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獄中から衆議院選挙に出て見事当選…新潟の土建屋だった田中角栄が「目白の闇将軍」になるまで

プレジデントオンライン / 2023年6月27日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/oasis2me

日本の政治を動かしてきたのは一体だれなのか。作家の榎本秋さんは「与党・自民党ではナンバーワンの総裁のほか、党四役(幹事長・総務会長・政調会長・選対委員長)の影響力が大きい。こうした公的な要職についていなくても、派閥の力をバックに大きな権力を持った人は『黒幕』『闇将軍』などと呼ばれていた」という――。

※本稿は、榎本秋『ナンバー2の日本史 近現代篇』(MdN新書)の一部を再編集したものです。

■自民党のナンバー2は幹事長

自由民主党と日本社会党の二大政党を中心とした「55年体制」の時代において、政治的なナンバーワンは当然、総理大臣を務める自民党の総裁(党首)である。自民党内における総裁選挙に勝利することでこの地位につくのだから、自民党の主導権を握ることは日本の舵を取ることになろう。

しかし、自民党において有力者がつくポストは総裁だけではない。党三役(のちに党四役)と呼ばれる要職があって、ここについている人間は基本的に重要人物と考えてよい。すなわち、幹事長、総務会長、政務調査会長(政調会長)である。

幹事長は総裁の補佐を行ない、党全体のナンバー2と言っていい存在だ。特に55年体制時代を含む戦後日本史においては、総理大臣と自民党の総裁はほぼイコールと言っていい存在であるため、党のナンバーワンである総裁は国政に奔走させられ、党に割ける時間がどうしても減る。こうなると、幹事長こそが自民党の運営で中心的な役割を果たすことになるわけだ。そして、自民党内部を動かせるなら、当然、国政への影響力も大きい。

■人事を握っているのは総務会長

このあたりは、前著『ナンバー2の日本史』でも紹介した、中世の君主とその家政機関のトップの関係を思わせるところがある。鎌倉時代の執権・北条氏と内管領(北条氏宗家「得宗家」の執事)や、室町時代初期(南北朝期)における将軍・足利氏と執事などの関係がそうだ。どちらも幕府という公的機関の中の役職ではなく主君の家臣であり、主君を支える家政を取り仕切ることで実質的に国家全体をも動かす強大な力を手にするに至ったのである。

総務会長は党の最高意思決定機関の総務会のトップである。総務会は党運営や国会での活動に関しての重要事項について審議する。特に、総務会長を除く党三役(四役)など党内の重要ポストの人事はこの総務会での承認を受けたうえで総裁が決めることになっており、一方で総務会長は総務会内部で選ばれる。人事を握っている強さはいうまでもなく、総務会および総務会長の重要さがわかってもらえるのではないか。

■政調会長と選対委員長で「党四役」に

政調会長も名前の通り、政務調査会のトップだ。ここでは重要政策について調査し、研究し、立案を行なう。選挙に際して公約を作るのもここの仕事だ。政党本来の役目は三権のうち立法を司(つかさど)る国会に関与することであり、当然、政務調査会の役割は大きい。

加えて、平成19年(2007)には選挙対策総局長が選挙対策委員長(選対委員長)と改称となって格上げされ、党四役と呼ぶようになった。選挙での勝利は当然、政党について重要命題である。なお、参議院議員会長、参議院幹事長がこれらの要職に匹敵するものとして扱われることもあるようだ。

では、自民党の中の意思決定はこれらの要職についた人々や、総裁=総理大臣によってのみ行なわれていたのか。そうとも言えない。ここにもう一つ、別の権力が加わることによって自民党の、ひいては戦後日本の政治は動かされてきた。それが「派閥」だ。

■親分・子分の関係性で派閥政治が花開く

自由民主党は自由党と日本民主党が保守合同をすることによってでき上がった政党だ。そもそも成立時点から寄り合い所帯だったのである。また、目的は当時台頭してきた日本社会党に政権を譲らないことであった。つまり、意見が少なからず違うものの、国政の舵を握るために集まった人々が自民党であるわけだ。いくつかの派閥に分かれて対立や和解を繰り返すのは当然であったろう。

派閥は本来、「八個師団」と呼ばれて8つあったが、やがておもな派閥は5つ、五大派閥にまとまったとされる。もちろん、時代によって増減があり、必ずしも一定ではない。

なお、このような派閥が生まれた背景には、結党時に設けられた総裁公選制や、当時の選挙制度が中選挙区制(1つの選挙区で複数人が当選する)にあるとされる。

つまり、派閥のトップになるような有力政治家は選挙で自分が総裁になるために議員や党員を多く味方にする必要があった一方、各議員は中選挙区で他党だけでなく同じ自民党のライバルとも競う必要があったので。党内の有力政治家の庇護を求めた。いわば鎌倉時代の御恩と奉公のようなつながりの中で、親分・子分の関係性が生まれ、派閥政治が花開いたわけだ。

■要職につかずに政治を牛耳った「黒幕」

公的な肩書の軽重は必ずしも実際の権力と比例しない。というのも、『ナンバー2の日本史』で見てきたのと変わらない。たとえば、摂関政治の時代において、藤原氏の有力者が天皇の補佐役である摂政や関白になった(摂政や関白という役職に力があった)というよりも、もともとの実力、あるいは天皇との結びつきで得た力(外戚など)があって、役職は後からついてきたのと似た構造である。派閥に所属する議員・党員の支えがあってこその権力であったわけだ。

派閥の領袖(トップ)が総理大臣=総裁になることもあれば、大臣や党三役の要職を務めることも多い。その一方で、そういった党の公的な役職につかないにもかかわらず、派閥の力をバックに総理大臣の人選にまで口を出す政治家もいた。そのような政治家は「黒幕」「キングメーカー」「闇将軍」などと呼ばれた。総理大臣を戦後日本政治のナンバーワンと見なすなら、彼らこそがナンバー2であろう。

そこでここからは、政界の黒幕と呼ばれた人の中から2人を紹介したい。

■官僚として出世した「昭和の妖怪」

「昭和の妖怪」の通称で知られる岸信介は、山口県の酒造家佐藤家に生まれ、父の生家である岸家を継いで岸信介を名乗った。弟の佐藤栄作と名字が違うのはこのためだ。

東京帝国大学法学部を卒業後、農商務省に入って官僚としてのキャリアをスタートし、満州国政府実業部(産業部)次長に上り詰めた。この部署は満州国の産業・経済を統括しており、しかも大臣にあたる部長は実権を持たないお飾りの現地人だったため、傀儡国家とはいえ、当時の岸は一国の経済を司っていたことになる。満州国の産業開発は自分の描いた作品だと、本人が語ったという話もまことしやかに伝わるほどだ。

その後、商工省次官に出世して日本へ帰国。3人の大臣に仕えたものの、3人目の大臣(阪急・東宝グループ創業者の小林一三)と衝突して辞任する。しかし、日米開戦直前、東条英機が総理大臣になると、同じ時期に満州にいた縁(当時の東条は関東軍参謀長)もあってか、商工大臣になる。その後、戦況を受けて商工省が軍需省になると、東条が大臣、岸は任所のない大臣兼軍需次官についた。また、翼賛選挙では推薦候補として衆議院議員になった。

■勾留、公職追放を経て政界へ進出

このような戦前・戦中の活動もあり、岸はA級戦争犯罪人容疑者として逮捕される。しかし、起訴はされず、容疑者のまま3年の間、巣鴨プリズン(東京都豊島区)に勾留された。

岸信介
岸信介(写真=外務省/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons)

釈放後も公職追放のために政界への進出はかなわなかったが、サンフランシスコ講和条約成立後に公職追放が解除されると、日本再建連盟という政党を経て、自由党へ入る。ただ、実弟の佐藤が「吉田学校」の主要人物であったのに対し、岸は反吉田派へ接近し、鳩山とともに日本民主党を結成すると、幹事長を務めた。保守合同でも大きな役目を果たし、自民党の初代幹事長に就任している。

鳩山引退後には自民党総裁選挙に出て石橋湛山とギリギリの争いを演じ、決選投票で敗れる。その後は石橋内閣の外務大臣を務め、石橋が急病で倒れたため、代わって総理大臣になった。

■「悪運というのは強いほどいい」

総理大臣としての岸は、日米安全保障条約(日米安保)の改定をめぐる騒動(いわゆる60年安保闘争)で、よく知られている。サンフランシスコ講和会議で結ばれた日米安保にはアメリカ軍による日本防衛の義務が明記されていなかったり、アメリカが日本国内の内乱に介入することができたりなど、条約は一方的で非対等であった。これを対等的なものにしようと努(つと)めたのが、岸であった。

岸は昭和35年(1960)のドワイト・D・アイゼンハワー米大統領の訪日に間に合わせるべく、新日米安保(日米安保を改定し、アメリカの日本防衛義務などを明記した)を国会で強行採決したが、活動家だけでなく一般大衆も含めて激しい反発を招き、国会議事堂を取り囲む大規模なデモが起きてしまった。「安保反対」が流行り言葉になり、当時、5歳だった安倍晋三(岸の孫)までが訳もわからず口にしていたという。最終的に大統領の訪日は延期となったが、安保改定自体は行なわれ、岸もこれを最後の仕事として総理大臣を辞任した。

なお、岸の退陣は病床でのことだった。後任の池田勇人の就任祝賀会の席で襲撃され、ナイフで足を数箇所、刺されたのである。襲撃者は殺す気はなかったと証言したが、岸が重傷だったことは間違いない。襲撃での命拾いといい、ここまでの生涯を見ても、岸という男は実に運がよく、本人も「悪運というのは強いほどいい」と語っていたという。

無事生き延びた岸は、昭和54年まで衆議院議員を務め、自民党では最高顧問の職にあった。彼の派閥(岸派)は福田赳夫に引き継がれ、この福田は後述する田中角栄と、佐藤栄作の後釜をめぐる激烈な政治闘争(角福戦争)を演じることになる。岸は福田の後見人であり、まさに黒幕として小さくない発言力を持っていたことだろう。

また、実弟の佐藤が4選目にまで総裁任期を伸ばそうとしたが、そこまで任期が延びると福田らのライバルの田中が力を増しすぎると考え、岸が佐藤を止めたなどのエピソードも残っている。

■秀吉になぞらえられた庶民総理

「今太閤」「庶民宰相」と呼ばれた田中角栄は、太閤こと天下を取った豊臣秀吉が足軽の生まれとされるように、新潟の豊かとは言えない農村地帯の出である。上京して建設会社で働きながら専門学校を卒業後、建築会社を設立する。

榎本秋『ナンバー2の日本史 近現代篇』(MdN新書)
榎本秋『ナンバー2の日本史 近現代篇』(MdN新書)

昭和22年(1947)に衆議院議員に初当選を果たした時の所属は民主党で、その後、民主自由党に移るも炭鉱国有化をめぐる疑獄事件で逮捕。しかし、東京拘置所内から選挙に出て当選し、裁判でも最終的に無罪を勝ち取る。

保守合同で誕生した自民党において、佐藤派の要人として頭角を現わしていき、岸内閣で郵政大臣を務めたことに始まり、次の池田内閣で政務調査会長、続いて大蔵大臣。佐藤内閣では大蔵大臣、幹事長、通産大臣など要職を歴任する。

その佐藤の後継者をめぐり、福田赳夫と争った一件は「角福戦争」と呼ばれ、戦争と名が付くほどの激しい政争であったが、田中が勝利。昭和47年(1972)、佐藤退陣後に自民党総裁、そして総理大臣についた。

田中角栄
田中角栄(写真=内閣官房内閣広報室/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons)

■決断力と実行力、そして豪快な金遣い

田中内閣での最大の功績は、就任同年の9月の日中国交回復がよく知られている(正式に日中平和友好条約が締結されたのは6年後、福田赳夫内閣の時)。自身の主張である「日本列島改造論」(工業地帯を地方に分散し、それらを高速道路・新幹線で結ぶ国土開発構想)を実行し、その結果として「狂乱物価」と呼ばれるインフレを巻き起こした。

田中は「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれる決断力と実行力の持ち主だった。非常に気前よく太っ腹な人物としても知られており、金を配って人を助けたり、好かれたりするエピソードは枚挙にいとまがない。「対立する派閥の議員が入院するとたびたび見舞っては大金を渡した」「料亭では芸者だけでなく仲居にもお金を渡した」などなど。

金にまつわる逸話も多く、「金は必ず手渡しをする」「相手が相場と感じるのと同じか低い金額では死に金どころかマイナスだ」「渡した金の半分はどこかへ行くだろうが、残った金が生きた金になる」などが伝わる。

■「責任は取るからやりたいようにやってくれ」

このようなエピソードだけを見ると金権政治家に見えるが、田中は単に金をばらまいて人の心をつかんだわけではない。官僚には「自分は素人だから任せる、やりたいようにやってくれ。責任はこちらで取る」という態度で常に接したという。保身が目立つ日本の政・官の世界において、田中のやり方に多くの政治家や官僚がシビれたのは想像に難くない。

しかし、昭和49年に「田中金脈」と呼ばれる資金調達が暴(あば)かれると、批判が集まって、総理大臣の辞任を余儀なくされた。さらに2年後にはロッキード事件(アメリカのロッキード・エアクラフト社が新型航空機売り込みのために政界に賄賂を送った事件)が発覚し、田中も逮捕され、自民党を離れることになった。

■裁判中も権力を振るったが、クーデターに遭う

むろん、これで田中が政界から姿を消したわけではない。彼は自民党最大派閥の田中派のトップであり続け、ロッキード事件の裁判を続けながら権力を振るったのである。田中内閣後に続いた大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘の各政権が樹立した裏では田中が動いていたという。大平の自民党総裁選の頃、「自民党の7割には(自分の)息がかかっている」と嘯いた。そのような話も伝わる。

この頃の田中に付いた通称が「目白の闇将軍」だ。あるいはマスコミが各内閣を「角影内閣」「直角内閣」「田中曽根内閣」と呼んだりもし、世間一般が「ナンバーワンとして総理大臣はいるが、実際に力を持っているのは田中角栄だ」と認識していたことがよくわかる。

ところが、昭和60年、田中派の竹下登が派閥内派閥「創政会」をつくるクーデターを起こしたのである。その20日後、田中は脳梗塞で倒れた。クーデター以来、酒量が非常に増えていたという。平成2年(1990)に政界を引退し、3年後に亡くなる。この時、ロッキード事件の裁判は終わっていなかった。

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榎本 秋(えのもと・あき)
作家、文芸評論家
1977年、東京都生まれ。書店員、編集者を経て作家事務所・榎本事務所を設立。『戦国軍師入門』(幻冬舎新書)で歴史新書デビュー。『外様大名40家「負け組」の処世術』(幻冬舎新書)、『10大戦国大名の実力 「家」から読み解くその真価』(ソフトバンク新書)、『日本坊主列伝』(徳間文庫)、『将軍の日本史』『ナンバー2の日本史』(MdN新書)など著書多数。

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(作家、文芸評論家 榎本 秋)

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