季』『夏』(谷崎潤一郎賞)『秋』『冬』(日本文学大賞)、『頼山陽とその時代』(芸術選奨文部大臣賞)『蠣崎波響の生涯』(読売文学賞、日本芸術院賞)『私のフランス』など多数の著書と訳詩書がある。『源氏物語の世界』のほか『王朝の文学』『王朝文学の世界』『私説 源氏物語』など平安期文学についての著書も多い。1997年没。

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(作家 中村 真一郎)

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