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どうすれば差別をしない人間になれるのか…「あいつらは〇〇だから」という軽口が差別の種になっている

プレジデントオンライン / 2023年6月26日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Josie Desmarais

どうすれば差別はなくなるのか。ノンフィクション作家の藤原章生さんは「そもそも人間は差別をしてしまうものだ。それを踏まえた上で、一つひとつの差別について『これはおかしい』と突き詰めていくしかない。『差別はいけない』と諭すだけでは、差別は消えない」という――。

※本稿は、藤原章生『差別の教室』(集英社新書)第9章「感受性と属性と──学生の問いに答える」の一部を再編集したものです。

■人間は相手が誰であれ差別をしてしまうもの

「差別は消えないのでしょうか」という声をいただきましたが、それについて少し考えたいと思います。

差別がなくなってほしいと私は思っています。でも、差別を考えるとき、自分も差別をする人間だという自覚が必要だと思います。

「私は差別をしない、悪いのは差別をする人間だ」と言って、自分だけ聖職者みたいな態度の人がいますが、それはおかしい。人間は相手が人であれ動物であれ物であれ、分類してしまうものです。そして分類したものの優劣を決めてしまいがちです。

それを十分踏まえた上で、そこに差別が生じた場合、一つひとつ「これはおかしい」と突き詰めていくしかないんじゃないかと思います。理屈で「差別はいけない、はい終わり」という話ではないんです。

だから、それぞれの事例に当たって、そこから出た答えを積み重ね、差別をしない人間になるという理想に自分を追い込んでいく。意図的に追い込んでいくというより、直感的にそうなっていったほうがいいと思うんです。

■絶対に正しいことはない

「差別をなくすことへの使命を感じますか」という問いがありました。どうでしょう。私にはそんな高邁(こうまい)な考えはありません。ただ、差別の話に耳が傾くのは確かです。でも、使命とは違いますね。もちろん、差別がなくなってほしいとは常々願ってはいます。

1986年製作のローランド・ジョフィ監督『ミッション』という映画があります。ロバート・デ・ニーロが主演の映画で南米が舞台です。カトリックのイエズス会の話です。宣教師たちが先住民の村に入って布教活動をするわけです。先に来た宣教師は殺されてしまうのですが、主人公たちはどんどん奥地へと入っていくわけです。彼らは現地人を見て、あの人たちに神のことを知らせ、目覚めさせなくちゃいけないと本気で思っています。途中で散々ひどい目に遭いながら、ミッション、使命だからと、密林を分け入っていく。最後は彼らもひどい末路を迎えるのですが、やっていることは正しい、神は見てくれていると思い込んでいる。

ちょっと泣けるような映画なんですけど、私は観たあと、こんな思いを抱きました。彼らのミッションは間違っていた。「上から目線」という言葉がありますが、上から目線って何も悪くないと思うんです、それ自体は。知識のない人たちに知識を教えるとか、そういうことは当然ですから。

だけど、「これは絶対なんだ、これは正しいんだ」という正義で人に何かを押しつけていく行為が「ミッション」に描かれていたと。

コロンブスが新大陸に到達してから500年あまり、「野蛮な人たち」を救い出して、自分たちと同じように一神教を信じさせなくてはいけないというミッションが各地で為されてきました。でも、それが正しかったのか。80年代のこの映画はそう問いかけていると思いました。

■「使命」という言葉は少し怪しい

ジャーナリズムも同じです。絶対に正しいなんてことはないと思います。「なぜ、あなたはこれをやっているんですか?」「それを人に知らせる必要があるんですか?」とジャーナリストはみな自分に問い続けているわけです。

三十何年かインタビューをしてきて、人から話を聞くことに多少は慣れました。でも常に躊躇(ちゅうちょ)があるし、苦しみます。使命というのは言い訳で、やはり最後は自分自身、自分一人の問題になります。なぜ、お前はそれをしたいのかという自問です。

使命だと思い込み、悲惨な立場にある人々を取材し、自分のモヤモヤした気持ちをうまく追いやったとしても、自分自身があとで傷つくこともあります。使命というのはいい響きですが、少し怪しい言葉です。

混乱と考え過ぎの概念
写真=iStock.com/Mihaela Rosu
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Mihaela Rosu

■差別を生む「種」はどこにあるのか

南アフリカに住んでいたころは、差別がなくなるといいなといつも思っていました。あらゆる差別がなくなってほしいと。当たり前ですが、自分がそういう目に遭ったら嫌ですよね。

ちょっと買い物に行こう、ワインでも買いたいなと歩いて5分ぐらいの店に行って帰ってくるだけなのに、「おい、お前、いつまでいるんだ、国に帰れよ」などと言われたくないですよね。「この国にいるな!」とかね。日々、「道の真ん中を歩くんじゃない」とか、「端っこを歩け、お前は二等市民なんだから」とか、そんなこと言われたくないですよ。そんな差別はあってほしくないと当然思っています、消えてほしいと。

「差別は良くないよ」と言い続け、消えればいいですけど、なかなか消えない。じゃあ、どうしたら少しずつでも改善されるのか。

例えばアフリカの子供の写真を見て、条件反射的に、短絡的にその意味を掴んでしまう。ひどいことだと背景も知らずに一般化する。それが偏見であり、その偏見が自分のふるまいに表れれば、差別行為となる。そんな差別を生む「種」、心の底にある何か、それがどこから来たものなのか、どんな意味があるのかを自分で捉えていくしかないと思います。

私の場合、何かを書くことで、少しでも状況が良くなればと思っていますが、どう書けば伝わるのか。ずっと探っているところです。

■差別ではなく人間を学ぶ

「いままでの私は興味が湧かないと言って何も学ばない人間だったが、話を聞いていろいろなことに挑戦していこうと思った。アフリカだけではなく、私生活すべてにおいて気になることがあればそれについて調べ、アプローチしていこうと思った」と感想を書いてくれた学生がいました。

特に若い学生たちはこれからもいろんな場面で差別を目撃したり、自分が差別されたりすると思います。そういうとき、これはどういう意味だったのかと考える。こうすべきだったという答えはありませんが、差別を学ぶのではなく、人間を学ぶということです。

人間、その一人である自分はどう反応するか。自分の生き方と言うと大袈裟ですけど、自分がどうすべきだったのか、相手とどうコミュニケーションをとるべきだったのかを考えていく。その反省から、この学生が書いたように「挑戦していこう」という気持ちになる。この人はそういうことを直感的に感じてくれたんだと思うんです。

■どうしたら差別をしない人間になれるのか

「どうしたら差別を意識しない、あるいは差別をしない人間になれますか」という問いが結構多かったんですけど、どうでしょう。自分の場合、そういう気持ちになるときは、「常に明るい人間でありたい」と思ってきました。

そして、「きちんと自己主張する人間でありたい」と。そのためには言葉ですね。自分は結構英語ができると思って、英語圏の南アフリカに行ったんです。でも、南アフリカの英語はブリティッシュイングリッシュに近いこともあって、自分はできると言ってもやっぱり日本人の中でできただけでした。

当時、南アフリカの大統領だったネルソン・マンデラさんの定例会見に最初に行ったときの話です。マンデラさんは、私が手を挙げて質問しても「はあ?」みたいに耳に手を当てて、「わからない」という感じの反応をしたんです。

最初のうちは英語でうまくコミュニケーションがとれず、フラストレーションが溜まっていましたが、英語ネイティブだった妻に「それは英語の問題。基礎をちゃんとやったほうがいいんじゃない」と言われ、先生について必死に勉強しました。

つまり、英会話を勉強するだけではなく、自分の言葉をしっかり英語で組み立てられる人間になろうとしました。きちんと書ける、読めるというのが大事です。

どうしてもポンポン話せる英会話ができるほうがいいと思いがちですが、会話をするためには、言葉を知らなくてはならない。それには、どれだけ読めるか、書けるかが大きいんです。そういうことを一生懸命やっているうちに、2年ぐらいで自信がついて、英語の世界でさほど苦もなく仕事ができるようになりました。

言葉ができれば友達もできるし、明るい人間でいれば、愛されるキャラクターになっていく。それが大事じゃないかと思うんです。

■差別した人にあえて会いに行く

誰からも愛されるというわけにはいきませんが、少なくとも、その土地で、親しみを持たれるようになる。でも、愛されるには自分が相手のことを好きにならないとダメですね。だから、男性であれ、女性であれ、出会った人に興味を持つ。「あの人はなぜああ言ったんだろう?」「どうしてあんなきついこと言ったんだろう?」と考える。

差別的な目に遭えば逆にその人に会いに行く。そうしたら、「いやあ、あのときはどうも」みたいな話になります、多くの場合。それで、あれはこういうことだったんだと自分の中で解消されていく。すると、それが一つの経験となって自信になっていきます。ただ、静かに家にこもっていては限界がある。

交流の苦手な人に話を聞くと、アメリカ人やイタリア人を「あいつら」みたいな言い方をする人がいます。アメリカ研究をやっている人が「アメリカ人はバカだから」と言っていました。そんなことは言えないでしょ、あれだけ複雑な社会なのに。

外観によって判断される偏った見解の概念
写真=iStock.com/hyejin kang
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/hyejin kang

だけど、そう言ってしまうのはその人の中に、一般化したくなる残念な過去があるのかもしれません。そうならないためには、まずは個を見なくてはいけない。

相手を個で見ようとしたとき、では、自分自身はなんなのかと問いが返ってきます。

■大事なのは所属ではなく個人

私の属性はいろいろあります。日本人、男、壮年、いわき市生まれ、東京の板橋、足立育ち、職歴、家族構成など。その中で日本人というのは、帰属の一つにすぎないと思えば、さほどそこにこだわらなくなります。

なぜこだわらなくなったのか。アフリカで暴動に巻き込まれた経験については話しましたが(『差別の教室』)、それ以外の理由もあると思います。

計15年ほど世界各地に暮らし、現地の人と親しんできました。そうした友人たちを振り返ったとき、その人を語る上で、例えば「コロンビア人」「中国人」といった国籍はさほど大きくないと気づきました。

国籍は、その人のいくつかある属性の一つにすぎず、その人を形づくるのは、生来の気質や家庭環境、その人固有の経験や感受性であって、国籍で人を知ろうとしても限界がある。その結果、次第次第に私自身も、国籍は一つのラベルにすぎないという姿勢をとるようになりました。

私がすごく尊敬している親しい人は中国出身で海外生活の長い人です。親しい友人には日本人、南アフリカ人、コロンビア人、メキシコ人、アメリカ人がいます。彼らを国籍で好きになったわけではない。彼らにはいろんな属性があって、そのうちの一つが中国の上海生まれだった、くらいのことです。

■国籍はIDの一つにすぎない

藤原章生『差別の教室』(集英社新書)
藤原章生『差別の教室』(集英社新書)

入国審査などで「お前は何人だ」と聞かれたら、「日本人です」と答えますが、普段、日本人である自分を売りにしているわけではない。究極のところで、国籍はIDの一つにすぎない。

日本の歴史や日本人全般についての評判を受け止めるとき、それは国や総体という曖昧模糊(もこ)とした存在についての話であり、何も自分のことだと受け止めることはない。そこから一歩下がったところで、その属性やそれについてのイメージを眺めていればいいという態度です。

差別を乗り越えるために、人は国家や民族といった属性、人間集団からどこまで自由になれるのか。その問いを常に抱えて生きていくことが大事だと思っています。

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藤原 章生(ふじわら・あきお)
ノンフィクション作家
1961年、福島県いわき市生まれ、東京育ち。北海道大学工学部卒業後、エンジニアを経て、89年、毎日新聞社入社。特派員としてヨハネスブルク、メキシコシティ、ローマ、郡山に駐在。2005年、『絵はがきにされた少年』で第3回開高健ノンフィクション賞受賞。著書に『ガルシア=マルケスに葬られた女』(集英社)、『資本主義の「終わりの始まり」』(新潮社)、『ぶらっとヒマラヤ』(毎日新聞出版)、『酔いどれクライマー 永田東一郎物語』(山と溪谷社)など。

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(ノンフィクション作家 藤原 章生)

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