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なぜ信長、秀吉、家康の3人は神になろうとしたのか…「天下人」になった男たちが必ず直面する意外な困難

プレジデントオンライン / 2023年6月25日 12時15分

左)狩野元秀画「織田信長像」長興寺所蔵(東京大学史料編纂所/PD-Japan/リンク)、中央)「豊臣秀吉像」高台寺蔵〈伝 狩野光信筆〉(大阪市立美術館/CC-PD-Mark/リンク)、右)狩野探幽筆「徳川家康像」(大阪城天守閣所蔵/PD-Japan/リンク)

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の共通点はなにか。歴史評論家の香原斗志さんは「生きながらにして神になろうとしたことだ。性格も出自も違う3人だが、天下統一は成し遂げるよりも続けるほうが難しいことは認識していたのだろう」という――。

■信長、秀吉、家康がそろって目指したもの

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。言わずと知れた、いわゆる「戦国三英傑」だ。NHK大河ドラマ「どうする家康」で、家康はもとより3人がそれぞれ色濃く描かれているのは言うまでもない。戦国時代に天下統一をめざした3人であり、いずれも現在の愛知県、すなわち尾張(西部)か三河(東部)の出身である点も共通している。

だが、各人の性質などについては、鳴かないホトトギスへの態度をくらべた川柳が象徴するように、かなり異なるというのが多くの人の印象だろう。「殺してしまえ」「鳴かせてみよう」「鳴くまで待とう」というたとえが正鵠(せいこく)を射ているかどうか、異論もあるようだが、各人のキャラクターが一様ではなかったことはまちがいない。

そんな中で、生まれ故郷や天下統一という目標以外に、3人のあいだで際立って共通していた点とはなんだろうか。それは3人が3人とも神になろうとしたことである。

日光をはじめ久能山や上野などの東照宮にお参りしたことがある人は、多いのではないだろうか。そこに祀られているのは東照大権現、すなわち徳川家康であり、この400年以上昔の天下人は、いまなお神としてわれわれの前に君臨しているともいえる。

■天下統一事業を継続する難しさ

戦乱続きの世に終止符を打った3人はともに、戦乱がない社会をたもち、築き上げた権力を持続させるのがいかに困難であるか身をもって知っていた。だから、自身が神にでもなるしかないと考えたのだろう。

 欧米でもイスラム世界でも、一神教の国では唯一絶対神のみが神であって、権力者みずからが神になることはできない。一方、日本では古代以来、菅原道真をはじめ神になった人物が少なからずいた。ただし、彼らは人間として死んだのちに、他者によって神格化されたのに対し、「戦国三英傑」は死ぬ前にみずからの意志で神になろうとした点が、きわめて特異である。

 それだけ戦国の世を終えるということが、日本史上において困難な事業だったということではないだろうか。もっとも、3人とも当人の希望がすんなりと実現したわけではない。まずは家康から見ていこう。

■関八州の鎮守になる

家康が駿府城(静岡県静岡市)で死去したのは元和2年(1616)4月17日で、4月2日には側近の本多正純のほか南光坊天海と以心崇伝(いしんすうでん)の2人の僧侶を枕元に呼び、死後に遺体を駿河(静岡県東部)の久能山に葬り、祭礼は江戸の増上寺で行い、位牌(いはい)は岡崎の大樹寺に立てるように伝えたうえで、一周忌が過ぎたら下野(栃木県)の日光に小さな堂を建てて勧請(かんじょう)するように言い、そうすれば「関八州の鎮守になる」と加えたという(『本光国師日記』など)。

「関八州の鎮守になる」とは、あきらかに自らの神格化を意識した発言だろう。だが、それは家康が勝手に言い出したことではなく、周囲も家康を神にしようとしたと考えられている。

たとえば、後水尾天皇は3月21日に家康を太政大臣に任じているが、大阪大学准教授の野村玄氏は「天下人の神格化に関する直近の先例が豊臣秀吉のみであったことは事実であり、以心崇伝が家康の亡くなる直前に太政大臣への任官を進言した背景には、現任の太政大臣であった秀吉が豊国大明神として祀られた例を意識した可能性がある」と記す(『徳川家康の神格化』平凡社)。

周囲が神格化に向けて、周到に準備を重ねていたというのである。

日光東照宮の陽明門
日光東照宮の陽明門(写真=Fg2/PD-self/Wikimedia Commons)

■なぜ家康は「権現」になったのか

ただ、家康の遺体が埋葬されたのは遺言どおり久能山で、吉田神道にしたがって行われたが、その後、すぐに論争が起きている。以心崇伝らは、神格化の作法はそのまま吉田家にまかせ、神号は「大明神」にすべきだと主張したが、天海は山王神道による神格化を主張。「大明神」ではなく「権現」にすべきだと訴えた。

ややこしい宗教論争を簡単にまとめれば、こういうことだろう。山王神道は神仏習合の神道思想なので、家康の神号を「権現」とすれば、神への祈りが仏への祈りにもつながる。天台宗の僧侶だった天海は、そこを狙ったのではないだろうか。

前出の野村氏の著書にはこう記されている。「最も親和的に武家権力を仏国の創成に協力させるためには、(中略)神仏習合の神道思想によって天下人を神格化することが最短の道だと考えた可能性があるのではなかろうか」。

そのために、天海は家康の遺言を、多少改変した可能性さえ指摘されている。

■政治に翻弄された豊国大明神

もちろん、秀吉も神になった。先に「太政大臣であった秀吉が豊国大明神として祀られた」と記したが、ただ、秀吉の場合はさらに数奇な変遷をたどっている。

秀吉は家康よりもっと明確に、死なずにそのまま神になることをめざし、まったくあたらしい社殿を造営させて、そこに鎮座した。しかし、必ずしも希望どおりではなかった。

秀吉は死後に、源氏の氏神で武運の神として崇敬されている八幡神になること願い、「新しい八幡(新八幡)」になろうと望んだ旨は、宣教師たちが記したイエズス会日報などにも記されている。しかし、秀吉が慶長3年(1598)8月18日にこの世を去ったのち、神にはなったが望みどおりの新八幡にはなれず、豊国大明神になった。

その理由はいくつか指摘されているが、ここでは家康とからむ以下の事情を挙げておこう。前出の野村氏の言葉を借りるとこうなる。

家康は秀吉が死ぬ前後、自身の姓を秀吉から賜った「豊臣」から「源」に改姓しようとして実現したが、「家康は秀吉に新八幡になられてしまうと困ったのではないか。なぜなら、秀吉自身が八幡神の一系列として源氏の氏神に連なってしまうからであり、家康は秀吉の死後も氏神として秀吉に従属せねばならなくなるからである」(『豊国大明神の誕生』平凡社)。

そして、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡したのちは、江戸幕府は豊国大明神の神号を剝奪して、その祭祀(さいし)も封印してしまったが、明治維新を迎えると、新政府は秀吉を天皇の臣下として戦乱の世を終わらせ、さらには海外にまで日本の国威を発揚した人物と評価したので、豊国大明神はよみがえった。

京都府京都市にある豊国神社
京都府京都市にある豊国神社(写真=663highland/CC-BY-2.5/Wikimedia Commons)

神をめざしたりすると、神になる前にも他人の思惑に左右され、なったのちも権力に翻弄(ほんろう)され、ろくなことはないと思うが、戦国三英傑ほどの人物は、「神」になって生き続けたいと願ったのである。

■「予自らが神体」と言った信長

では、織田信長はどうだったか。イエズス会のポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスが記した『日本史』(松田毅一、川崎桃太訳)から、安土城を築いてのちの信長についての記述を引用する。

「彼を支配していた傲慢(ごうまん)さと尊大さは非常なもので、そのため、この不幸にして哀れな人物は、途方もない狂気と盲目に陥り、自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ、彼の家臣らが明言していたように、彼自身が地上で礼拝されることを望み、彼、すなわち信長以外に礼拝に値する者は誰もいないと言うに至った」

そして、信長は安土城を築いた安土山内に摠見(そうけん)寺を建立し、礼拝すれば功徳があると主張したばかりか、「予が誕生日を聖日とし、当寺に参詣することを命じる」など書き記したという。さらに『日本史』にはこう書かれている。

「神々の社には、通常、日本では神体と称する石がある。それは、神像の心と実体を意味するが、安土にはそれがなく、信長は、予自らが神体である、と言っていた。

しかし矛盾しないように、すなわち彼への礼拝が他の偶像へのそれに劣ることがないように、ある人物が、それにふさわしい盆山と称せされる一個の石を持参した際、彼は寺院の一番高所、すべての仏の上に、一種の安置所、ないし窓のない仏龕(ぶつがん)を作り、そこにその石を収納するように命じた。

さらに彼は領内の諸国に触れを出し、それら諸国のすべての町村、集落のあらゆる身分の男女、貴人、武士、庶民、賤民が、その年の第五月の彼が生まれた日に、同寺とそこに安置されている神体を礼拝しに来るように命じた」

■信長だけは神になれなかった

フロイスの記述は、日本の政治的な利害関係から離れた立場にいただけに、宗教がからまないかぎりは比較的、中立的だと思われる。ただし、こうして宗教がからむと少々ヒステリックな様相を帯びる。ここで信長を悪し様に表現しているのも、ひとつの神しか認めないカトリック教徒としての立ち位置があってこそのものである。

とはいえ、信長が自らを礼拝の対象にしようとした、すなわち、生きながらにして「神」のようになろうとしたこと自体は、否定できないだろう。信長の自己神格化について、日本側の資料に書かれていないことから、フロイスの記述の信憑性を疑う研究者もいる。だが、フロイスが話を捏造(ねつぞう)する動機は薄い。

あるいは、信長は宣教師たちを徴発する意味も込めて、彼らに自身の神格化について語っていたのかもしれない。

ちなみに、『イエズス会日本年報』には、安土城天主にも「盆山の間」があって、信長を神格化する行事が行われていた旨が記され、「盆山」の存在自体は『信長公記』にも記載されている。

しかし、死後に神になろうとした秀吉と家康は、すべてが本人の狙いどおりではないにせよ、神になった。しかし、生きながら神になろうとした信長は、本能寺の変によって、自己神格化の道もまた、途絶えてしまったのである。

生きながら神になろうという「驕り」には、宣教師でなくても反発を覚える人が多かったのではないだろうか。信長がもう一歩のところで天下統一を成し遂げられなかった原因は、こんなところにあるのかもしれない。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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