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「おい、身分証を見せろ!」ユダヤ人夫婦がナチスドイツで受けた"絶体絶命の尋問"を切り抜けられたワケ

プレジデントオンライン / 2023年6月14日 13時15分

ベルリンのゲシュタポ[写真=連邦公文書館/Aktuelle-Bilder-Centrale、Georg Pahl(Bild 102)/CC-BY-SA-3.0-DE/Wikimedia Commons]

ユダヤ人を迫害していたナチスドイツにおいて、ユダヤ人はどのような生活を送っていたのか。筑波大学教授の岡典子さんの著書『沈黙の勇者たち』(新潮選書)より、クラカウアー夫妻の例を紹介しよう――。

■夫は重い荷物運び、妻は一日中ジャガイモむき

マックス・クラカウアーは、ナチスが台頭する以前、ライプツィヒで映画配信会社を経営していた。1918年、30歳で小さな会社を起こして以来、自分の会社を誰もが知る大企業へと成長させることが彼の目標だった。

1932年、彼は飛躍のチャンスを掴んだ。前年にアメリカで製作されたチャールズ・チャップリンの映画『街の灯』のドイツでの放映権を25万ドルで買い取ったのである。だが同時に、これはクラカウアーにとって苦難の始まりでもあった。チャップリンを共産主義のユダヤ人とみなしていたナチスが、上映に強い不快感を示したからである。

1933年、ヒトラーが政権の座に就くとすぐにクラカウアーの会社は閉鎖に追い込まれた。夫妻はひとり娘のインゲとともにイギリスへの移住を試みたが、移住を許されたのは娘だけだった。1939年、ライプツィヒからベルリンに移ったクラカウアー夫妻は、以来、他のユダヤ人と同じように強制労働に従事させられた。

夫マックスは、軍需工場で重い木箱を運ぶ仕事を命じられた。一方妻カロリーネは、かつて屠畜場だった場所で、朝から晩まで立ったままジャガイモの皮むきをさせられた。だがすでに50代にさしかかり、しかも長年裕福に暮らしてきた彼らにとって、この生活はあまりにも過酷であった。神経をすり減らす日常と過重な肉体労働は、夫妻から容赦なく体力を奪った。

■自宅にゲシュタポが踏み込んだ

夫妻の運命を大きく変える事件が起きたのは、1943年1月29日であった。その日、夫妻の住むユダヤ人住居にゲシュタポが踏み込んだのである。当時この住居には、夫妻を含めて11人のユダヤ人が住んでいた。ゲシュタポは強制労働から帰宅した住人を待ち伏せては、片っ端から連行していった。

その日の夕方、何も知らないカロリーネはいつものように疲れきって強制労働先から戻ってきた。彼女が玄関に近づいたとき、突然物陰からひとりの女性が現れた。女性はカロリーネに素早く近づくと、こうささやいたのだ。

「アパートにゲシュタポが来てるわ。早く逃げなさい。急いで!」

そのときカロリーネは、女性がドイツ人の知人クラウゼであることに気づいた。クラウゼは夫妻に危険が迫っていることを知らせるためだけに、凍てつく寒さのなかで何時間もの間、いつ帰宅するかわからない夫妻を待ち続けていたのである。

カロリーネはすぐにユダヤ人病院に向かった。その日夫は体調を崩し、仕事のあと病院に寄ることになっていたからである。病院でふたりは無事に再会した。だが、二度と自宅に戻ることはできない。身一つでの逃亡生活が始まった。

■偽造の身分証で警察をかわしながらの移動

およそ1カ月の間、一夜の宿を求めてベルリン市内をさまよったクラカウアー夫妻は、ハンス・アッカーマンというドイツ人の友人の伝手で告白教会の牧師ヴィルヘルム・ヤンナッシュと出会った。ヤンナッシュは思いつく限りの牧師仲間や信徒たちに連絡を取り、ふたりの潜伏先を探したが、引き受け手はなかなか見つからなかった。

ベルリンではすでに何千人ものユダヤ人が告白教会の信徒に匿われており、新たな潜伏者を受け入れる余裕のある者はいなかったのである。ヤンナッシュがようやく見つけた潜伏先は、ベルリンから150キロ以上離れたポンメルンであった。そこに住むシュトレッカーという牧師が、ふたりを受け入れてくれた。

3月9日、夫妻は列車で慌ただしくポンメルンに出発した。車内で頻繁に警察の巡回が行われる列車の旅はユダヤ人にとって極めて危険である。アッカーマンはマックスたちの道中を案じ、即席の偽造身分証明書を用意してくれた。それは有効期限が切れて失効したアッカーマン自身の郵便局利用のための証明書にマックスの写真を貼り付けたものだった。いかにも素人が改ざんした出来の悪い証明書だったが、何もないよりはましだった。以後クラカウアー夫妻は、終戦まで「アッカーマン」の偽名を使い続けた。

■長期間同じ場所で匿い続けるのは困難を極めた

幸い列車内での検札でも身元を怪しまれることはなく、ふたりは無事ポンメルンに到着した。救援者に守られて暮らす日々は、ふたりにとって「正真正銘の療養」となった。過酷な強制労働で体重が41キロにまで激減していた妻カロリーネも、聖職者や信者たちの世話を受け、徐々に体力を回復した。夫妻は複数の救援者のもとを転々としながら、新たな生活になじんでいった。仕事も見つかった。マックスは事務職、カロリーネは事務所での賄いの仕事だった。

だが、穏やかな時間は長く続かなかった。時が経つにつれ、住民のなかにはふたりの素性を疑い、あれこれ噂する者も出てきた。ある主婦は、ふたりが食料配給券を使っているのを見たことがない、ドイツ人なら誰でももっているはずだと言いふらした。住民同士が互いを知り尽くしているような小都市で、素性を明かせない者を長期間匿い続けることはきわめて困難であった。救援者たちは手を尽くしてふたりの潜伏先を探し続けたが、その努力にも限界があった。

こうして、ポンメルンでの潜伏生活は4カ月で終わった。

■生きる気力を失うほどの潜伏生活

7月15日、失意の夫妻はポンメルンからベルリンに戻った。とはいえ、ポンメルンに潜伏した経緯から考えれば、いつまでもベルリンに留まれないことは明らかだった。

新たな潜伏先を見つけてくれたのは、ブルクハルトという牧師だった。ブルクハルトは夫妻を呼び出すと、シュツットガルトにいるクルト・ミュラーという牧師を頼るように告げた。だが、シュツットガルトは、ベルリンから直線距離にして600キロ近くも離れたヴュルテンベルクにある。ほとんどドイツを縦断するような大移動となるうえに、移動の最中は頼れる救援者もなくふたりだけで現地にたどり着かなければならない。

潜伏者にとって、それはあまりに過酷な旅であった。道中で車掌や警察に身元を疑われても、走行中の列車のなかでは一切の逃げ隠れができない。潜伏者にとって、長距離列車は危険極まりない場所である。

このときの衝撃について、夫マックスは後年「難破船のように寄る辺ない身の自分たちにとって、シュツットガルトはあまりにも遠すぎる島」のように思えたと語っている。

慌ただしく出立の準備をする間、夫妻は絶えずひとつの考えに苦しめられていた。こんな悪あがきにいったいどんな意味があるのか。新しい土地に逃げても、どうせまた、そこにも別の危険が待っているだけのことだ。それに自分たちが逃げ続ければ、大勢の善意の人たちを巻き込み、傷つけるのだ。いっそのこと、逃亡生活も自分たちの命ももう終わりにしたほうが良いのではないか。半年を超える潜伏生活で、夫妻は生きる気力を失っていた。

■「乗客全員がゲシュタポに見えた」

それでも、イギリスに逃れたひとり娘のインゲを思うと、夫妻の心は激しく揺らいだ。もう一度生きて娘に会いたい、そのためにも生き抜いてナチスの終焉(しゅうえん)を見届けなければならないという感情が湧き上がってきた。

夫妻はシュツットガルト行きを決意し、8月6日、列車でベルリンを出発した。警察の目を逃れるため、ふたりは7回以上も列車を乗り換え、2日がかりでシュツットガルトにたどり着いた。車中での緊張感をマックスは次のように振り返る。

次の駅に列車が止まるたびに、神経がちぎれそうになった。新たな乗客が乗りこんでくると、他愛のない農夫までが皆ゲシュタポに見え、不安と恐怖に押しつぶされそうだった。

(ヴェッテ『沈黙の勇者たち』)

ドイツの駅
写真=iStock.com/clu
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/clu

■近隣住民に怪しまれる前に潜伏先を変える

8月8日、夫妻はようやくシュツットガルト中央駅にたどり着いた。駅のホームに降り立ったとき、夫マックスは安堵(あんど)のため息をついたが、町の風景を目にすると、深い孤独に襲われた。見知らぬこの町で、自分たちはたったふたりきりなのだ。まるで大海に投げ出された藁くずになったような気もちだった。

ふたりは道に迷いながらもなんとかミュラー牧師の自宅にたどり着き、最初の夜を迎えた。長身で活力にあふれたミュラーは、船乗りのような風貌だった。ミュラー牧師は夫妻に対し、ここでの滞在は一晩だけで、明日は次の潜伏先に移動するように伝えた。ミュラー牧師の自宅は狭い賃貸アパートで、近隣住民に気づかれずにふたりを滞在させることは不可能だったからだ。

ユダヤ人潜伏者が一軒の家に長くとどまれば、必ず近所の者たちに怪しまれる。そこでミュラーたちヴュルテンベルク内の聖職者たちは互いに連携しあい、近隣住民に気づかれる前に潜伏者を次の救援者のもとに送り出す方法を考案していた。ユダヤ人潜伏者は滞在先で「家を失った爆撃難民」として紹介され、あらぬ噂が立つ前に次の救援者のもとに送られた。

こうして救援者たちは、仲間の間で潜伏者をいわばリレーのバトンのように受け渡すことで、周囲の目をかわし、救援者と潜伏者の双方を密告から守ろうとしたのである。ミュラーたちは、この方法で終戦までに13人のユダヤ人の命を守った。そのなかには、クラカウアー夫妻と同様に遠くベルリンから救いを求めてやってきた者もいた。

■救援ネットワークを築いた聖職者たち

ヴュルテンベルクの中心都市(大管区都)であるシュツットガルトは、さきにふれた告白教会の拠点であった。告白教会は激しい弾圧により、この時期すでに衰退に追い込まれていたが、聖職者や信者たちは、ナチスの迫害からユダヤ人を守ろうと秘かに活動を続けていたのである。

ミュラーは、告白教会に与するヴュルテンベルク内の聖職者や信者たちを率い、大規模な救援者ネットワークを築いていた。ネットワークの中心にいたのは、ヴュルテンベルクとその近郊に住む計17名の教区監督たちであった。彼らは互いに連絡し合い、教区の信者たちをまとめて緻密な救援活動を成立させていた。

このヴュルテンベルクの救援ネットワークに関与し、ユダヤ人に手を貸した者は150人から200人ほどいたと考えられている。もっとも、ほとんどの一般信者たちは、自分が大規模なネットワークに所属しているという認識はなかったし、ネットワークに誰が属しているのかも知らなかった。

全体を把握していたのは、活動の中枢にいる聖職者たちだけであった。一般信者たちは、自分が所属する教区の牧師の指示に従い、行動したに過ぎない。それは万一誰かが逮捕された際、他の救援者を守るための必須条件であった。たとえ取り調べを受けても、知らなければ自白のしようもないからである。

■突然の身分証確認で絶体絶命

翌朝早くミュラー宅で夫妻が目を覚ましたとき、彼はすでに出かけたあとだった。夫妻の次の潜伏先を確保するため、一足先に出発していたのだ。クラカウアー夫妻は、近所の人びとに姿を見られないうちにと考え、身支度を整えると急いでミュラー宅を出た。次の潜伏先は、シュツットガルトから20キロほど離れたエスリンゲン郡にあるケンゲンという町だと聞かされていた。

ミュラー牧師とは、午後2時にシュツットガルト中央駅で落ち合う約束であった。クラカウアー夫妻は午前中は市街を散策し、昼頃、シュツットガルト中央駅に到着した。待ち合わせ時間まで、そこで時を過ごすつもりだった。だがその時、事件が起こった。

駅に到着してから5分も経たないうちに、パトロールの警察官が4人現れた。警察官は声を張り上げ、その場にいた人びと全員に命じた。「警察だ! 身分証明書を確認する」。

ひとりの警察官が夫妻に近づいてきた。

「身分証明書を出してください」

警察官が言った。

「今、手元にもっていないんです」

マックスはか細い声で答えた。アッカーマンから譲り受けた偽造証明書はすでに手元になかった。出来のよくない証明書をもち続けることに恐怖を覚えた妻の訴えで、ベルリンを発つ直前、アッカーマン自身に送り返してしまっていたのだ。

警察官は無言で駅構内の警察官詰所にふたりを連行した。

尋問が始まった。氏名は? 住所は? どこから来たのか。目的地はどこだ。職業は何か。次々に質問が浴びせられた。マックスは自分はアッカーマンだと名乗り、偽りの住所を伝えた。次々に嘘の答えを返しながらも、内心は絶望に押しつぶされそうだった。こんな程度の嘘は、警察にかかればすぐに発覚するに決まっているからだ。

■警察は夫婦をユダヤ人と見抜いたのではないか

警察官はふたりのポケットの中を探った。マックスの財布のなかから古い食料配給券が出てきた。アッカーマンが与えてくれたもので、彼の名と住所が書かれていた。ベルリン市テンペルホーフ、ベルリン通り56番地。そこは、最近の空襲であたり一面焼け野原となった場所であった。

マックスはふと、この状況を利用できるかもしれないと思いついた。彼は言った。連日の空襲のせいで、妻がすっかり心身を病んでしまった。ここヴュルテンベルクにやってきたのは、妻を静養させるためだ。ここならベルリンのように絶えず爆撃にさらされる心配もなく、妻が健康を取り戻すにはうってつけだ。もちろん私自身は、仕事があるから、妻を静養先に送り届けたらすぐにベルリンに戻るつもりだ。

警察官たちはマックスの作り話を信じたらしい。穏やかにこう言った。

「アッカーマンさん、不注意でしたね。どんなことがあっても、外出のときは身分証明書を携帯しなくちゃいけません」

さっきまでの尋問とはうって変わった丁寧な言葉遣いだった。

岡典子『沈黙の勇者たち』(新潮選書)
岡典子『沈黙の勇者たち』(新潮選書)

ふたりは無事に釈放された。妻のカロリーネは、緊張から解き放たれるとひきつけを起こしたように泣きじゃくった。

だがマックスには、警察官がなぜふたりを釈放してくれたのかわからなかった。身分証明書も携帯せず、見るからに怯えた様子のふたりを彼らが怪しまなかったはずはない。それにマックスの作り話など、真偽を確認しようとすれば方法はあったはずである。だが、彼らはそうしなかった。

のちにマックスからこの話を聞いた友人たちは言った。おそらく警察官たちは、尋問の途中で夫妻がユダヤ人だと気づいたのではないか。だから作り話に騙されたふりをして見逃してくれたのだろうと。実際、警察官のなかにも、内心ではナチスの政策を快く思わない人びとはいたのである。

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岡 典子(おか・のりこ)
筑波大学教授
1965年生まれ。桐朋学園大学音楽学部演奏学科卒業。筑波大学大学院一貫制博士課程心身障害学研究科単位修得退学。博士(心身障害学)。福岡教育大学講師、東京学芸大学准教授などを経て、筑波大学人間系教授。専門は障害者教育史。著書に『視覚障害者の自立と音楽 アメリカ盲学校音楽教育成立史』(風間書房)、『ナチスに抗った障害者 盲人オットー・ヴァイトのユダヤ人救援』(明石書店)。

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(筑波大学教授 岡 典子)

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