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「湾岸のタワマン」はリスクが大きすぎる…震災の専門家が「倒壊しなければいいわけではない」と警告するワケ

プレジデントオンライン / 2023年6月24日 9時15分

浅草松屋屋上から見た地下鉄ビル、雷門跡、仲見世などの焼跡。(写真=日本写真公社・深尾晃三/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

最近、住まいとして人気を集める「タワーマンション」は、地震などの災害に耐えられるのだろうか。このほど『関東大震災がつくった東京』(中央公論新社)を上梓した、名古屋大学減災連携研究センターの武村雅之特任教授は「倒壊することはないだろうが、特に湾岸部では孤立化の恐れがある。たとえば関東大震災では、東京・月島が3年2カ月にわたって孤立化した」という――。(聞き手・構成=ノンフィクションライター・山川徹)(第3回)

■空襲は「千載一遇のチャンス」だった

――関東大震災後に行われた「帝都復興事業」により、東京は耐震、耐火で品格のある都市に生まれ変わりました。にもかかわらず、100年後の現在、なぜ、東京は首都直下地震におびえなければならないのでしょうか。

それは戦後復興に失敗したからです。

関東大震災後の「帝都復興事業」は焼失した地域に限られて行われました。裏を返せば、火災が発生しなかった郊外は手つかずのまま放置されたのです。

インタビューに応じる名古屋大学減災連携研究センターの武村雅之特任教授
撮影=プレジデントオンライン編集部
インタビューに応じる名古屋大学減災連携研究センターの武村雅之特任教授 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

都市化を見据えて区画整理を実施した先見の明がある首長や地主もいましたが、ごく一部にとどまりました。

大半の地域では道路などの整備が行われず、人口が増え、木造家屋の密集地帯が広がっていった。そうした密集地帯が太平洋戦争で空襲を受け、甚大な被害を受けた。

太平洋戦争では、東京は関東大震災を上回る面積が焼失しました。戦後、関東大震災後の「帝都復興事業」のような100年後を見据えた街づくりが行われずに現在にいたってしまっているのです。

■戦後「東京戦災復興計画」が策定されたが…

――関東大震災から終戦まで23年間しか経っていません。23年前にできた「帝都復興事業」のようなプランを戦後に実施できなかった原因はどこにあるのですか?

東京都にも「帝都復興事業」のようなプランはあったんですよ。1945年3月9日の東京大空襲後、戦争に勝つにしても負けるにしても東京の復興は急務だと内務省が復興計画を練り始める。そうした動きのなかで、「東京戦災復興計画」を策定したのが、都市計画家で東京都都市計画課長の石川栄耀です。

「東京戦災復興計画」の特徴は、市街地の外周に緑地地域をつくり、市内には河川に沿って公園緑地を整備し、交通、防災、保健、景観上の観点から幅100メートル、80メートルという植樹帯を持つ広い街路を敷設しようとしたこと。

都の都市計画課が作成した都民への啓蒙映画「二十年後の東京」では〈新しい時代にふさわしい、新しい形の都をつくり出すための絶好のチャンス。この千載一遇の好機会をむなしく見送ってしまうようだったら、私たち日本人は、今度こそ本当に、救われがたい劣等民族だと世界中の物笑いの種にならなくてならないでしょう〉と「帝都復興事業」にも似た言い回しをしています。

■「机上の空論」都知事が握りつぶしてしまった

しかし石川栄耀の「東京戦災復興計画」は実現しなかった。

都知事の安井誠一郎が「東京戦災計画」を机上の空論だとして、握りつぶしてしまったからです。

安井誠一郎は、関東大震災と戦災では事情が異なり、都市計画よりも都民の衣食住を優先すべきと考えた。その結果、当初の計画では約2万ヘクタールあった区画整理対象エリアで、実現したのはわずか6%。またGHQの農地改革で公園用地が農地と見なされ、私有地とされました。その上、政教分離政策で、もともと公園とされていた寺社などの土地の私有地化も進んでしまう。

一方で名古屋や仙台なども空襲の被害を受けましたが、行政のトップも都市計画の専門家も議会も同じ方向を向いて、戦後復興に向かった。とくに名古屋市は戦後復興の優等生と言われるが、目先の食糧難より将来の名古屋市民のためにと復興計画を推し進めた。

■東京オリンピックが東京を改悪した

――終戦から78年間、東京をつくりなおす機会はなかったのでしょうか。

GHQによる占領が終わり、朝鮮戦争特需がはじまり、高度経済成長に移行しても東京の都市整備は進みませんでした。

人口の密集や都市部の交通マヒの解消は喫緊の課題でした。安井誠一郎は、戦後復興の失敗で顕在化した東京の問題を一気に解決できる起死回生の政策を打った。それが、1964年の東京オリンピック誘致です。しかし東京オリンピックに乗じた開発も東京に新たな問題を残すことになってしまいます。

オリンピック五輪
写真=iStock.com/BalkansCat
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/BalkansCat

イベント便乗型の開発は財源の確保には適していますが、弊害が少なくありません。

まずその計画がイベントの内容や開催に左右される。イベント便乗型ではほとんどの場合、短期間で、しかも決まった費用で事業を進めなければなりません。長期的なビジョンに立った計画がどうしても難しい。未来に禍根を残してしまうことが多いのです。

■建設費高騰と工期長期化で「景観」は二の次に…

――64年の東京オリンピックではどんな禍根を残したのでしょう。

いくつかありますが、あえてひとつ挙げるとすれば、効率性、経済性優先の都市開発の出発点というべき、首都高速道路による水辺破壊です。

たとえば、日本橋川に架かる江戸橋は、「帝都復興事業」でもっとも中小河川で費用をかけてつくられた橋梁です。しかし東京オリンピックを契機につくられた首都高速道路を上空すれすれに通すために、中柱が切られて3つの道路に覆われ、いまにも押しつぶされそうになっています。

昭和通り江戸橋付近
昭和通り江戸橋付近(写真=『関東大震災がつくった東京』より)

――「帝都復興事業」の特徴を教えてください。

橋梁の全景を見ることも難しい。首都高速道路が織りなす東京でもっとも醜い風景のように感じます。

――耐震、耐火だけではなく、美観にも配慮した「帝都復興計画」とは真逆の開発ですね。

江戸のシンボルだった隣の日本橋もそう。上を通る都心環状線の高架橋が低く、青銅製の2頭の麒麟を配した照明灯が、高架橋の函桁に挟み込まれてしまっています。当時、日本橋の景観が損なわれるから、高架橋をもっと高くできないか、と反対した都の職員もいたそうです。しかし建築費が高くなり、工期が延びるから、と無視された。

■建物を強くするだけでは人の命は守れない

それは景観だけの問題ではありません。都度都度のイベントに便乗した経済性、効率性を重視したその場しのぎの無秩序な開発を続けたせいで、東京は関東大震災後に取り組んだ防災の機能も失ってしまった。

確かに、東京に建つ超高層ビルひとつひとつには耐震設計がほどこされています。だけど、建物を強くするだけで、災害から人を守れるのか。

いったん地震が発生したら、都心の高層ビルで働く人たちは帰宅困難者になってしまいます。帰宅が遅れるだけならばいい。でも超高層ビルで、働いたり、暮らしたりする人が一気に外に避難した場合どうなるのか。

関東大震災当時の東京市長だった永田秀次郎は「道を歩まんとすれば道幅が狭くて身動きもならぬ混雑で実に有らゆる困難に出遭った」と震災時を語っています。

当然、余震も起きる。あるいは、火災が発生するかもしれません。そんななか、冷静に整然と避難できるのか……。

それが難しいことは子どもだって分かるでしょう。

■「帰宅困難者」も「閉じ込め」も想定されていない

――昨年、韓国ソウルの梨泰院で群衆雪崩が発生する事故も起きましたね。

武村雅之『関東大震災がつくった東京』(中央公論新社)
武村雅之『関東大震災がつくった東京』(中央公論新社)

そう。人間が必要以上に集まったら、思いもしない事態に陥る。人口が集中する東京ならなおさらです。

さらに超高層ビルの林立は、無数のエレベーターの存在を意味します。大地震が発生すれば、たくさんの人たちがエレベーターに閉じ込められるでしょう。狭いなかに長時間閉じ込められたら、命を落とすリスクもある。交通もマヒするから、救急車が到着しないかもしれない。

高層ビルは地震での倒壊確率が0と仮定されているだけで、大量の帰宅困難者やエレベーター内の閉じ込めの危険性は考えられていません。

■月島は3年2カ月にわたって孤立した

また豊洲や有明、晴海や月島などの湾岸地区の埋め立て地にも次々とタワーマンションが建っています。

晴れ秋の隅田川 明石町カシ公園
写真=iStock.com/Korekore
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Korekore

地震が発生すれば、エレベーターが使えないから高層階に暮らす人は避難もできない。仮に避難できたとしても、過度に人口が密集しているために、避難所が足りない。埋め立て地は液状化が発生すれば、水道などのインフラも断絶する恐れもある。

なかでも月島は、関東大震災で焼失した相生橋が再建されるまで3年2カ月もの間、孤立を余儀なくされました。月島のタワーマンションに暮らす人たちはその事実を知っているのかと心配になります。

10万人以上が命を落とした関東大震災から今年9月1日で100年を迎えます。100年前、東京でどんな被害があり、市民がどのような思いで復興してくれたのか。近年、危険性がさかんに叫ばれる首都直下地震にどう備えるかはもちろん、現在の東京が100年後を見据えた街になっているのか――そのヒントが100年前にあるのです。

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武村 雅之(たけむら・まさゆき)
名古屋大学減災連携研究センター特任教授
1952年生まれ。東北大学大学院理学研究科博士課程修了(理学博士)。鹿島建設を経て現職。日本地震学会、日本建築学会、土木学会、日本活断層学会の理事、監事、委員、歴史地震研究会会長、日本地震工学会副会長、中央防災会議専門委員などを務める。2007年に日本地震学会論文賞、12年に日本地震工学会功績賞、13年に日本建築学会著作賞、17年に文部科学大臣賞(科学技術部門)を受賞。専門は地震学、地震工学。主な著書に『関東大震災を歩く』(吉川弘文館、2012)、『地震と防災』(中公新書、2008)がある。

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(名古屋大学減災連携研究センター特任教授 武村 雅之)

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