週末に鬼ごっこができるほどガラガラだった…名古屋・大須商店街が「日本一元気な商店街」に再生できたワケ
プレジデントオンライン / 2023年6月25日 10時15分
■平日の昼からにぎわう「日本一元気な商店街」の秘密
ある平日の昼下がり――。裏通りからアーケードへと人が吸い込まれていく。商店街に入ると、りんご飴や唐揚げなどを手に闊歩(かっぽ)する若い女性の姿が目につく。別の方向に視線をやれば、アニメ関連のグッズを持った男性が足早に通り過ぎようとしている。
「平日で2万人くらい。土日や祝日にはその倍になりますね」
こう語るのは、大須商店街連盟で会長を務める堀田聖司さん(64)だ。
大須商店街は、名古屋駅から地下鉄を約15分乗り継いだ先にある大須観音駅、あるいは上前津駅が最寄り駅である。具体的には、若宮大通、伏見通、大須通、南大津通という4つの道路に囲まれた東西約700メートル、南北約600メートルのエリアを指す。ここには現在、1200ほどの店がひしめき合っている。
さらに、その中にある8つの通り(万松寺通、大須新天地通、名古屋大須東仁王門通、大須仁王門通、大須観音通、大須門前町通、大須本通、大須赤門通)が大須商店街連盟に所属していて、ここには約450店舗ほどが立ち並ぶ。
■今では「お手本」と言われているけど…
店のジャンルも、衣料品や食料品、飲食店、テイクアウト専門のフード、オタク向けのおもちゃ屋、パソコンショップ、メイドカフェなど多種多様だ。「ごった煮」の街と言われる所以である。
ごった煮を象徴するのは、ジャンルの多さだけではない。オーナーや店主も年配者から若者、さらには外国人とさまざまである。
大須は元々、男性客中心の街だったが、10年ほど前からは女性や外国人の客が急増し、老若男女問わず、名古屋を代表する人気スポットになった。
![平日、休日を問わず、大須商店街には人があふれている](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/e/1/1200wm/img_e1fc8124a8cdc871b1b6758943e4fbb5453454.jpg)
大須商店街は今、「日本一元気な商店街」と言われている。その名に違わず、毎週何かしらのイベントが開催されている。年間では大小合わせて100件以上にのぼる。中でも目玉と言えるのが「大須夏まつり」と「大須大道町人祭」。後者は2日間でのべ40万人以上を動員する年もある。そんな大須商店街にあやかろうと、全国から視察が後を絶たない。
今でこそまちづくりのお手本となっている大須商店街だが、ご多分に漏れず、かつてはシャッター商店街だった。
■高度経済成長に取り残された商店街の黒歴史
「寂れていましたよ。日曜日でもアーケードの下で鬼ごっことか、キャッチボールとかができた。お店の迷惑を顧みずにね。まねき猫がいる『ふれあい広場』では皆で野球もやっていました」
大須商店街がどん底時代だった1960年代から70年代半ばまでの様子を、堀田さんはこう振り返る。
![2019年から大須商店街連盟の会長を務めている堀田聖司さん](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/0/0/1200wm/img_00e7fa4c888a7ea327de3b0f8637c4a1230743.jpg)
大須は、大須観音と万松寺のある寺町として、江戸時代から栄えていた。明治時代には芝居小屋や映画館、遊郭などもでき、一大歓楽街として発展した。戦後、焼け野原になった大須にはヤミ市が開かれ、多くのよそ者が集まってきて商売を始めた。以降、とりわけ家具と衣料品の店が増えていったほか、映画館や劇場なども再建されて、大須はかつての活気を取り戻した。
ところが、カラーテレビの普及などで映画館が次々と閉館。さらに、大須の北側わずか1キロの場所にある栄の都市開発が進み、大手百貨店や地下街などの商業施設が次々と誕生したため、これまで大須に来ていた客が流れていった。
追い打ちをかけるように、1964年に大須と栄の間に道幅100メートルの若宮大通が整備されたことで完全に分断。大須は陸の孤島となり、一気に衰退する。
![大須と栄の間を走る若宮大通](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/b/b/1200wm/img_bb9e85df49e4983fd996a7557b0b15be465138.jpg)
■住み込みの従業員が一気に消えた
当然のように、客足が途絶えた商店街の店々はビジネスが立ち行かなくなり、苦境に立たされる。
「一番わかりやすいのは、従業員がどんどん減っていったことです。昔の大須商店街はどんなに小さいお店でも5人、10人と住み込みで働いていました。婦人服屋だったうちも4人くらい女性従業員がいましたが、一人減り、二人減り、最後はほぼ家族だけになりました」
当時中学生だった堀田さんが覚えているのは、隣の寿司屋にも板前修行の若者が10人ほどいて、歳も近いことからよく面倒を見てもらっていた。自宅2階の物干し場から、隣の2階の住み込み部屋に直接訪問しては遊んでいたそうだ。
また、夏場になると商店街の横丁では、長テーブルと椅子を出してきて涼んでいる住民などがたくさんいる光景が当たり前だった。そうした日常がなくなっていくことに堀田さんは寂しさを覚えた。
そんな嘆きにお構いなく、商店街の店はどんどんシャッターが閉まっていった。もちろん、堀田さんの実家も他人事ではなかった。
「私も商売人の子なので、小さい頃からずっと祖父や親にお金のことを聞かされてきました。景気がだんだん厳しくなってきたと言われることが増えて、子どもながらに危機感はありましたね」
店は何とか存続し、後年、堀田さんは家業を継ぐことになるが、この時の状況が大きなきっかけとなり、店を継ぐことをやめてサラリーマンや教職員などになった同世代の仲間もいる。
■店頭で居眠りをする親、夜逃げする商店主もいた
後述するように、70年代半ばを境に大須商店街は見事なまでの復活劇を遂げたものの、90年代初頭のバブル崩壊によって、再び低迷した時期があった。その頃に小・中学生だった、大須商店街連盟 常任理事の井上誠さん(45)は強く印象に残っていることがある。
「学校から帰ってくると、親が店頭で居眠りをしていたのを見て、『うちの店、やばいんじゃないか……』と不安になったことがあります。鏡などの額縁屋だったのであまりバブル景気に左右されることはなかったのですが、それでもお客さんがあまり来ていないのは明らかでした」
両親からは店を継ぐようにずっと言われてきたが、子どもながらにこの商売は続かないと感じていた。結果的に井上さんが後を継いだ際にはおもちゃ屋に業態転換した。
バブル崩壊後の大須商店街は、かつてのようなシャッター商店街にはならなかったものの、店舗の入れ替えが激しくなったり、中には夜逃げしてしまうオーナーもいたりしたという。
そうした浮き沈みの激しい状況から、大須は一体どうやって今のような活気ある街になったのだろうか。
■時流に乗る…パソコンブームで戻ってきた客足
時計の針を1970年代に戻そう。
戦後復興を果たし、にぎわいを取り戻した大須は、たった十数年でシャッター商店街に成り下がってしまった。昼も夜も人通りがまるでなく、もう大須は終わったと思われ、多くの市民がこの街のことを忘れかけていた頃、起死回生のチャンスが舞い込んでくる。
一つは「アメ横ビル」の開業だ。当時、映画館などを経営していた地主が、このままでは商売が立ち行かないと業種転換し、1977年に電気店やパソコン部品ショップ、輸入雑貨屋などが集まるビルを建てた。
これが「ラジオセンターアメ横」(現在の第1アメ横ビル)である。ちょうどこの年に、日本初のマイクロコンピューターが登場。さらには米国のApple社が「Apple II」を発売したことで、日本でもパソコン熱が高まっていた時期だった。
![電脳街になるきっかけを作ったアメ横ビル](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/1/0/1200wm/img_10f658621dfe8a6f8facf8b39e5989aa476048.jpg)
そうした時流に乗って、アメ横ビルには平日、休日関係なく客がやってきた。
「あのような商業施設が大須にできるのは初めてで、とにかくすごい集客力でした。それも毎日ですよ。そこから客がアーケード街を回遊したので、一気に人通りが増えました」と堀田さんは回想する。84年には第2アメ横ビルもできて、瀕死(ひんし)状態だった大須商店街は息を吹き返した。
ここで目を見張るのは、大須商店街の特徴とも言える変わり身の早さだ。それまで家具街だったエリアが、4、5年でパソコンショップだらけになったという。その後、ピーク時には大須商店街全体でパソコンショップは100店舗ほどに増え、秋葉原(東京)、日本橋(大阪)に並ぶ電脳街へと様変わりしていった。
■客を呼び込むために始めた「大道芸イベント」
どん底から這い上がったもう一つのきっかけが、アメ横ビルが開業する2年前、1975年に立ち上がった「アクション大須」だ。アクション大須とは、名城大学・池田芳一助教授の呼びかけで開かれた祭りのこと。学生をはじめとする若者たちが商店街を舞台にさまざまな催し物を実施し、話題を集めた。
これをきっかけに、78年には「第1回大須大道町人祭」が地元住民たちの手で開かれる。当時日本で初となる大道芸のイベントで、50万人もの人が押し寄せた。それから途絶えることなく、今でも毎年秋に開かれる大須商店街最大のビッグイベントとなっている。
![大須大道町人祭の様子](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/6/5/1200wm/img_65021316a8031b102e7ac9451bba7775448661.jpg)
祭りは人々の耳目を引く格好のツールだと、堀田さんは強調する。
「お祭りの時に人がいっぱい来ても、なかなか買い物まではしてもらえないでしょう。でも、『今度の休みはここら辺を歩いてみよう』と思ってくれるんです。実際、祭りの翌週は通行量が増えることが多い。祭りや催事はその場限りのものではなくて、新たな客を呼ぶために大事だと思います」
アクション大須、そして大須大道町人祭の成功を糧にして、大須商店街は年を追うごとにイベントごとを増やしていった。
「今では、大須に来ると何かやっているというイメージを多くの人たちが持っていると思います。商店街のイベントだけでなく、神社や寺の祭りも頻繁にあります。これだけの数をやっている商店街は、全国を見てもなかなかないですよ。昔から街の先輩たちが『とにかくお客さんに大須に来てもらわないと商売にならない。いかに来てもらえるか知恵を絞らなきゃならん』とよく言っていました。その成果が表れています」
■オタク文化、食べ歩きブームを逃さない
アメ横ビルや祭りによって集客力が高まったことは、商店街全体の一体感にもつながった。それ以前は個店ごと、あるいは通りごとにバラバラで、皆が私利私欲に走っていた。
「通りだけのイベントはやっていましたが、全体のまとまりはなく、お互いに仲が悪かったです。栄や名駅ではなくて、隣の通りをライバル視する近視眼的な状態でした。でも、アクション大須などの実績を見て心が動いたわけです。皆、商売人ですから、全員で力を合わせたほうが、結果的に自分の店にもお客さんが集まることがわかった。そうなれば、通り同士がいがみ合っても仕方ない。大同団結しようと」
そこから大須商店街連盟の活動も活発になった。各通りの代表者が集まって、知恵を絞り、街のことを真剣に考えるようになっていった。
上述した通り、90年代初頭のバブル崩壊後に大須商店街は一時期低迷するも、2000年代に入ると古着屋などが流行して、若者が大勢やってくるようになった。さらには、アニメやメイドカフェなどのオタクカルチャーの盛り上がり、そして10年ほど前からの食べ歩きブームと、切れ目なく時代、時代で活力を維持してきた。
![大須観音には多くの海外観光客も訪れる](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/0/d/1200wm/img_0d03b03a25eca2b77431ad325cbbac74395438.jpg)
今回、そんな大須商店街の飛躍について、当事者への取材を進めていくと、大きく3つの成功のポイントが浮かび上がってきた。
■なぜ大須商店街は人気スポットに生まれ変われたのか
ポイントの1つ目が、人を育てる力だ。その代表例が「実行委員長制度」。大須商店街の花形イベントである大須大道町人祭の実行委員長は、一生に一度しかできないルールになっている。これによってマンネリ化や権力の集中を防ぐほか、やる気さえあれば誰にでも平等にチャンスがある。
「実行委員長が毎年変わるのは人材確保、育成のため。これだけの予算を使っていいから、責任を持って頑張りなさいよと発破をかけます。祭りのために数カ月間は商売そっちのけでやらないといけないけど、達成感は大きいです。私も、井上くんもそうですけど、責任者をやったことで商店街の活動に対する意義が生まれました。今の連盟の執行部はほぼ全員が実行委員長を経験しています」(堀田さん)
とはいえ、一人に責任を押し付けることはない。先輩など周囲がサポートしてくれる体制ができている。2019年に大須大道町人祭の実行委員長を務めた井上さんは次のように話す。
![「若手の声にもちゃんと耳を傾けてくれることが嬉しい」と語る井上誠さん(右)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/5/2/1200wm/img_52311ddea108ed111b80a185536843ed240382.jpg)
■若い商店主がチャレンジできる環境がある
「きちんとフォローしてくれるし、やりたいと思ったことを頭ごなしに否定されない。『とりあえずやってみゃー』と言ってもらえます。いい教育のされ方をしているなと実感します。そして、ちょっとした成功体験が増えていくと、もっと一緒にやろうという意識も芽生えます。実際、商店街連盟に携わってなかったけど、実行委員長を経験してから街との関わりが深くなった人もいますね」
若者でもチャレンジできる環境がある。それを可能にするのは失敗を許容する街の文化も大きい。
「失敗したら2度とやらせない、とはならない。やることに意義があるから、たとえ失敗しても、なぜダメだったのかを考えて、次は違うアプローチを取ればいいだけ。責任者になった人間が失敗して責任を取るだけだと、それで終わってしまいます。商店街は会社ではないので、利益だけを求めるのではなくて、人を集めて、イベントを成功させるだけでも十分に価値があります。僕なんて、若い頃はむちゃんこやっていた人間で、失敗もした。そういうことにも上の人たちが目をつむってくれました。ありがたいし、それで責任感も芽生えますよね」(堀田さん)
■「大須ドリーム」をつかむべく“よそ者”が集まる
2つ目が、よそ者を広く受け入れるオープン性である。
全国各地の商店街のシャッターが閉まっているのは、オーナーの高齢化などによる事業承継問題が主な原因だが、だからといって空き店舗をおいそれと他人に貸さないため、状況が変わらないままになっていると聞く。
ところが、大須ではテナントが空いたら基本的にすぐにオーナーは貸し出す。大須商店街は現在、約1200店舗のうち毎年80~100店舗が入れ替わるというが、5年も10年もシャッターが閉まり続けている店はほぼないという。そこには貸す相手を選ばないという柔軟さもある。
「大須には外国人が店を開いていたり、住んでいたりするケースが多いのですが、それは大家さんが躊躇(ちゅうちょ)なく賃貸のOKを出すから。差別なく他人を受け入れる街なんです。例えば、全身タトゥーの一見怖そうな若者が『店をやりたい』と訪ねてきたとして、もしかしたら名駅や栄では借りられないかもしれないけど、大須は全然問題なく、平気で貸します。いざ入居すると、そういう若者はいい子も多くて、街のために活躍してくれますよ」
![ブラジル、ベトナム、韓国など、実に多国籍な飲食店が集まる](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/7/2/1200wm/img_72a86fcafe841031dbdd08f4723811b1477872.jpg)
■組合のリーダーは中国人女性
国籍や人となりなど関係ない。どんどんよそ者を受け入れる。それが成果にもつながっている。大須商店街連盟の事業部長を務める廣田尚彦さん(59)は、大須の外からやってきたアメカジショップの経営者だ。最初は路面店からスタートし、1993年にアーケードのある大須観音通に移転した。そこから商店街の活動にのめり込み、今では祭りの実行委員長を任されるなどの活躍を見せている。
もう一人、万松寺通商店街振興組合の理事長を務めているのは、中国人の女性だ。以前は店舗スタッフとして大須商店街で働いていたが、自分の店を持ちたいという夢を叶えてオーナーに。そして、今では中核メンバーとして街のために汗をかいている。
オープンに門戸を開くことで人が集まる。そしてその人たちが活躍する。これが大須商店街の本質だろう。「大須ドリーム」という言葉があって、この街は自分の夢をつかむためにやってくる場所なのだと堀田さんは言う。大須発の企業で有名なのは、中古品販売大手のコメ兵ホールディングスだが、同社も最初は「米兵商店」というわずか5坪の小さな古着屋としてスタートした。それが今では売上高700億円を超える大企業にまで成長した。
![コメ兵の本店](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/a/a/1200wm/img_aa3e41d25e32d66ccff8f5f311a1bf0d329607.jpg)
「大須で商売をする人たちは、一人一人が頑張るから、それが大須全体の力になっています」と堀田さんは力を込める。
■「もうあの頃に戻りたくない」という危機感
最後のポイントは、自前主義であること。年間100件を超えるイベントをこなしているが、基本的には外部業者に頼らずに、商店街の人たちやボランティアなどで運営する。そうすることで各人の関わり合いが一層強くなり、一体感も高まるからだ。
ただし、現実的には人手が不足しているのは事実である。
「各通りの組合員がきちんと役割分担をして、イベントを回してくれています。でも、今が過渡期。通りの役員が少なくなって、毎回同じ人がやっているところもあります。『ワシら、もう年寄りだから勘弁してくれ』と言い出している最中です」
それでもやってくれとは強要しない。あくまでも、できる人ができることをやればいいと考えている。他方で、堀田さんたちがやり続けるのは地元としての使命感が強いからだ。
「商店街の活動を強制することはできないですよね。結局、大須に対する愛着があるかどうか。あとは、携わっている人たちの使命感ですよ。例えば、毎月28日に行っている餅つきなんて長年やってきたわけだから、これから先もずっと続けていくことが我々の役目だと思っています」
井上さんは、地元の衰退を見たくないことが使命感につながっている。
「僕は単純に、あの頃の大須に戻りたくない。バブル崩壊後、自分の両親の商売が立ち行かなくなっているところを見ているわけですよ。その時に戻りたくないので、必死こいて人集めをやっている。やっぱり街がにぎやかな方が楽しいし、皆で一緒に活動するのは達成感を得られます」
この思いは地元の人以外にも確実に伝播している。テナントに入居する外部から来たオーナーや店主でも、商店街の活動に興味を持ち、積極的に参加する人が数十人といるそうだ。
これはイベントのボランティアも同様である。市外だけでなく、県外から駆けつける人もいる。井上さんによると、東京在住で毎回ボランティアに参加する人もいるそうだ。
立場は異なっても、大須商店街に対する帰属意識があるからこそ生まれる行動だろう。そこには損得勘定はない。
![頻繁にイベントが開かれるふれあい広場も、かつては子どもたちの野球場だった](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/7/9/1200wm/img_798926bd502f2016d3a55c18c96dedb5488424.jpg)
■なぜ日本の商店街は「シャッター街」ばかりなのか
かつては地域の「顔」として存在感を放っていた商店街が、いまや日本中で風前の灯火となっている。いわゆる「シャッター商店街」は年々増加していて、人が寄り付かずにゴーストタウン化しているところも多い。
全国の商店街を対象にした中小企業庁の実態調査によると、一商店街あたりの平均空き店舗率は、2006年度は8.98%だったのに対し、21年度は13.59%にまで上昇。また、空き店舗率が10%以上の商店街は全体の43.3%と、こちらも増加傾向にある。中小企業庁では空き店舗率10%以上の商店街をシャッター商店街と定義しているため、実に全国の4割以上がそれに該当する。
後継者不足や人口減少などの影響で、今後ますます商店街の衰退が加速するのは自明の理だ。それはすなわち、地域の活力の喪失につながる。そうした状況と対照的なのが、大須商店街である。
なぜ日本の商店街はシャッター街ばかりになってしまったのか。堀田さんは、何よりも外部から人を取り込むべきで、特に若い力が必要だと訴える。
「結局、一人だとできないですよ。商店街を立て直すには、人材確保から始めないと。特に若い人。シャッター商店街は、極端な話、家賃タダでもいいから貸した方がいい。既存の、僕のような年寄りが何かしようと思っても無理だと思う。チャレンジショップでもいいから、若い人に入ってもらって、そこから人材を集めていかないと難しいかな」
■時流に乗り、若者の新しい発想を生かす
老齢化した地元の人たちでもう一度町おこしをするというのは現実的ではないと断言する。単純に人手だけの問題ではなく、若者の新しい発想やアイデアが活性化に重要だからだ。それがないと今の消費者には響かない。
人材確保は外からだけではない。商店街活動に参加していない人を巻き込む努力も惜しんではいけないという。実際に大須商店街連盟のメンバーたちは、店舗の若いオーナーなどに声をかけ続けている。断られても決してめげずに、「今度飲もう」「ボウリング大会があるよ」などと、あの手この手でコミュニケーションをとっている。いつも何かやっている状況を作るという、まさに大須商店街の取り組みそのものを運営側も実行している。そうすれば、いつでも気軽に参加しやすくなる。
「街の活性化のためには、結局、組織づくり、人づくり。当たり前のことに聞こえるかもしれないが、これに尽きる」と、堀田さんは繰り返し強調する。
順風満帆な大須でも、人材不足は喫緊の課題だ。高齢化も進んでいる。また、食べ歩きの集客は好調だが、物販がメインの店の売り上げは減っている。街全体にもっとお金を落ちる仕組みを作らなければならない。
■「一生懸命頑張って商売すれば、きっと成功できる。それが大須」
そもそも日本の人口が減る中で、このまま同じことをやっていてもジリ貧になるだけ。先を見据えて、大須ではもっとインバウンド需要の獲得に力を入れる方針だ。実は数年前にもそうした議論があり、観光案内所を作る話も出たが、コロナで立ち消えになった。再び外国人が増えてきた今、改めて議論していく。
一方、商店街の運営側にも引き続きよそ者を勧誘していく。地元出身者だけでという保守的な考えは、大須にはない。
「もっと多くの若い方に大須ドリームをつかみに来てもらいたいです。何の資本もない人間でも、一生懸命頑張って商売すれば、きっと成功できる。それが大須。今後もそういう街であってほしい」
大須で生まれ育ち、この街の栄枯盛衰を見てきた堀田さんが語る言葉には重みがある。
朝からの取材が終わって、商店街組合会館から通りに出ると、目の前は通行人でいっぱいだった。この人だかりを眺めながら、街を支える側もごった煮の精神を持った大須商店街は、これから先もそう廃れることはないだろうと感じた。
![大須商店街には、日本の商店街を元気にする知恵とノウハウが蓄積されている](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/8/a/1200wm/img_8a7634123ca310a32bc8747aec83c9f0230504.jpg)
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ライター・記者
1979年生まれ。神奈川県出身。専門テーマは「地方創生」「働き方/生き方」。慶應義塾大学環境情報学部卒業、同大学院政策・メディア研究科修了。ニュースサイト「ITmedia」を経て、社会課題解決メディア「Renews」の立ち上げに参画。
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(ライター・記者 伏見 学)
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