揺れの犠牲者は4%だった…関東大震災で「東京での焼死者6万人超」という途轍もない被害が出た理由
プレジデントオンライン / 2023年6月23日 11時15分
■犠牲者10万5000人を生んだ明治政府の罪
――『関東大震災がつくった東京』では、いまの東京の原形が関東大震災後の「帝都復興事業」によって形作られたと指摘されています。
明治以降、東京は道路や公園などの整備を行わないままに人口が集中する木造家屋が密集する地域を放置し、拡大を促進してきました。
明治政府の都市政策の誤りが、東京市(現在の東京23区に相当)だけで30万を越す焼失世帯を生み出し、68660人もの犠牲者を出す原因となりました。
関東大震災全体の犠牲者は約10万5000人。首都圏全域が揺れたにもかかわらず、約65%の犠牲者が東京市で出ています。しかも東京市15区の最大震度は、本所区(現在の墨田区南部)の震度6強。一方、神奈川県のほぼ全域や千葉県南部は震度7を記録し、相模平野や足柄平野、鴨川低地では家屋の全壊率が100%に達した自治体もありました。対して東京市全体の全壊率は7.8%に過ぎません。
なぜ、これほど東京で被害が拡大したのか。
それは、火災による犠牲者が増えたからです。東京15区では揺れによる圧死者が2758人だったのに対して、焼死者は65902人。実に犠牲者の96%が焼死者だったのです。
![東京市15区の被害](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/4/3/1200wm/img_4378b05408ece74430814fcb50f46f46478588.jpg)
最大の人的被害を出したのが、本所区(現在の墨田区南部)の陸軍被服敞跡地です。広大な空き地だった被服廠跡には、約4万人もの被災者が家財道具などを持って避難していました。やがて被服廠跡に達した火の粉が次々と家財道具に燃え移り、火災旋風(火災によって発生する竜巻)が発生しました。避難者の多くは一酸化炭素中毒になり、一部は炎もろとも上空に巻き上げられ、命を落としたと言われている。犠牲者は、避難者の約95%、3万8000人に達しました。
「帝都復興事業」は、関東大震災の反省に立って、計画されたのです。
――明治政府は都市政策でどんな誤りを犯したのでしょう。
明治時代も戦後の東京における乱開発と似たようなことが起きているんです。
■無計画な市街地拡大で木造家屋が密集した
新政府は、江戸の面積の約7割を占めた武家地を没収し、公用地や官僚の住宅地に利用しました。本所区、深川区(江東区北西部)の屋敷があった場所は農地にしたあとに、工業地帯として転用されました。
低地のために地価が安く、水運の便もよかった本所、深川を流れる小名木川、竪川、横十間川沿いには、工場が建ち並びました。
本所では明治28(1895)年の段階で約8万だった人口が25年後の大正9(1920)年には3倍強の約26万人になりました。深川の人口増加はさらに激しく、約5万人(明治24年)から約25万人(大正9年)と5倍に増えました。
こうして本所、深川は木造家屋の密集地帯になり、関東大震災直後に各地で火災が起きた。
![東京市における火災動態地図と死者数の分布](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/5/2/1200wm/img_5276addce7f5b9224ad0859c2abc89801102373.jpg)
■過密地帯を江戸時代のまま放置も…
残り3割の町人地は、江戸時代から変わらず超過密エリアのまま。たとえば、江戸時代から超過密な町人地だった日本橋区(中央区北部)や京橋区(中央区南部)では、関東大震災の揺れで倒壊した家屋こそ少なかったのですが、強風の影響で飛び火して家屋の焼失率が100%に達してしまった。
日本橋区、京橋区では、明治に入って市電が走る表通りは拡張された一方、裏通りに残された江戸時代のままの木造家屋密集地帯が、焼失を食い止められなかった原因となりました。
また、もともと沼地だった浅草区(台東区東部)の北部は、江戸時代はほとんどが農村地帯でした。明治以降の市街地拡大によって木造家屋密集地帯になり、かつての曲がりくねった農道をそのまま生活道路として利用していました。地盤も軟弱だったために、地震直後から火災が発生し、被害が拡大したのです。
■1人当たりの公園面積はたったの0.3坪だった
無計画な市街地の拡大に加え、関東大震災の被害を大きくした一因が、公園の少なさです。日比谷公園、浅草公園、上野公園など33の公園がありましたが、関東大震災前の公園事情は極めて悪かった。
![インタビューに応じる名古屋大学減災連携研究センターの武村雅之特任教授](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/a/9/1200wm/img_a9be4a49e5173c8380a1662243adff91893482.jpg)
東京市のひとりのあたりの公園面積は0.3坪。ロンドンの2坪半、パリの2坪、ワシントンの16坪という数字を比較すると東京の公園の面積がいかに狭いかが分かるでしょう。
明治政府の市区改正計画では49カ所の公園の整備計画が立てられましたが、実現していなかったのです。
――公園の整備が進まなかった理由はなんですか?
市民が必要を感じていなかったのも原因のひとつです。そんな市民の意識を関東大震災が変えました。「浅草の観音様にも公園があったから何万人が助かった」とか「上野公園で何万人が助かった」とか「深川では岩崎さんの別荘があったからたくさんの人が救われた」とか……非常時の避難場所としての公園に注目するようになったのです。
■「ロンドンやパリのような品格を持つ首都を」
明治以降、一貫した思想がないなかで街づくりが進みました。悪い地盤の上に、区画整理もせず、道路も公園もつくらずに人口が集中する町が無計画にできてしまった。その結果、関東大震災の被害が拡大した。その反省に立って立案されたのが、「帝都復興事業」です。
「帝都復興事業」にたずさわったアメリカの歴史学者ビーアドは「西洋の猿真似ではない、ロンドンやパリのような品格を持つ首都にしなければならない」「日本建築を取り入れた日本固有の帝都を建設する必要がある」と語っています。そうすれば、復興後に観光の役にも立つ、と。
![東京復興事業の内容(復興記念館パネルに加筆)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/f/0/1200wm/img_f008c0e26bfd82563e1b8cb5bbde11f3570757.jpg)
もちろん目的は、関東大震災からの復興です。耐震、耐火の街づくりが前提としてありました。防災と言うと自然災害から市民の命や生活を守ればいいと考えられがちですが、防災は街を守りたいという人たちの思いから生まれると考えれば、ベースには市民が誇りを持てる品格ある街である必要があったわけです。
■「帝都復興事業」がインフラの基礎になっている
大正13年から足かけ7年にわたった「帝都復興事業」の柱は、道路建設とそれにともなう土地区画整理でした。
![武村雅之『関東大震災がつくった東京』(中央公論新社)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/3/b/1200wm/img_3b852a55b66433de6f0cce8957be9522349698.jpg)
焼失区域には、22メートルから73メートルの幅の幹線街路だけで大小117キロにもわたって敷設されました。街路の幅員は22メートル以上と定められましたが、将来地下鉄を通す可能性があるエリアは27メートル以上と決めました。
当時はまだ銀座線の上野―浅草間の工事が着工しただけ。ほかの路線はすべて戦後の開業です。現在、「帝都復興事業」で整備された道幅27メートル以上の道路の下には、地下鉄が走っています。こうした復興事業が約7億円……現在に置き換えると約4兆円もの予算を費やして行われたんです。
――いまも「帝都復興事業」の恩恵にあずかっているわけですね。
そうです。「帝都復興事業」は100年後を見据えた街づくりだった。現に、今年で関東大震災から100年が経ちますが、幹線街路や公園以外にも多くの橋梁などいまも使われているインフラはたくさんあります。まさに都心部は今も「帝都復興事業」に支えられているのです。
■隅田川に架かる橋が美しい理由
隅田川に架かる橋だけを見てみても、永代橋、清洲橋、蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋、言問橋が現存しています。橋梁の建設で特筆すべきは、耐震性だけではなく「美観」が重視されたこと。
関東大震災発生から昭和天皇が臨席した昭和5(1930)年の「帝都復興祭」までを丹念に追った『帝都復興史』にも〈橋梁の美観〉についての記述があります。〈すべて同じ型にすべきでない。それぞれの橋が特色を出して美しさを競い合うべきだ。ただ安っぽい装飾を避け、飽きがない上、空が必ず見えるように細心の注意が払われている〉という内容が記してある。
いまも隅田川を船で遊覧すると、橋梁のひとつひとつに目を奪われるでしょう。品格があり、橋が街の風景に調和しているからです。そこが、戦後の建築物とは違う。
![現在の隅田川に架かる橋](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/b/f/1200wm/img_bfc8db72d282cd50cf64ff034edf86591009891.jpg)
日本で公共構造物について、大規模かつ真剣に価値尺度を美観に求めて検討した例は、おそらくあとにも先にも「帝都復興事業」だけだと思います。
ひるがえって、いまの東京の街づくりには100年先を見通すビジョンは感じられません。10万人以上が犠牲になり、急を要する首都復興おいて、なぜ、これだけ丁寧な物作り、街づくりができたのか……。いまこそ「帝都復興事業」について改めて考えてみる必要があると思うのです。
(第3回に続く)
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名古屋大学減災連携研究センター特任教授
1952年生まれ。東北大学大学院理学研究科博士課程修了(理学博士)。鹿島建設を経て現職。日本地震学会、日本建築学会、土木学会、日本活断層学会の理事、監事、委員、歴史地震研究会会長、日本地震工学会副会長、中央防災会議専門委員などを務める。2007年に日本地震学会論文賞、12年に日本地震工学会功績賞、13年に日本建築学会著作賞、17年に文部科学大臣賞(科学技術部門)を受賞。専門は地震学、地震工学。主な著書に『関東大震災を歩く』(吉川弘文館、2012)、『地震と防災』(中公新書、2008)がある。
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(名古屋大学減災連携研究センター特任教授 武村 雅之)
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