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NHK大河ドラマではとても放送できない…織田信長が徳川家康に下した「武田軍を皆殺しせよ」という知略

プレジデントオンライン / 2023年6月11日 12時15分

武田勝頼(1546~1582)の肖像画(部分)高野山持明院蔵(写真=東京大学史料編纂所/PD-Japan/Wikimedia Commons)

戦国最強と謳われた武田家は、なぜ滅亡したのか。歴史評論家の香原斗志さんは「長篠の戦いで敗れてから、滅亡までは7年間ある。滅亡の要因は、1581年の高天神城の戦いで、籠城する武田兵を見捨てたことだろう。この結果、家臣たちが次々に離反し、翌年には滅亡を余儀なくされた」という――。

■徳川家康が最も苦しめられた敵将

徳川家康は武田氏に苦しめられた。家康が天下人になるまでの道程で、もっとも苦しめられた敵が武田氏であることは、あらためて指摘するまでもない。

元亀3年(1572)10月、家康の領国である遠江(静岡県西部)に攻め入った武田信玄は、家康方の城を次々と落とし、三方ヶ原合戦で家康軍を完膚なきまでに打ちのめした。家康はまさに絶体絶命のピンチに陥ったが、同4年(1573)4月、信玄が急逝したために助かった。

だが、家督を継いだ四男、NHK大河ドラマ「どうする家康」では眞栄田郷敦が演じる勝頼が手ごわかった。勝頼の軍事行動は天正2年(1574)からにわかに活発化し、徳川方ばかりか織田方の城や砦も次々と攻め落とし、東美濃(岐阜県南部の東側)や奥三河(愛知県東部のさらに東北部)のかなりの地域が、武田の軍勢に攻略された。

そのうえ同年5月、勝頼は2万5000人といわれる軍勢を率いて遠江(静岡県東部)に侵攻し、徳川方の重要な拠点である高天神城(静岡県掛川市)を攻囲。7月には城主の小笠原信興(氏助)を降伏させてしまった。

だが、この高天神城にこだわり続けたことが、武田家滅亡の最大の要因になったのだから、なんとも皮肉である。

■なぜ嫡男と正妻が武田家に内通していたのか

高天神城が奪われたのちも、徳川は武田方にやられっ放しだった。だからこそ天正3年(1575)には、「どうする家康」の第20話(5月28日放送)「岡崎クーデター」で描かれた大岡弥四郎事件が起きた。領国を維持するためには武田の力を借りたほうがいいと考える家臣が多数におよぶほど、家康が劣勢だったということである。

そして、同7年(1579)に家康は正室の築山殿を、武田方に内通していた疑いで死に追いやり、嫡男の信康に切腹を命じなければならなくなった。

恐らくは、勝頼の調略の手が築山殿に伸びていたのだが、もとはといえば、このままでは徳川家の領国を維持できないという不安を、妻子までが抱いたことが原因だった。

話は前後するが、大岡弥四郎事件の直後、天正3年(1575)5月に、勝頼は奥三河の要衝である長篠城(愛知県新城市)の攻略に向かった。そうして起きたのが5月21日の長篠・設楽原合戦で、織田・徳川連合軍が圧勝したことはよく知られる。

■武田家滅亡の要因になった高天神城

この戦いについては多くの人が書いているので、簡単に記すにとどめたい。家康が信長に出陣を要請すると、畿内での三好氏や大坂本願寺との戦いがひと段落ついた信長は、勝頼は手ごわいと認識していたこともあって受諾。5月13日に岐阜を発ち、14日に岡崎で家康と信康の出迎えを受け、18日には長篠城の近くの設楽原に布陣した。

酒井忠次率いる別動隊が、武田方の長篠城包囲の要である鳶ヶ巣(とびがす)山砦を落とすと、退路を断たれた武田軍は織田・徳川連合軍の陣営に突撃するが、当時としては異例の馬防柵と鉄砲に阻まれて大敗。馬場信春や山県昌景をはじめ、名のある武将たちが多く討ち死にした。

この敗戦は勝頼にはあまりに痛手だった。もはや他国を攻略している余裕はなく、本拠地である甲斐(山梨県)への後退を余儀なくされ、一方、信長と家康は失地挽回を急いだ。

家康の場合、戦勝直後の5月下旬にはみずから進軍して、これまで武田軍に攻略された城を奪還していった。二俣城、光明城、犬居城(いずれも浜松市天竜区)を落とし、続いて諏訪原城(静岡県島田市)を攻略している。

だが、武田氏が滅亡するのは天正10年(1582)3月と、長篠・設楽原の敗戦から7年後である。勝頼はしぶとく、後退しながらも体制を立て直しては家康を苦しめつづけた。そして、勝頼による体制立て直しの要が高天神城だった。

高天神城址
高天神城址(写真=立花左近/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

■同盟相手の北条氏政を怒らせる

高天神城はかつて家康方として城主を務めた小笠原信興が、降伏後も武田方として城主の地位にとどまっていた。勝頼はこの信興を転封にして高天神領を直轄領にし、今川家旧臣の岡部元信を城代にした。さらに城域を拡大し、守りを強化している。

一方、高天神城の奪還をめざす家康と勝頼の攻防戦については、家康家臣の松平家忠が記した『家忠日記』に記されている。それによると、天正5年(1577)閏7月、家康みずから高天神城を攻撃し、勝頼も出陣して応じたが、秋以降、両軍による大規模な戦闘はなかったという。

その後、勝頼は江尻城(静岡市清水区)、田中城(静岡県藤枝市)、小山城(静岡県吉田町)というラインで高天神城の後詰(後方からの援助)を行った。対する家康は、翌天正6年(1578)7月に高天神城攻略の最前線として横須賀城(静岡県掛川市)を築き、背後の懸川城(掛川城)と、諏訪原城を改名した牧野城で牽制した。

こうして一進一退の攻防が繰り広げられたが、勝頼は天正7年(1579)11月を最後に高天神城の後詰を行っていない。原因は外交戦略の失敗にあった。

その前年3月、越後(新潟県)の上杉謙信が急死すると、謙信の甥の景勝と、養子で北条氏政の弟の景虎との後継者争いが起きた。結局、景虎は自刃して景勝が後を継いだが、景勝を支援した勝頼の対応に北条氏政が激怒。武田氏との同盟を破棄し、以後、駿河方面の国境を盛んに攻めるようになったので、勝頼は遠江への出馬が難しくなったのである。

■信長が武田軍皆殺しを決めたワケ

そこで天正8年(1580)3月から、家康は高天神城の攻撃をはじめる。先の『家忠日記』によると、周囲に多くの砦を築いて包囲網を徐々に狭めながら、7月に武田方の小山城と田中城を攻撃。そのうえで9月から高天神城を総攻撃している。

狩野元秀画「織田信長像」賛・跋。原本は愛知県西加茂郡挙母町長興寺所蔵
狩野元秀画「織田信長像」賛・跋。原本は愛知県西加茂郡挙母町長興寺所蔵(写真=東京大学史料編纂所/PD-Japan/Wikimedia Commons)

ただし、静岡大学名誉教授の本多隆成氏が「この頃になると、高天神城の攻略問題は、『天下人』信長の天下統一政策とのかかわりを強くもつようになっていた」と書いているように(『徳川家康と武田氏』吉川弘文館)、当初は対等の同盟相手だったが、すでに目上の存在になっていた信長の意向に、家康は従うほかなかった。

信長は天正9年(1581)正月、家康のもとへ水野忠重らを援軍に送り、正月25日付で忠重に朱印状を送っている。それによると、高天神城に籠城している城代の岡部元信ら武田方が矢文を送って、降伏を申し出てきたという。高天神城のほか小山城、滝境城(静岡県牧之原市)の譲渡と引き換えに、城兵の助命が嘆願されたようだ。

ところが、信長は家康に、岡部らの嘆願を受け入れずに高天神城への攻撃を続けるように指示した。

そうさせる理由を2つ、信長は記している。ひとつは、降伏できない3つの城を救いに勝頼が出陣してきたら討ち果たせばいい、というもの。もうひとつは、3つの城を救援せず見捨てることになれば、勝頼は一気に信頼を失って追い詰められる、という理由だった。

■致命傷になった勝頼の「見殺し」

家康は信長の指示に従って、高天神城への攻撃を継続。一方の勝頼にとっては、もはや遠江における武田方の拠点としては、孤島のようになっていた高天神城への援軍は、リスクが大きすぎて手出しができない状況だった。

なすすべがない籠城衆は3月22日、最後に打って出るが、岡部元信ら大半が討ち死にして落城。家康は7年ぶりに高天神城を奪還した。『信長公記』によると、脱出できずに犠牲になった城兵は688人におよび、その後は信長が予想したとおり、高天神城を見殺しにした勝頼の評判は著しく落ちたという。国衆や家臣たちが次々と離反したのである。

遠江攻略の拠点として、高天神城を守ることにこだわって、勝頼はみずからを決定的に追い詰めることになったともいえる。また、父の信玄を上回る器量の持ち主だったとの評もある勝頼でも、信長の残酷だが冷徹な戦術に敵わなかったともいえるだろう。

■最期まで裏切られ続けた勝頼

この流れのなかで翌天正10年(1582)正月、信濃(長野県)の国衆で勝頼の妹婿の木曽義昌が織田方に寝返った。これを機に信長が武田領への侵攻を命じると、嫡男の信忠らが攻め入って簡単に攻略してしまった。

その理由を前出の本多氏は、「高天神の在城衆は武田氏のほぼ全領域から集められていたため、勝頼が後詰することなく、城兵を『見殺しにした』という怨嗟の声が領国内に広まっていたのである」と記す(『徳川家康の決断』中央公論新書)。

とはいえ、勝頼も座して死を待っていたわけではなく、あらたな本拠地として新府城(山梨県韮崎市)の築城を開始し、裏切った木曽義昌を討伐するために出陣した。

しかし、信玄の娘婿で武田一門の穴山信君(このころは出家して梅雪と名乗っていた)に叛(そむ)かれ、勝頼の庶弟の仁科信盛が守る高遠城(長野県伊那市)は落城して信盛は戦死。追い詰められた勝頼は完成前の新府城に火をかけ、譜代家老衆の小山田信茂が守る岩殿城(山梨県大月市)に向かうが、最後に頼みにした信茂にも裏切られてしまう。

ついには3月10日、織田信忠の補佐を務めていた滝川一益と川尻秀隆に攻め込まれ、正妻の桂林院殿、嫡男の信勝ほか、付き従った近臣たちとともに自害し、名門武田氏は滅亡した。

同じ「滅亡」でも、今川氏真のように命が助かり家も存続したのとまったく違って、すべてが消滅する慈悲なき滅亡。信長の酷薄な読みの深さには恐れ入るしかない。だが、その信長も、勝頼が自害して3カ月もたたずに本能寺で自害するのである。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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