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どれかひとつでも欠けていたら信長は死んでいた…桶狭間の戦いが「奇跡の勝利」と言える4つの理由

プレジデントオンライン / 2023年6月17日 13時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Josiah S

1560年、織田信長は今川義元を桶狭間の戦いで破る。なぜ信長は圧倒的な戦力差を埋められたのか。戦国史研究家の乃至政彦さんは「突如降り始めたゲリラ豪雨が大きな要因だ。これがなければ、信長は死んでいただろう」という――。(第1回)

※本稿は、乃至政彦『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)の第二章「織田信長という男」の一部を再編集したものです。

■いまだ真相が明らかではない桶狭間合戦

ここから日本史上屈指の謎と見られている“桶狭間合戦”の内実に迫ってみよう。史料にあることを単純素朴に読み進めれば、次の経緯で展開したと考えられる。

まず信長の擁立する尾張の新守護・斯波義銀が政変を企んだ。永禄3年(1560)、桶狭間合戦の少し前ぐらいのことである。義銀は義元が自ら尾張国境を攻めると聞き、これを恐れた。

斯波家と今川家は長年の宿敵である。リアルに考えて、尾張一国を平定したばかりの信長が、駿河・遠江・三河を支配する義元に勝てる道理などない。もし信長が敗れたら、斯波家の族滅も考えられる。そこで自ら義銀は御家存続のため信長を売り渡すことにした。

首尾は密かに進められる。義元は尾張および三河北部に4万5000人の大軍を進めたというが、実際の人数は『定光寺年代記』に「尾州鳴海庄ニテ駿州軍勢一万人」が敗北したとあり、全軍合わせて1万前後であっただろう。

■なぜ籠城策をとらなかったのか

義元の作戦は、尾張大高城を救出し、自軍の本拠地としたあと、そこから海路を使って尾張北部へ侵攻することから始まる。先手勢はその先で尾張独立勢力の服部友貞と合流、さらに尾張一向衆(「河内二ノ江ノ坊主」)が、揖斐川経由で美濃の延暦寺系僧兵団を招き入れ、清洲に向かい、斯波勢が彼らに呼応して動くという流れだったようだ。

尾張一向衆の僧兵は、服部氏と同盟関係にあって同郡一帯を支配していた。この地は海面から美濃へと連なる尾張揖斐川があり、美濃揖斐川も一向衆勢力が根を張っていた。今川軍の侵攻が本格化すれば、僧兵たちは河川を伝って続々乱入する予定だったのだろう。

だが、この計略は信長の知るところとなる。義銀の家臣から漏洩したのだ。信長は軍議の席で、義銀と「一味同心」して籠城策を進める「御家老之衆」を無視して、雑談のみに興じる態度を取った。そして密かに行軍途中の義元を奇襲する決意を固めた。

籠城などすれば彼らに寝首を搔かれよう。しかるに行軍中の側面を衝けばどのような大軍でも間違いなく混乱させられる。そのような機会に恵まれる可能性は低いが、そこに勝負をかけたのだ。

■信長が打っていた布石

5月19日、今川義元旗本は桶狭間山(現在地不明)で休憩することにした。作戦が順調なので義元も「【訓読】義元が戈先(ほこさき)には、天魔・鬼神も忍(たま)るべからず、心地ハよし」と謡(うたい)を歌わせ、気分上々だったらしい。

『三河記』岩瀬文庫本は「義元ノ近臣五千ニハ不及、三千計ばかりニハ不過」と記しており、兵数3000以下だったと見られる。

その頃、信長は最前線の「中島砦」へ移動して、ここから桶狭間山へ突撃を仕掛けることを考えた。しかし左右の者たちはさすがに無謀と考えて「無理にすかり付(つき)」、信長を制止した。

そこで信長は「【意訳】運は天にありと知らぬか。不利になれば退き、敵の背を見て襲えば崩せる。敵の首は打ち捨てよ。勝てば末代までの名誉となるぞ」と将士たちを説得しようとする。そこへ別方面の小競り合いから戻ってきた者もいたので、彼らにもこれと同じ存念を言い聞かせて「二千に不足(の)御人数」で出馬した。

どれほどの勝算があったか不明だが、ひとつ布石は打っていた。別働隊である。信長は先に別働隊を桶狭間山方面に先遣させて陽動を狙っていた。寡兵の部隊を適度に攻めかからせ、今川軍を挑発していたのである。先の小競り合いから戻ってきた者たちも加わっていたかもしれない。別働隊の駆け引きは効果的だったようだ。

■突如起きた奇跡のような現象

桶狭間合戦では織田軍が鉄炮を有効に使用したことが、一次史料の永禄3年8月16日付・安房妙本寺宛・朝比奈親徳書状写に確かめられる。

【訓読】今川義元討ち死に、是非なき次第。御推察過ぎるべからず候、拙者の儀は最前鉄炮ニ当たり、その場に相仕らず候、

今川家臣の朝比奈親徳は、義元が討たれる寸前、鉄炮に負傷させられたため、主君の義元が戦死する時、旗本が崩壊する現場に居合わせられなかったというのだ。ということは、朝比奈隊は義元戦死の現場から離れた戦場にいたことになる。

織田の別働隊と戦っていたのだろう。親徳は織田別働隊から銃撃を仕掛けられ、応戦すべき状況に誘われていたのである。さらにここへ奇跡のような現象が尾張三河国境に迫っていた。突発的な豪雨が降り始めたのである。

緑の森に雨が降る
写真=iStock.com/stsmhn
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/stsmhn

『信長公記』首巻(天理本)によればその勢いは極めて強く、沓掛(くつかけ)城近くの「楠之木、雨ニ東へ降倒ル」ほどの豪雨であった(以後、本項の史料引用は特に説明のない限り同書を使う)。天が信長勝利の確度を高めた。沓掛の倒木を目撃したのは織田別働隊であると見られる。

今川軍は山地にいた。山の陣地は簡素な山城である。今川軍は低地から攻めてくる敵兵に、頭上から銃撃を仕掛けてさえいれば、まず痛手を喰らわない。それに人数も多い。いくつかの部隊が前に出ていたところで大事に至ることなどありえないのだ。ところがその鉄炮と防御陣が、魔法か何かで突然まったく使えなくなったらどうだろうか。

その魔法が降りかかったのである。

■今川軍の優位性が一気に失われた

今川軍は桶狭間山の野営地で雨晒しに遭っていた。信長はすでに中島砦を出ており、その近く「山際まで御人数」を接近させていたのだ。そこで強い西風を伴うゲリラ豪雨が降り掛かった。

『信長公記』首巻の文章と構成を見る限り、別働隊は義元から見て北面に、信長の本隊は西面にいたと考えられる。豪雨のため、織田軍も今川軍も、火縄が濡れて鉄炮を扱える状況ではなくなったことだろう。

予期しない雨礫(つぶて)に人々は苦痛を覚え、具足も重くなり、湿気に弱い弓矢は扱いにくくなっていた。大木を倒すほどの豪雨なら野営地も形を失っていたと考えられる。

ここに今川軍は設備と装備の優位を失った。そこに信長が「空晴ルを御覧し」てから鑓を手にとり、「すハかゝれ」と大声をあげて土煙を立てて突進した。今川軍は豪雨のため一部武具と施設が扱えなくなった。

それに加えて信長と別に先行する別働隊が沓掛方面で陽動を展開したことが織田軍勝利の要因となったと思われる。

■最側近・佐久間信盛の別働隊

さて、件の別働隊とは何か? それは信長が清洲から善照寺砦に移り、さらに中島砦へ移ろうとするところで描写されている佐久間信盛の隊である。

信長は善照寺砦の信盛と合流したが、「御人数備(そな)えられ、勢衆揃(そろえ)させられ、様体(ようたい)御覧し」とあるように、信盛は自身の隊を戦闘態勢に整えて信長に披露している。これは「御覧し」とあるので、自分の手勢を再編成しているのではない。信長はあくまで見ている側で、実行したのは別人である。他人が他人の部隊を編成しているのだ。

これがもし信長の部隊なら、砦に入った信長がわざわざ他人に少数の兵を再編成させるだろうか。今は急を要する状況で、しかもこれから自分で扱う少数の部隊である。他人に再編成させる余裕はどこにもない。信長が、信盛が信盛の隊列を揃える様子を見届けた描写と受け止めるのが適切だろう。

信長は自身の動員した兵員を整列させ、その御前で信盛が人数を再編する動きを監査した。隊列を整えているのだから、籠城する準備ではなく野戦準備である。信長は決死の勇士たちの出陣準備を厳粛に見届けたのだ。ここから信長は移動を開始する。

ゲリラ的戦術を使いながら、別働隊の戦いぶりを軸として、“その応援に向かう”“挟撃を狙う”“撤退する”などその場の状況に応じて生じる選択のうちから、最適解を模索しながら勝利を得るつもりで動き始めたのである。

■なぜか『信長公記』には記述がない

善照寺砦の別働隊が陽動を仕掛けていたことは、記主不明の『松平記』巻二(家康実母を「我等〔=記主〕父」が護送する記述あり。慶長末年成立ヵ)にも「善照寺の城より二手になり、一手は御先衆へ押来り、一手は本陣のしかも油断したる所へ押来り」と伝わっている。ただし、佐久間信盛の活動は『信長公記』首巻に記述されていない。

信盛は後年、信長に「信長代になり、三十年遂奉公内に、佐久間右(信盛)衛門無比類働申習候儀、一度も有之ましき事」と叱責(しっせき)され、追放の憂き目に遭った。

桶狭間の活躍を詳述すると、この追放が非道に見えてしまうので、その活躍を削除したのだろう。

■勝利できたのは奇跡に等しい

戦争の勝敗が一瞬でつく場合、諸隊の配置、施設と装備、奇襲の有無が決定要因として働くケースが一般的である。桶狭間の信長はこれら全ての条件が揃えられていた。

乃至政彦『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)
乃至政彦『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)

陽動によって分散した今川軍へ別働隊と本隊が挟撃を仕掛け、豪雨により飛び道具が使用不可となり、山地の防衛能力が極限まで低下する。そして迅速なる急襲を仕掛ける──。

どれかひとつでも欠けていたら戦死したのは信長だっただろう。今川軍は「弓・鑓・太刀・長刀・の(幟)ほり・さ(指)し物ハ算ヲ乱すにこ(異)とならす」と、もはや近接戦武具すら扱えない状態となり、完全に士気阻喪していた。

運は天にありというが、その運をつかんだのは信長の決断であった。永禄3年(1560)5月19日、晴天のもと、義元はあえなく討たれ、全軍「惣崩」となった。信長は勝利したのだ。

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乃至 政彦(ないし・まさひこ)
戦国史研究家
香川県高松市出身。著書に『戦国武将と男色』(洋泉社)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。新刊に『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)がある。書籍監修や講演でも活動中。 公式サイト「天下静謐」

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(戦国史研究家 乃至 政彦)

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