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「Aが1億円もらうならBは2億円(2倍)もらえる」ルールでAが「片眼をつぶして」と言った浅はかすぎる理由

プレジデントオンライン / 2023年6月16日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/GlobalP

幸せな気持ちを享受するにはどんな心持ちでいるといいのか。古今東西の寓話を読み解いたキャリアカウンセラーの戸田智弘さんは「とかく人は自分の幸福度合いを、他人の幸福度合いと比べて判断しがち。自分の幸不幸と、他人の幸不幸を切り離すことが肝要です」という――。

※本稿は、戸田智弘『人生の道しるべになる 座右の寓話』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の一部を再編集したものです。

「強欲(ごうよく)な牛飼い」

九九頭の牛を飼っている金持ちがいた。だが、彼は幸せではなかった。「あと一頭で一〇〇頭になる」ということが頭から離れなかったからだ。彼は九九頭もの牛を飼っていることに満足できず、一〇〇頭でないことに不満を覚えた。

そこで彼はわざとボロの服を着て、一頭の牛で細々と暮らしている友人の家を訪ねた。金持ちはその友人に言った。

「お前はいいなぁ。私には一頭の牛もない。何にも食べるものがなくて困っている。これからどうやって食べていこうかと毎日毎日、心配ばかりしている。お前がうらやましいよ」

友人はびっくりして言う。

「そんなに困っているとは、ちっとも知らなかった。それなら、この牛を差し上げよう。私はこの一頭の牛がいなくても何とかやっていける」

金持ちは心の中でペロリと舌を出しながら、牛を連れて帰った。その日、彼は幸せだった。牛が念願の一〇〇頭になったのだから。

一方の友人も幸せだった。生活に困っている友達をいささかなりとも助けてあげることができたのだから。

■善いことの中に喜びを見出す

金持ちの男(以下Aとする)もその友人の男(以下Bとする)も幸せいっぱいで喜びに満ちていた。では、どちらの喜びが本物だろうか。

まずAの喜びの中身は牛が一〇〇頭になったことである。したがって、その喜びは長続きしない。欲望の塊のような男だから、家に牛を連れ帰ったとたん「よし! 次の目標は二〇〇頭だ!」と思う。そして、「いかにして手っ取り早い方法でその目標を果たすか」に頭をはたらかせる。次回もまた今回のような悪事をはたらくに違いない。

対して、Bの喜びの中身は、困っているAの役に立てたことである。もちろん、自分の牛を与えたのだから実益面ではマイナスだ。しかし、心の広い(無欲な)自分、他人の喜びを自分のことのように喜べる自分を誇りに思い、自尊心を高めることになるだろう。

悪いことの中に喜びを見出す人間ではなく、善いことの中に喜びを見出す人間になりたいものだ。

「修道女の研究」

ノートルダム教育修道女会には、一九三〇年代に一八歳で修道女会に入った修道女たちの書類が残されている。入会にあたって提出された「自伝的作文」である。

研究者たちは、その作文を分析し、修道女それぞれが持っているポジティブ感情の度合いをランク付けした。作文に綴(つづ)られているのは、主に信仰に関する思いだ。

信仰の「喜び」などを中心にして書かれたポジティブ度の高い文章もあれば、キリスト教における原罪をはじめとする「罪の意識」などがしきりに語られるポジティブ度の低い文章もある。研究者たちはそれらの言葉を拾っていくことでポジティブ度の程度を分類し、書き手である修道女たちの後年の健康や生存率との関係を調べた。

入会時のポジティブ感情の度合いが高かった上位四分の一と、低かった下位四分の一を比較すると、八五歳時点での生存率が前者では九〇%であるのに対して後者では三四%にとどまった。九四歳時点での生存率が前者では五四%であるのに対して後者では一一%だった。

平均寿命で比較してみても同様の結果が見られ、前者のほうが後者より平均九・四年も長寿だった。

■ポジティブだと健康で長生きできる

戸田智弘『人生の道しるべになる座右の寓話』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)
戸田智弘『人生の道しるべになる 座右の寓話』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)

修道院では基本的にすべての修道女が同じ環境のもとで生活を送る。違いがあるとすれば、各個人の内面のありよう――具体的には感情や考え方――だけということになる。こういう特殊な条件がそろっていたがゆえに、心理的要因が健康や長寿に与える影響がはっきりと証明されたわけだ。

ここで重要なのは「ポジティブ感情と〈健康や長寿〉の間に“相関関係”が認められる」ということにとどまらず、「ポジティブ感情→〈健康や長寿〉」という“因果関係”を認めることができたという点である。

自分が健康で長寿であるから、ポジティブな感情になっているということなら誰も驚きはしない。しかし、修道女が「ポジティブな感情で生活しよう」と心がけたことで健康や長寿が得られたとなると、人々の受け止め方は違ってくる。心のありようが、人生の現実(健康状態)や人生の長さ(寿命)までも変えるというのだから。

二倍の願い

道を挟んで二軒の肉屋が商売をしていた。あるとき、一軒の肉屋の主人に神様がこう告げた。

「お前の願いをなんなりと叶えてやろう」

肉屋が自分の願いを言おうとしたとき、神様がこう続けた。

「ちょっと待ちなさい。お前の願いはすぐに叶えてやるが、向かいの肉屋にはお前にやる二倍を授けてやることになっている。お前が一億円をくれと言うのならば、お前にすぐさま一億円をやる。ただ、同時に向かいの肉屋には二億円やることになる。よく考えてから、お前の願いを言いなさい」

肉屋は困った。しばらく考えてから神様に質問をした。

「それじゃあ、私が不幸を願えば、向かいは私の二倍だけ不幸になるのですか?」
「そうだ。その通りだ」
「わかりました。では、神様、私の片眼をつぶしてください」

男性の目の接写
写真=iStock.com/PeopleImages
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PeopleImages

■自分と他人の幸不幸を切り離す

この後どうなったのだろうか。神様は、主人公である肉屋の主人の望み通りに彼の片眼をつぶし、向かいの肉屋の主人の両眼をつぶしたであろう。

客観的にみれば、二人とも不幸になった。しかし、主人公はそう思わなかった。自分も不幸になったが、向かいの肉屋の主人が自分よりももっと不幸になったのだから、自分は相対的に幸福になったと考えたのだ。馬鹿げた話である。

「隣の貧乏は鴨の味」「他人の不幸は蜜の味」ということわざが示すとおり、私たちは他人の不幸を喜ぶ傾向を持っている。なぜかと言えば、自分の幸福度合いを、他人の幸福度合いと比べて判断するからである。

「自分は決して幸せではない。しかし、あの人に比べれば自分はまだましだ。よって、自分はそこそこ幸せである」という思考回路で自分を慰めるのだ。

私たちは自分の様々な欲求が満たされること、つまり自分が幸せになることをめざして行動する。

ところで、私がどう行動するかは他ならぬ私が選択する。ということは、自分が幸せになれるかどうかの責任は自分自身にある――すべてではないが――ということになる。ある人が幸せになるかどうかの責任は、その人以外の人にはないということだ。

こういう考え方を頭に置きながらこの寓話を今一度読んでみると、どうすれば隣人が幸福になれるか、どうすれば隣人が不幸になるのか――そういうことを主人公である肉屋の主人がコントロールしようとしたから話がおかしくなるのである。この寓話から学ぶべき教訓は、自分の幸不幸と、他人の幸不幸を切り離すことが肝要ということである。

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戸田 智弘(とだ・ともひろ)
キャリアカウンセラー
1960年愛知県生まれ。北海道大学工学部、法政大学社会学部卒業。著書に『働く理由』『続・働く理由』『学び続ける理由』『ものの見方が変わる 座右の寓話』(以上、ディスカヴァー)など。

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(キャリアカウンセラー 戸田 智弘)

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