江戸城でも名古屋城でも浜松城でもない…徳川家康が生涯で最も愛情を注いだ城の名前
プレジデントオンライン / 2023年6月18日 12時15分
■岡崎城、伏見城、二条城、篠山城…「家康の城」は無数にある
徳川家康にまつわる城は数えきれないくらい多い。自身が住むか、長く滞在するかした城だけを挙げても、かなりの数になる。
家康が生まれ、桶狭間の合戦ののちに独り立ちして最初に拠点にした岡崎城(愛知県岡崎市)、29歳のときから17年をすごし、そこを拠点に数々の危機を乗り切った浜松城(静岡県浜松市)、5カ国を統治する大大名になって移った駿府城(静岡県静岡市)、その後、移封になった広大な関東を統治する拠点とし、天下人になってからは徳川権力の司令塔になった江戸城(東京都千代田区ほか)。
豊臣家から政権を簒奪(さんだつ)する前後に上方における拠点とし、関ヶ原の合戦の前哨戦で落城後、家康が再建した伏見城(京都府京都市)や、豊臣秀吉の没後、一時期住みついた大坂城(大阪府大阪市)も加えられるだろう。京都で徳川家の武威を示すための二条城(京都府京都市)もある。
また、天下人になってから、大坂の豊臣家との有事を想定して築かせた篠山城(兵庫県丹波篠山市)や名古屋城(愛知県名古屋市)も、まぎれもない家康の城である。さらに天下人になる前、領国各地の拠点にした城まで入れると、嫡男の松平信康を切腹させた二俣城(静岡県浜松市)や、武田氏との長い攻防の舞台となった高天神城(静岡県掛川市)などはごく一例で、ほんとうに数え切れない。
■最も深く愛情を注いだ城
だが、そんななかで、家康が心血注いで築き上げ、もっとも深く愛情を注いだ城は、ここに尽きるだろう。駿府城である。事実、元和2年(1616)4月17日、家康が数え75歳で息を引きとったのが、文字どおり終の棲家であった駿府城だった。
では、家康は駿府城にどんな思いを抱き、それはどのように生じたものか。それを考えるためにも、家康とこの城の関わりをたどっておきたい。
家康が少年時代を駿府ですごしたことはよく知られる。『東照宮御実紀』には、今川氏の館の焼け跡に家康が城と町をつくった旨が記されている。近年の駿府城本丸の発掘調査の結果、今川時代の遺構も出土しており、駿府城周辺が家康の原体験が育まれた地であることはまちがいない。
その後、家康は生涯の重要な局面で2度、駿府に城を築いている。最初は天正13年(1585)から翌年にかけて。小牧・長久手の合戦ののち、豊臣秀吉に臣従しようというころだ。次が慶長12年(1607)で、その2年前、家康は将軍職を嫡男の秀忠に譲り、天下の統治は徳川家が世襲することを世に示していた。
■秀吉との距離も保てる場所
まずは浜松城から拠点を移した最初の築城を見ていきたい。このころの家康は、三河(愛知県東部)、遠江(静岡県西部)、駿河(静岡県東部)に加え、かつて武田氏の領国だった甲斐(山梨県)と信濃(長野県)も領有する大大名になっていた。
浜松城から拠点を移したのは、あらたに領国になった甲斐には武田氏の遺臣が多く、彼らを取りまとめるためにも駿府のほうが、便がよかったことが考えられる。加えて、関係が微妙だった豊臣秀吉との距離を確保したほうがいい、という考えもあっただろう。
■土→石という大きな変化
天正13年(1585)7月にはじまった築城工事については、家臣の松平家忠が記した『家忠日記』にこまごまと記されている。そこにはこんな記述もある。「堀普請候」「石とり候」「てんしゅのてつたい普請」「小傳主てつたい普請」「石くら根石すへ候」……。これらの記述はきわめて重要なことを伝えている。この時期の駿府城には石垣が積まれ、広い堀で囲まれ、大天守と小天守からなる連立天守が建っていたことがわかるのである。
天正15年(1587)に本丸の堀が完成し、その翌月には二の丸の石垣が整い、同16年(1588)3月ごろから天守の建築がはじまり、同17年(1589)にすべての工事が終わったことも記されている。
石垣を積んだ本格的な城だったから、工事に4年もかかった。
それまでの家康の居城は岡崎城も浜松城も、空堀を掘った土で土塁を築き、石はあまり用いない「土の城」だったと考えられる。だが、家康は天正10年(1582)5月、本能寺の変の直前に織田信長の安土城を訪れ、総石垣で築かれ、そびえる天守をはじめ絢爛(けんらん)豪華な建築が立ち並ぶ、あたらしい時代の城を目の当たりにしていた。
■信長の安土城に触発されて
『家忠日記』の記述は、時代の流れに敏感な家康が安土城に刺激を受け、その要素をさっそく自身の城に取り入れたことを示している。
ただし、駿府城が完成してわずか1年ほどで、家康は滅ぼされた北条氏が治めていた関東に移封となり、駿府城を離れなければならなくなる。代わって、豊臣系大名の中村一氏が城主になったが、心血注いで築いた城を手放すのは、家康にとっては無念だったにちがいない。
■軍事的にも健康にも好都合
だが、慶長8年(1603)に任ぜられた征夷大将軍を同10年に秀忠に譲ると、家康は自身の隠居城に駿府城を選んだ。もっとも、家康が本気で隠居しようと考えたのではない。むしろ、大御所として自由な立場で政権を運営する気満々で、結果、それからしばらく駿府が事実上、日本の首都となった。
そして、中村氏ののち、家康の異母弟といわれる内藤信成の居城になっていた駿府城を事実上、一から築き直した。毛利輝元、前田利長、細川忠興、池田輝政ら外様の大大名の負担で、慶長12年(1607)2月から急ピッチで工事が行われている。
早くも同年7月には本丸が完成し、続いて三重の水堀がめぐる輪郭式の平城ができ上ったが、12月に失火で完成したばかりの本丸が全焼。しかし、すぐに諸大名の負担で工事が再開され、翌慶長13年(1608)8月に天守の上棟式が行われ、城全体は同15年(1610)3月に完成した。
家康が駿府城にこだわった背景には、万が一、大坂の豊臣秀頼の軍が関東に向かって下ってきた場合、江戸の手前で食い止める目的があったと考えられる。一方、家康は駿府の地が温暖ですごしやすいことを熟知していた。いわゆる「健康オタク」だった家康が、終の棲家にふさわしい土地だと判断したのだろう。
■発掘された史上最大の天守台
だが、駿府城は家康の死後、たび重なる災害に見舞われた。寛永12年(1635)には火災で天守をはじめ御殿や櫓など多くの建造物が焼失し、宝永4年(1707)の地震で石垣の多くが大破。安政元年(1854)の大地震では石垣や建物の大半が崩壊した。
だから現在の駿府城は、三重の堀のうち中堀と外堀はよく残るが建造物は現存せず、石垣も当初のまま残されているものは少ない。本丸を囲む内堀も、明治29年(1896)に陸軍歩兵第34連隊が置かれた結果、北東角にあった天守台もろとも埋め立てられてしまった。
このため、家康時代の駿府城の姿は想像するしかないと思われていたが、平成28年(2016)からの本丸の発掘調査で、貴重な遺構が次々と掘り出された。
![駿府城跡で発見された小天守台の石垣の一部=2020年1月7日、静岡市](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/0/4/1200wm/img_04fdb031f9833622fc5e4bc475bed7c1403963.jpg)
まず、石垣上端の平面が東西約48メートル、南北約50メートルと史上最大の天守台が出土し、現場の整理作業をへて現在、間近で眺めることができる。また、その内側から東西約33メートル、南北約37メートルの天守台も発見された。
前者の石垣は、ある程度加工された石が積まれ、隅角部は直方体の石の長辺と短辺を交互に積んで強度を増した算木積みなのに対し、内側の天守台は自然石を積んだ野面積みで、隅角部にはまだ算木積みが見られない。このため、前者は将軍を譲ってのちの、後者は『家忠日記』に記された天守台だと考えられる。
■富士山を借景に浮かんだ華麗な天守
『家忠日記』には天守の外観などの記載がないので、家康が最初に築いた天守の姿はわからないが、隠居城として築かれた天守の姿は、『当代記』のほか『慶長日記』や『増補慶長日記』などの記録から、ある程度再現できる。
史上最大の天守台は四隅に櫓が建ち、天守本体は天守台の中央に建っていた。五重六階もしくは六重七階で、『当代記』によると1階と2階には欄干が飾られ、とくに下層が御殿風の天守だった模様だ。また、残された絵巻などによると、上階は壁面に下見板が張られていた。屋根は最上階には銅瓦が葺かれ、軒先瓦には金箔(きんぱく)が押され、鯱も金色に輝いていた。
そして、東海道から東方に眺めると、この華麗な天守の姿が富士山を借景に浮かび上がった。上方方面から駿府を訪れた人は、もれなくこの光景を目にしたはずで、徳川の権力と権威を知らしめるための、家康による周到な仕掛けだった。
■復元された往時の姿
また、平成元年(1989)以降、二の丸東南角に巽(たつみ)櫓、そのすぐ北側に二の丸への主要な出入り口だった東御門、二の丸西南角に坤(ひつじさる)櫓が、木造の伝統工法で復元された。これらは寛永15年(1638)の大火以降の姿を再現したものだが、白漆喰(しっくい)による白亜の外観をはじめ、家康時代の意匠が継承されているのはまちがいない。
東御門を見てみよう。小さめの高麗門をくぐると方形の空間があり、鍵状に曲がって櫓門の下を通る。こうした形式の門は方形の空間を、米などを量る枡にたとえて枡形門と呼ばれる。また、枡形の周囲は長屋型の多門櫓で囲まれている。敵はまっすぐ侵入できないばかりか、枡形に閉じこめられ、周囲の櫓から撃たれて殲滅させられる。
![駿府城 東御門](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/0/d/1200wm/img_0d12ab80146d0ccbeaaa7f56b90b3777234213.jpg)
しかも、その鉄壁の防御が白亜で飾られている。こうして美しく守られた城の奥に、巨大な天守台と、富士山を背にしたまばゆい天守。それこそが、家康の終の棲家の姿だった。
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歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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