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皇后・雅子さまと秋篠宮妃・紀子さまの人気は、なぜ逆転したのか…結婚30年を過ぎた2人の「幸福度」を考える

プレジデントオンライン / 2023年6月16日 17時15分

春の園遊会に臨まれる天皇、皇后両陛下と秋篠宮ご夫妻ら皇族方=2023年5月11日、東京・元赤坂の赤坂御苑 - 写真=時事通信フォト

■ふたりの妃の人生、幸せなのはどちら?

ご成婚から30年を迎えた雅子皇后と33年になる秋篠宮紀子妃、どちらの人生が幸せなのだろう。

この難問に答えられる人はいないだろう。

特にこの2人は、「不思議なことに、世間では紀子さまが持ち上げられると雅子さまの人気が下がり、雅子さまが復権すると今度は紀子さまが、といったシーソーのような関係が続いています」(コラムニストの辛酸なめ子氏=週刊新潮6月15日号)

悩んだ末にBingの生成型AIに聞いてみた。AIに一番苦手なのがこうした質問だが、案の定、こんな答えが返ってきた。

「彼女たちは、それぞれの立場で、皇室のために尽力されています。また、彼女たちが幸福な人生を歩んでいるかどうかは、私たちが判断することではありません」

その通りではあるが、ここで判断を停止してしまうと、この原稿が書けなくなる。

以前にも書いたかもしれないが、私は人間誰でも「幸福の総量」は生まれながらに決まっていると思っている。 2人の人生を考えるためには、結婚当時のことを今一度思い返してみるのがいいのではないか。

その前に断っておきたいが、私は、秋篠宮と紀子さんの現状が不幸だなどと決して思っているわけではない。しかし、共に皇室という未知の世界へ飛び込んだ2人の一般女性が、結婚30年を過ぎた今、2人の「幸福度」にいくらかの差が感じられるのはなぜなのかを考えてみたいと思ったのだ。

■小和田雅子さんは結婚を何度も断っていた

当時、皇太子は小和田雅子さんとの結婚を強く望んだが、彼女は外務省のバリバリのキャリアウーマンで、「外務省で大変やりがいのある仕事をしている。辞めたくない」と何度も断ったといわれている。

一部報道では、当時、付き合っている男性がいたともいわれた。私も週刊誌の現場にいたが、彼女の意志を尊重すべきではないか、皇太子は諦めるしかないと考えていた。

この間の事情を、成城大学の森暢平教授が、サンデー毎日(6月18日号)の「社会学的皇室ウォッチング!」でこう書いている。

「結婚が決まったのは1993(平成5)年1月19日の皇室会議だが、出会いは6年ほど前に遡る。この間、話は一度白紙となった。宮内庁側で問題になったのは、祖父がチッソの社長であったことである」

祖父の江頭豊は興銀の銀行マンだったが、1964(昭和39)年から1971年まで水俣病の原因企業であった「新日本窒素肥料(のちにチッソと社名を変更している)」の社長を務めていた。

水俣病が社会問題になったのは昭和30年代の初めで、患者の一部に見舞金が払われたのは昭和59年だったから、多くは江頭社長の在任中であった。被害者たちと株主総会で全面的に対峙する立場にあり、「補償額を縮減しようと一部被害者を怒らせ、解決を遅らせた社会的な責任はやはりあると私は考える」(森教授)

■旧態依然たる考えを覆したのは“熱情”だった

雅子さんに問題があったわけではないが、当時の宮内庁では、皇太子のお嫁さんは「清潔で立派な家庭」という古めかしい考え方が支配していたようだ。

森教授によれば、雅子妃が候補として消えた後、ある女性が有力候補になったことがあったという。

だが、「やはり曽祖父が朝鮮総督府で武断政治を進めた幹部であったことが問題となった。昭和から平成の妃選考では、家系と血筋が依然として重要だったのである」(森教授)

そうした宮内庁の旧態依然たる考えを覆したのは、皇太子の雅子さんに対する“熱情”であった。

文藝春秋(7月号)ではジャーナリストの友納尚子氏が、皇太子が小和田雅子さんと結婚するまでの「秘話」をこう明かしている。

1992年2月、赤坂東宮御所の一室には皇太子と菅野弘夫東宮大夫の2人。それまであまたのお妃候補たちが浮かんでは消えていった。さらに広い範囲から候補をピックアップしようと大夫が説明している時、皇太子が思いもよらぬ人物の名を挙げたという。

「小和田雅子さんではだめでしょうか」

彼女は5年前、小和田家から人を介してやんわり辞退する旨が伝えられており、お妃候補からは消えていたのだ。

このことはこれまでも報じられていたが、陛下が即位した後なら公にしてもいいといわれ、友納氏が聞いた秘話を披露している。

■5年もの間「ずいぶん待ちました」

皇太子は雅子さんについて次のように語ったという。

「いつも周りの人たちを気遣うような思いやりのある方でした」「はにかむ……というか、そういう笑顔がとても印象に残っています」

皇太子は5年間、雅子さんのことを思い続けていたのである。皇太子は浩宮時代の二十歳の誕生日会見で、結婚する人はどんな人がいいかと聞かれ、

「人の苦しみや悩みとかの心情をおしはかって、思いやれる人がいいと思います。皇族は色々な人と会う必要がありますが、いろいろな経験を積んでいる人なら人の心が分かってくると思います。家柄の良い人というけれど家柄がいいゆえに世間知らずに育ってしまって他人の心が良く分からない人では困ります」

と答えている。

結婚相手については、「最終的には自分で決めたいと思っています」と意思表示していたが、これは「皇太子の初めての反抗」とまでいわれたほど、我を出さない皇太子にしては珍しいものだった。

大夫は皇太子の言葉を聞いて、「お決めになられたのですね」というと、「ずいぶん待ちました」といい、表情に迷いは感じられなかったという。

■雅子さんを大きく突き動かした一言とは

それからは何としてでも小和田雅子さんに承諾してもらわなくてはいけないと宮内庁が動いた。だが、そう簡単ではなかった。父親の小和田恆(ひさし)さんが娘の雅子さんに伝えたところ、英国でマスコミに対して全面否定したのにまだ思し召しがあるとは想像もしていなかったと驚いたそうである。

その後2人は5年ぶりに再会して、皇太子からの電話やファックスが自宅に届くようになったが、雅子さんの気持ちは動くことはなかったという。

1992年10月3日、千葉県市川市にある宮内庁新浜鴨場で、皇太子は雅子さんに「私と結婚していただけますか」とプロポーズした。

秋の池にいるカモ
写真=iStock.com/naotoshinkai
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/naotoshinkai

だが雅子さんは、「……お断りすることがあってもよろしいでしょうか」と答えたそうだ。

皇太子は「雅子さんが皇室に来てくれたら、嬉しい」ともいったそうだ。

1カ月半が過ぎたが雅子さんのほうから返事はなかった。彼女を仮御所に招き、皇太子はこういった。

「皇室に入られることには、いろいろな不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が全力でお守りしますから」

この言葉に雅子さんは大きく突き動かされたという。

■結婚後待っていたのは、皇室外交ではなく…

そして12月、雅子さんの誕生日に皇太子は、自分も悩んでいたと心中を吐露したそうだ。

雅子さんが聞くと、

「僕としては雅子さんに是非とも皇室に来ていただきたいと、ずっと思っているけれども、本当に雅子さんのことを幸せにして差し上げられるのだろうか、ということに悩みました」

と率直に話したそうだ。

この言葉が、雅子さんに結婚を決意させたといわれている。

週刊新潮(6月15日号)によれば、1993年1月19日、婚約内定会見が開かれ、その年の6月9日、当時33歳だった皇太子と29歳の雅子さんは、皇居から赤坂御用地までの4キロ余りをパレードし、2人を一目見ようと沿道に集まった観衆は19万人ともいわれた。

各局を合わせたテレビの生中継の視聴率は85.6%(瞬間最高視聴率)を記録した。

だが、多くの国民から祝福されて皇太子妃になった雅子さんを待っていたのは、望んでいた皇室外交ではなく、宮内庁を始めとする周囲の「お世継ぎを産め」という強烈なプレッシャーだった。

メディアもそれに加担して、懐妊の兆候がないかをスクープするために狂奔する。1999年12月10日付の朝日新聞が、「雅子さま、懐妊の兆候」と一面で報じた。だが、その月の末に、稽留流産(胎児が子宮の中で亡くなった後、胎児や胎盤などが子宮から排出されずに残っている状態)だったことが判明する。

「これらの一連の過程で、雅子皇后はメディアとともに宮内庁にもぬぐいがたい不信感を抱かれてしまった」(新潮)

■皇太子一家と秋篠宮家の間に亀裂が入った出来事

ご成婚から8年後、2001年12月に愛子さんが誕生する。翌年4月、皇太子と揃(そろ)って会見した雅子さんは、「生まれてきてありがとう」と声を詰まらせた。

だが、宮内庁を含めた周囲は「男の子でなくては」と雅子さんを追い詰める。さまざまなストレスが重なり2003年に帯状疱疹を発症し、長期の静養が発表される。

ここでも、雅子さんの苦境を憂い、宮内庁のやり方に異を唱えたのは夫の皇太子であった。

「雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあった」

これに対して、弟の秋篠宮は、発言する前に「天皇と相談すべきだった」と苦言を呈した。

このあたりから、兄と弟の間には深い亀裂が入ったのではないかと、私は思っている。

秋篠宮と紀子さんの結婚は兄より早かったが、婚約が発表されると紀子さんブームが巻き起こった。愛らしくてかわいらしい紀子さんは、まるでアイドルのようだった。

秋篠宮も「あの時、(紀子さんと=筆者注)出会わなければ、私は現在でも独身だった可能性があります」(江森敬冶『秋篠宮』、小学館)と語っている。

秋篠宮は出会ってすぐに両親である天皇皇后に紀子さんを紹介し、天皇皇后は「キコちゃん」と呼んでいたと、江森氏が文藝春秋(7月号)で書いている。

■祝福ムードの秋篠宮家の裏で適応障害に

プロポーズは学習院大学近くの交差点だった。だが、昭和天皇が亡くなり喪中の間に結婚を決めたことや、兄の皇太子より先に結婚することなどで、宮内庁の一部や国民の間から異論が出た。

一時は、秋篠宮が「皇籍を離脱してでも結婚する」と口にして騒ぎになったが、天皇皇后の後押しもあって、喪の明けた1990年6月29日に結婚する。秋篠宮24歳、紀子さんは23歳だった。

一方の雅子さんのほうは結婚して以降、日に日に体調が悪くなっていき、メディアから公務ができないのに、私的な外出は頻繁にしているではないかなどというバッシング報道がなされた。宮内庁からのプレッシャーもあり、ついには適応障害を発症してしまうのである。

2010年には愛子さんの学習院初等科への不登校が報じられた。原因はいじめによるものといわれたが、それから2年余り、雅子さんが愛子さんの登下校に付き添ったことが批判の対象にもなった。

何をやっても批判されてしまう。そう雅子さんは思っていたに違いない。

週刊文春(2016年1月21日号)には、「美智子さまが雅子さまを叱った!」という記事が出た。そこには、2人しか知りえないやりとりが、語尾に至るまで正確に記されていたのである。

■「人々の前に姿を見せるということが最善の道」

その前年12月23日の天皇誕生日の夜、82歳を迎えた天皇(当時)は皇太子夫妻や秋篠宮夫妻に囲まれて団欒を過ごしたという。

食事が終わった後、美智子さんが雅子さんと連れ立つように庭に出た。そこで美智子さんは雅子さんに色々話したというのである。例えば、

「(雅子妃は)東宮と共に人々の前に姿を見せるということが最善の道だと思っています。それが公にされている『適応障害』という病気にもとても良い効果をもたらすのではないかと思うのよ」

1981年当時皇太子だった天皇(現上皇)は、「日本ではどうしても記憶しておかなければならないことが4つある」として、広島、長崎、沖縄、終戦の日を挙げ、その日には天皇皇后は必ず黙祷を捧げることに触れ、

「そういうものは、陛下が築き上げてこられたものだし、やはり陛下が広島原爆の日、長崎原爆の日、終戦記念日、沖縄慰霊の日を、どれほどか、大切に思われ、どこにおられても大切に黙祷されているという意義を、やはり深く考え理解していってほしい」

二重橋
写真=iStock.com/Sanga Park
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Sanga Park

■美智子皇后の何らかの「意図」があったのだろうか

これは、2005年の8月6日の原爆の日に、雅子さんが聖路加病院の夏祭りに参加し、終戦記念日には静養先の那須でテニスや花火を楽しんでいたことを知り、美智子さんが気にしていたから出た言葉だと、千代田関係者が解説しているが、そんな古いことを持ち出されてもなあと、私は思ってしまうのだが。

また、雅子さんがよく実家の小和田家と連絡を取り合っていることを取りあげ、こういったというのである。

「ご家族という意味では、(連絡を取るのは)良いことではあるけれど、皇室という中で小和田家は特別な存在ではありません。小和田家と、浩宮が育ってきた皇室というのは、文化が違うのですから。皇族の文化の中にある雅子が小和田家と触れ合いを持つという、そういう心構えでなければならないのよ」

かなり厳しいいい方である。もちろん2人だけの会話で終われば雅子さんも、それほど心を痛めることはなかっただろうが、これが語尾も含めて文春に出てしまうというのでは、いじめととらえても致し方ないかもしれない。

この会話は、美智子皇后が了承しなければ出せるはずのないものだから、何らかの美智子さんの「意図」があったと考えてもおかしくはない。

信頼している美智子さんまで……と雅子さんは落ち込んだのではないだろうか。

■幸せを左右するのは、家族の結びつきなのかもしれない

さまざまな困難を乗り越えてこられたのは、プロポーズの時の約束を守り続けてくれた天皇と、一卵性親子といわれるほど仲のいい娘の愛子さんがいればこそであっただろう。

事態が好転し始めたのは、やはり、天皇(現上皇)が生前退位をして、皇太子が天皇に即位してからではないか。天皇皇后になり、初めて周囲を気にせずに自分たちらしく生きられるようになったのではないだろうか。

最近の雅子皇后は、他を圧する威厳のようなものが漂い、そんな雅子皇后の姿を見つめる天皇の表情が和らいでいるように思われる。強い絆で結ばれた2人が苦労の末に掴(つか)んだ幸せをかみしめているのかもしれない。

もし愛子天皇が実現したらと、私は思うが、雅子皇后は娘にそんな苦労をさせず、夫のようなやさしい人と結婚してくれればいいと思っているのだろう。

今、長女の結婚問題で何かと風当たりが強い秋篠宮と紀子さんではあるが、すきま風が吹いているといわれる親子関係を早急に修復し、次女・佳子さんの結婚でも決まれば祝福ムードが広がり、紀子さんの顔に再び晴れやかな笑顔が戻るに違いない。

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元木 昌彦(もとき・まさひこ)
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任する。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『編集者の教室』(徳間書店)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)、近著に『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』(現代書館)などがある。

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(ジャーナリスト 元木 昌彦)

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