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マグニチュード7超の大地震が2日間に6回も起きていた…だれも詳細を知らなかった「関東大震災」の真実

プレジデントオンライン / 2023年6月21日 15時15分

インタビューに応じる名古屋大学減災連携研究センターの武村雅之特任教授 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

100年前の9月1日に起きた「関東大震災」とはどんな地震だったのか。『関東大震災がつくった東京』(中央公論新社)の著者で、名古屋大学減災連携研究センターの武村雅之特任教授は「私の分析が発表されるまで、正確な震源どころか、マグニチュード7超の大地震が2日間に6回も起きていたことも知られていなかった」という――。(聞き手・構成=ノンフィクションライター・山川徹)(第1回)

■関東大震災マグニチュード7.9に根拠はなかった

――関東大震災に着目したきっかけを教えてください。

もともと私は東北大学で地球物理学を専攻していました。その後、入社した鹿島建設で、建築設計に取り入れるために地震の揺れを予測する仕組みの開発などにたずさわっていました。ただ正直に言えば、物足りなさを感じていました。理学畑を歩んできたせいか、物事の本質を突き詰めていくような仕事をしたかったからです。

そんな私が関東大震災を研究するきっかけが、1992年12月。岐阜測候所(現在の岐阜地方気象台)で関東大震災の記録が残っていないか探し、発見したことです。

1923年9月1日に発生した関東大震災は、首都圏を中心に約10万5000人もの死者・行方不明を出しました。経済的な被害は、当時の金額で約55億円、現在の貨幣価値では約30兆円です。これは当時の日本のGDPの36.7%。国家存亡の危機だったのです。

関東大震災/阪神・淡路大震災/東日本大震災の比較
出典=『関東大震災がつくった東京』より

私が研究をはじめた当時から都内の高層ビルを建てる上で、関東大震災の揺れや震源を知ることが重視されはじめました。その頃から、関東大震災を起こした関東地震の規模はマグニチュード7.9と言われてきましたが、この値が正しいか誰も根拠を示せなかった。私にとって、それがすごく気持ち悪かった。

■「記録がないからわからない」と言われてきたが…

明らかになっていなかったのはマグニチュードだけではありません。関東地震の発生のメカニズムも、震源も、なぜ東京でもっとも大きな被害が出たのかも……正確に分かっていなかった。

たとえば、余震の数。一般的にマグニチュード8クラスの地震発生直後には、かなりの回数の余震が起きると考えられています。関東大震災当時は、煤を塗った紙を巻き付けたドラムを回転させながら振り子に連動させたペンで引っ掻いて揺れを記録する地震計を使っていました。しかしあまりの揺れの大きさに地震計の振り子やペンが振り切れたせいで、国内に満足な揺れの記録が残っていないと言われていました。

30年前、私は、岐阜測候所の観測室で、山積みになった段ボール箱に収められた気象紙を一枚一枚見ていきました。なんとそのなかに、1923年9月1日の地震発生直後から、9月3日までの揺れが記録された気象紙が出てきたのです。あの興奮はいまだに忘れられません。

関東地震の記象紙(岐阜地方気象台所蔵に加筆)と岐阜県博物館で保管されている今村式二倍強震計
出典=『関東大震災がつくった東京』より

■そんなときに阪神淡路大震災が起こった

――その興奮が30年間も研究に没頭する原動力になったわけですね。

そうです。その後、同じタイプの地震計を使っていた各地の気象台を片っ端から調査していったら、山形、高田、徳島、長崎などの気象台で振り切れていない気象紙が残っていました。そこから、マグニチュードを割り出してみると、マグニチュード8.1±0.2という数字が出てきました。ようやく従来、言われてきたマグニチュード7.9も許容範囲だったことが分かったのです。

マグニチュードについてはこうして分かったのですが、関東大震災でどの地域をどの程度の揺れがおそったのかも明らかになっていなかった。

ちょうどそんな問題意識を抱いていた時期に発生したのが、阪神・淡路大震災――1995年の兵庫県南部地震です。メディアは「震度7」「震度7」を繰り返し報じました。ただ日本の歴史を振り返れば、震度7の地震は珍しくありません。そこで明治時以降に震度7を記録したであろう地震を整理した論文を書きました。

■「被害統計をもう一度調べ直す必要がある」

記録したであろう、というのは、震度7が導入されたのが1948年の福井地震からだからです。それまでも震度7に相当する地震は関東大震災以外にもたくさんありました。1891年の濃尾地震、戦時中に発生した昭和東南海地震や三河地震……。明治以降から阪神・淡路大震災までで、10を数えます。

こうした過去の地震について整理していくなかで、関東大震災の震度分布(地域ごとの震度)や被害統計をもう一度、調べ直す必要があるのではないかと思うようになりました。

実は、我々の先生世代の研究者たちは「関東大震災の被害統計はいい加減だ」と批判はするけど、誰も検証しようとしなかったからです。

確かに、1990年代ころまでは関東大震災に関する被害集計データはデータ間の値の不一致が多くて信頼性に乏しいとされていました。それが家屋の全壊率を割り出す障害となっていたのは事実です。私がざっと見ただけでもデータが重複していたり、数値が合わない部分があったりしました。

でも、当時の人たちが苦労して、残してくれた記録でしょう。いい加減なものを残すわけがないと思っていました。解釈できないのは、現代の自分たちの努力が足りないからではないか、と。

私は、まず木造家屋の全壊率に着目し、東京各地の震度を割り出そうと考えました。

■残った記録から被害データを割り出した

――でも全壊率を明らかにするのは難しいと言われていたわけですよね。

やはりそこが一番の問題点でした。

本来、全壊率は対象となる市区町村で全壊建物数を全建物数で割れば分かります。しかし通常は全建物数は把握されていません。代替として世帯数を分母に、一世帯一住居と仮定し、全壊住家数を分子にすることが多い。

ただ東京は大火災の被害もありましたから、全焼したのが倒壊前だったのか、あとだったのかの判断も難しい。

さらに丁寧にデータを見ていくと都市部では長屋などの1軒の集合住宅に複数の世帯が入居していたり、逆に地方では納屋や外便所などの非住居が全壊数として数えられたりしていた資料もありました。

そうしたデータをひとつひとつ検証し、紐解いていき、被災した地域全体で統一した被害データを作成しました。住宅の全壊率から各地の推定震度を導き出しました。

関東地震の推定震度分布
出典=『関東大震災がつくった東京』より

ちなみに、震度7は神奈川県と千葉県南部のかなりの広さの地域に分布しますが、東京市(現在の東京都)では本所区(墨田区南部)が全壊率22%で震度6強、深川区(江東区の北西部)、神田区(千代田区の一部)、浅草区(台東区の東部)が震度6弱……。

余震についても、岐阜測候所の記録をはじめ各地の記録や体験談なども含めた被害状況などを分析した結果、M7以上の余震が6度も起きていたことが判明しました。こうした事実が明らかになったのは2003年のことでした。

余震の発生時刻と発生場所
出典=『関東大震災がつくった東京』より

■「全壊」の認定基準が変わってしまった

――関東大震災から80年が過ぎるまで各地の震度も明らかになっていなかったんですね。

そうなりますね。

関東大震災ではデータの重複などはあったものの、「全壊」「半壊」「一部損壊」の定義がいまよりもずっとしっかりしていました。

昔の全壊は非常に明快で家がペシャンコになっている状態。1階屋は屋根が、2階屋では軒が、地面についていること。かつては全壊10軒につき、犠牲者が1人出ると言われていました。関東大震災だけではなく、かつての地震でも奇妙に一致しています。

でも、いまは家屋被害の認定基準が変わったでしょう。「全壊」「大規模半壊」「中規模半壊」「半壊」「準半壊」「一部損壊」の6段階になった。加えて地震や判定する自治体によって、認定にばらつきがある。そうなると被害統計も客観的なデータとして扱えない。

■より多くの被災者を救済したい気持ちは分かるが…

――被災者は、住家が被害を受けたと認定されて、はじめて公的な支援が受けられます。広く支援するための措置なのではないですか?

もちろんたくさんの被災者を支援するために認定基準を変えたというのは分かります。行政の担当者も被災者を広く救援するために運用している。被災者を救いたいという思いも痛いほど理解できる。

武村雅之『関東大震災がつくった東京』(中央公論新社)
武村雅之『関東大震災がつくった東京』(中央公論新社)

ただ、その場その場の判断で基準を変えていると、過去からの連続性が失われてしまうのではないかと危惧を抱かざるをえません。

なぜ、全壊家屋が増えたのか、耐震設計にどんな問題点があるのか、どう改善すべきなのか、統計から読み取れなくなってしまう。

客観的なデータを残す作業と、被災者の救済は本来、別でしょう。家屋被害の認定基準や定義は変えずに被災者を救済する法律を改めて整備すべきなのです。

次の時代に客観的なデータを残していく。現代は自然災害を前にしたときにもっとも大切にすべき意識が薄れている気がします。関東大震災当時の人たちが、データを残していてくれたからこそ、100年後のいまも被害を多角的に検証できるわけですから。

(第2回へ続く)

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武村 雅之(たけむら・まさゆき)
名古屋大学減災連携研究センター特任教授
1952年生まれ。東北大学大学院理学研究科博士課程修了(理学博士)。鹿島建設を経て現職。日本地震学会、日本建築学会、土木学会、日本活断層学会の理事、監事、委員、歴史地震研究会会長、日本地震工学会副会長、中央防災会議専門委員などを務める。2007年に日本地震学会論文賞、12年に日本地震工学会功績賞、13年に日本建築学会著作賞、17年に文部科学大臣賞(科学技術部門)を受賞。専門は地震学、地震工学。主な著書に『関東大震災を歩く』(吉川弘文館、2012)、『地震と防災』(中公新書、2008)がある。

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(名古屋大学減災連携研究センター特任教授 武村 雅之)

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