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信長の「天才的戦術」は旧日本陸軍のウソである…長篠の戦いで大敗した武田勢の評価が見直されているワケ

プレジデントオンライン / 2023年6月11日 13時15分

設楽原決戦場まつり(愛知県新城市)=2010年7月4日 - 写真=時事通信フォト

織田・徳川連合軍と武田軍が戦った長篠の合戦とは、どのような戦いだったのか。歴史研究家の跡部蛮さんは「最新研究によって信長が新戦法で武田軍を圧倒したとされる通説は覆されている。さらに、大敗した武田勝頼も再評価されつつある」という――。

※本稿は、跡部蛮『超新説で読みとく 信長・秀吉・家康の真実』(ビジネス社)の一部を再編集したものです。

■「長篠の合戦」の通説は覆された

長篠の合戦(愛知県新城市)――織田信長が新兵器の鉄砲3000挺をそろえた鉄砲隊が待ちかまえる長大な馬防柵に、武田勝頼が無謀にも自慢の騎馬隊を突っこませ、多くの将兵を失って大敗した合戦として記憶されてきました。

しかも信長は、一発撃てば次の射撃までに時間がかかる鉄砲(火縄銃)の弱点を補うために射撃手が次々と変わる「三段撃ち」という新戦法を編みだし、彼を軍事的天才とする神話も作られました。黒澤明監督の映画『影武者』で、武田の騎馬武者が敵の一斉射撃によってバタバタと撃ち殺されるシーンは筆者の記憶に鮮明に残っています。

以上は、例の大日本帝国陸軍参謀本部編『日本戦史』が小瀬甫庵の『信長記』や『総見記』(17世紀終わりに『信長記』を参考にして書かれた信長の一代記)を典拠に、通説として確立させたことによる虚像です。その後、戦前の歴史家が受け継ぐ形で長い間、信じられてきた話ですが、歴史研究家の鈴木眞哉氏や藤本正行氏によって、その通説が覆されました。

■『信長公記』に記されている鉄砲の数は1000挺

まず当時の鉄砲の性質や射撃の技術からみて、鉄砲三段撃ちというのは不可能であること。そして3000挺という鉄砲の数にも疑問が投げかけられました。史料的価値が高い太田牛一著『信長公記』(刊本)には1000挺と記載されているからです。ただし同じ『信長公記』でも、牛一自筆の岡山大学附属図書館所蔵池田文庫本には「鉄砲千挺」と書かれた右上に「三」と書き加えられ、「三千挺」へ訂正されています。

一般的にはこの訂正は牛一自身の手によるものでなく、後世の人の加筆だとされています。いったん「千挺」と記載した彼がその誤りに気づき、訂正した可能性も残っています。それでも筆者は刊本の『信長公記』にあるとおり、信長が家臣の佐々成政や前田利家ら五人を奉行に編成させた足軽鉄砲隊に預けた鉄砲は1000挺だったと考えています。その後、ほかの部分での見直しも進みました。

■信長の画期的な戦術は裏が取れていない

たとえば馬防柵です。合戦場となった設楽ヶ原(有海原ともいう)では連吾川が南北に流れ、西に織田・徳川連合軍、東に武田軍がそれぞれ陣し、地元の伝承では織田・徳川連合軍の前線全域にわたって長大な馬防柵がめぐらされていたことになっています(図表1「長篠の合戦の両軍布陣図」参照)。通説によると、その馬防柵も信長のアイデアで岐阜城(当時の居城)を出陣する際、兵士一人につき材木一本・縄一束を持たせたと江戸時代の史料に書かれています。

【図表1】長篠の合戦の両軍布陣図
出典=『超新説で読みとく 信長・秀吉・家康の真実』

当時、柵や逆茂木(敵の侵入を防ぐために、とげのある枝や先端をとがらせた枝を逆さに立ててはりめぐらした垣根)を戦場で構築する際、材料を現地調達するのが常識でした。その意味では画期的な戦術といえますが、信用できる史料で裏が取れず、信長の独創性を強調する後世の作り話だろうとなっています。また、そのスケールは別にして、戦場に柵をもうけることそのものは戦国時代によくあることでした。

■「無謀な突撃」とされた武田勢の評価は見直されている

このように新戦術を用いたとする信長の評価が下がる一方で、無謀な突撃を行ったとされる武田勢の見直しが図られました。

① 騎馬隊そのものの概念が再検討されていること。

② 織田・徳川方で鉄砲に撃たれて討ち死にした者がいることなどから、武田勢はただ騎馬での戦いにのみ頼ったのでなく、鉄砲隊が存在していた可能性があること。

③ 平山優氏は「合戦において、柵が敷設されていたり、多勢や優勢な弓・鉄砲が待ち受けていたりしていても、敵陣に突入するという戦法は、当時ごく当たり前の正攻法だった」(『検証 長篠合戦』)とした上で各史料を読みこみ、武田軍が柵を引き倒す用具を備え、たとえば、「縄の先端に鹿角や鉤をつけたものを柵に向かって投擲し、ひっかけて引き倒したことが想定」(前同)されるとしていること。

以上です。

■信長は何としても家康を助ける必要があった

そして見直し作業は、この合戦の政治的背景にも及びました。

そもそも、この合戦が長篠の合戦と呼ばれるのは、武田勝頼が天正3年(1575)4月に徳川氏の領国三河へ侵攻し、同名の城を包囲したことにはじまるからです。勝頼の父信玄は、三河侵攻の途中で陣没し、武田軍はいったん軍勢を本国の甲斐へ引き上げました。その後、体勢を立て直し、勝頼は父の意志を継ぎ、遠江や三河での反攻を期していたのです。一方の家康はその勝頼に遠江の重要拠点、高天神城(静岡県掛川市)を奪われていました。

武田勝頼の肖像画〈武田勝頼妻子像 部分〉(図版=高野山持明院蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)
武田勝頼の肖像画〈武田勝頼妻子像 部分〉(図版=高野山持明院蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

そういう情勢のなか、勝頼が奥三河にある徳川方の長篠城を包囲したのです。城は小城とはいえ、家康としては遠江の高天神城につづき、三河でも敵(武田)に拠点を作らせるわけにはいきません。三河・遠江全体の領国支配に影響を及ぼしかねないからです。

逆に勝頼は反織田勢力の足利義昭(15代将軍)や本願寺の一向一揆勢と連携し、三河に手を伸ばしてきたのです。こうして長篠城という小城の存在が一気にクローズアップされました。また徳川と同盟関係(清洲同盟(※))にあった信長は、勝頼の遠江侵攻の際に家康に軍事的支援をおこなう余裕がなかったため、徳川の本拠(三河)の長篠城救援のために何としても手を差し伸べる必要がありました。

■合戦の主体はあくまで家康にある

このように信長は家康のために出陣したのであって、この合戦の主体はあくまで家康にあります。現に家康はこの合戦に勝ち、少しずつ武田勢を追いこんで、ついに天正9年(1581)に高天神城を奪い返すのです。

当時の徳川と畿内を制した織田との力の差は歴然としていましたから、家康が援軍を要請し、その結果、信長自身が出馬してきた以上、徳川勢は獅子奮迅の働きをみせる必要があります。ここにこそ、長篠の合戦の謎を解く鍵があると考えています。よって一般的に長篠は「信長の合戦」といわれていますが、筆者はあえて家康の項で取り扱うことにしたのです。

まずは5月21日に設楽ヶ原で決戦の火蓋が切られるまでの流れを確認しておきましょう。

勝頼は守兵わずか500の長篠城を1万5000の大軍で囲み、5月8日から猛攻を加えました。一方、織田・徳川側は15日に岡崎城で合流し、総勢3万8000の大軍となって、18日に信長が設楽ヶ原の西、石座山(茶臼山)(図表1「長篠の合戦の両軍布陣図」参照、以下同)に着陣します。しかし信長はすぐに動きませんでした。後詰めにやってきて、長篠城が落ちたら元も子もありません。なぜなのでしょうか。『信長公記』からは、信長が武田勢の猛攻に備え、陣地を築いていたことが確認できます。

■信長が着陣してすぐに動かなかった理由

その陣地は石座山の織田陣地のほか、現存する遺構から弾正山(徳川陣地推定地)などに及び、それはもはや陣地という概念を越え、「陣城」(戦場における臨時の城)であったとされたこともありました。しかし、弾正山などに残る遺構の多くは明治以降の開墾の跡という結論がだされ、陣城説は否定されるようになりました。それでも信長が、馬防柵を含めて設楽ヶ原を前に土塁などをもうけて陣地を築いていたのは事実です。

跡部蛮『超新説で読みとく 信長・秀吉・家康の真実』(ビジネス社)
跡部蛮『超新説で読みとく 信長・秀吉・家康の真実』(ビジネス社)

この信長の動きは勝頼の目に、どう映ったのでしょうか。勝頼は、戦況を心配する国元の家臣へ、「敵(織田・徳川)はてだてを失い、ますます逼迫(ひっぱく)している。彼らの陣へ乗り懸け、信長、家康両敵ともに、このたび(討ち取って)本意を達することができるだろう」といっています。すなわち敵はどう攻めたらいいか策に窮して後方に引っこんだまま出撃してこないから、これを機に宿敵の信長と家康を討って本懐を遂げることはさほど難しくないというのです。

戦況を心配する家臣への手紙だから威勢のいい言葉が並ぶのは当然としても、勝頼は本当に敵が臆して陣地の中に引っこんでいると考えていたのかもしれません。もちろん信長もそうした勝頼の思考は計算済みだったことでしょう。桶狭間の合戦の項でみてきたとおり、敵に油断させるのは信長の戦術の基本のように思えます。

※ 清洲同盟=信長の居城清洲城(愛知県清須市)で結ばれたため、この織田・徳川同盟をこう呼ぶ。ただし、この同盟については見直しが進み、まず清洲城で信長と家康の両者が揃って会盟したという話に疑問が呈され、同盟の内容もこのときにすべて成立したわけではなく、順次、拡大していったという解釈が主流になっている。

《主な参考文献》平山優著『検証 長篠合戦』(吉川弘文館)、名和弓雄著『長篠・設楽原合戦の真実』(雄山閣)、鈴木眞哉著『戦国軍事史への挑戦』(歴史新書y)、同著『戦国「常識・非常識」大論争!』(同)、藤本正行著『長篠の戦い 信長の勝因・勝頼の敗因』(同)、小口康仁著〈「長篠合戦図屛風」の展開〉(中根千絵・薄田大輔編『合戦図 描かれた〈武〉』〈勉誠出版〉所収)、拙著『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』(双葉新書)

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跡部 蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家、博士(文学)
1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。出版社勤務などを経てフリーの著述業に入る。主な著書に『さかのぼり武士の日本史』『鎌倉幕府の謎』『信長を殺した男 明智光秀の真実』『超真説 世界史から解読する日本史の謎』『戦国武将の収支決算書』『幕末維新おもしろミステリー50』(いずれもビジネス社)、『「わきまえない女」だった北条政子』『「道」で謎解き合戦秘史 信長・秀吉・家康の天下取り』『秀吉ではなく家康を「天下人」にした黒田官兵衛』『古地図で謎解き 江戸東京「まち」の歴史』『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』(いずれも双葉社)、『こちら歴史探偵事務所! 史実調査うけたまわります』(五月書房新社)などがある。

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(歴史研究家、博士(文学) 跡部 蛮)

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