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要介護の老親の口座から勝手にお金を引き出し、献身介護の嫁を家から追い出す…醜い義きょうだいの悪の所業

プレジデントオンライン / 2023年6月24日 11時16分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Pixelci

夫が若くして他界した後も、義父母の家で暮らしていた女性。高齢となった義父は畑仕事中に不慮の死を遂げ、要介護4の義母は自宅で女性からの献身的な介護を受け、92歳で息を引き取った。女性は介護の重労働からは解放されたが、義姉やその夫は義両親の通帳から勝手にお金を引き出し、女性を追い出そうと画策している――。

【前編のあらすじ】中国地方在住の鈴木愛子さん(60代・既婚)は25歳の時に農家の長男で3歳年上の夫と結婚。義両親だけでなく、義祖母、高校を卒業したばかりの義妹とも同居し、がむしゃらに農業や家事を覚えた。3人の子供を育て50代になっていた2012年の初夏、田植えが終わった夜に夫が倒れ、59歳で亡くなった。肝硬変だった。

その後も義実家で同居を続けていた鈴木さんだが、7年後、87歳の母親が熱中症で倒れた後、腸閉塞を起こし、手術を受けた。その直後には同居する89歳の義母が高カリウム血症で救急搬送され、さらに92歳の義父までもが疲労で倒れた。夫を亡くした後、3人の介護を一気に引き受けた鈴木さんはその後――。

■在宅介護スタート

2019年8月末の介護認定で要介護5だった母親(87歳)は、2カ月後にリハビリ病院に転院した。転院先の病院の主治医は、言いにくそうにこう話した。

「もし急変した場合、普通は救急車でまた救急病院に運ばれてICUで治療をしますが、もうご高齢なので……」

鈴木愛子さん(中国地方在住・60代・既婚)は意をくんでこう答えた。

「延命治療のことですよね? そうですね、母は今までよく頑張ったと思います。もし急変したら、もう救急車で運ばない方向でお願いします」

看取りまでお願いする、という書類にサインした。

「気管切開手術を受けた母は、転院先がなかなか決まりませんでした。母の気管切開手術を決めたのが私だったため、『本当にこれで良かったのか? 母はこれで幸せなのか? あの時気管切開していなかったら、今頃楽になっていたのかも……』と自分を責め続けていました。でも母は、言葉は失ってしまったけど、命は助かりました。家族の顔が見えて、声も聞こえる。笑うことだってできる。もっと回復したら、喋れるようになれるかもしれない。『母ならそうなる!』と信じることにしました」

リハビリ病院に転院した母親はみるみる元気を取り戻し、人工呼吸器も外されることに。

しかし喜んでいたのもつかの間、「病棟を移る」という連絡を受け、鈴木さんが病院へ向かったところ、そこは古くて暗い病棟。周囲はほとんど寝たきりの高齢者ばかりで、時にはうなり声が響き、ベッドの柵に縛り付けられている患者もいた。

「こんな言い方するのは心苦しいのですが、“死んでいくのを待っているような場所”でした。このままこの病院で最期を迎えるなんて……と思うと涙が出てきました」

この日、鈴木さんはその足で実家に行き、「お母さんをこの家で最期まで見たい! 今のお母さんを家で見るのが大変なことは分かってる! 一人ではできないのもわかってる! でも無茶は承知の上!」と姉に訴えた。

2020年の正月。鈴木さんの家族と姉の家族が集結し、家族会議を開催。全員で話し合い、家族で協力して、母親を母親の家で在宅介護をすることに決定した。

主治医に相談すると、「家族さんが大変ですよ」と言いつつも、反対はしなかった。鈴木さんたちが「頑張りたいです」と言うと、「介護者が吸引の仕方やベッドから車椅子への移乗など、看護研修を受け、しっかりと準備ができるなら……」という回答を得る。

主治医は、病棟の看護師やソーシャルワーカー、ケアマネジャーや訪問看護師、地域のかかりつけ医たちと連携してチームを組み、約3カ月後に在宅介護ができるよう、鈴木さんや姉たちに、気管切開の吸引・吸入、おむつ替え、鼻からの経鼻栄養の仕方などを教える段取りをしてくれた。

「協力してくださった看護師さんや介護士さんたちからはこう言われました。『気管切開していたり、経鼻栄養や吸引・吸入などが必要な患者さんを家族で介護したりすることは、なかなかできないこと。私たちもこのような経験ができて良かったです』『見本となる在宅介護の仕方です。一緒に経験させてくれてありがとう』と。感謝され、私たちもうれしかったです」

そしていよいよ2020年3月。88歳の母親の在宅介護がスタート。前年に熱中症で倒れてから、約7カ月ぶりの帰宅だった。

■突然の義父の死

2020年4月。いつもの朝だった。90歳の義母は起きるのが遅いため、朝食時は93歳の義父とキッチンに2人でいることが多かった。その日も7時ごろ、テレビを観ながら、「コロナ、いつ収束するんだろうね」などと話していた。

午後から義父と義母は、カボチャの苗を植えるため、家から車で5分ほど離れている畑に行っていた。畑の草を取り終えると穴を掘り、苗を植えようと横を見ると、義母は義父がいないことに気がつく。

積み上げられたカボチャ
写真=iStock.com/sdstockphoto
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/sdstockphoto

辺りを探すと、義父は畑と田んぼの間の川にはまって溺れていた。義母は耳が遠いため、義父が助けを求めていたのに聞こえなかったのだ。

義母は急いで義父を助けようと、長いくわを義父に差し出したが届かず。義母はすぐ近くの家まで、歩けない足で一生懸命助けを求めに行くも、その間に義父は下流に流される。近所の人が義父に気付き、川から救い上げようとしたが、衣服に水が含まれ重たくなっていたため、なかなか引き上げられない。そうしている内に救急隊が到着するも、すでに義父は心肺停止状態だった。

鈴木さんは、母親の介護で実家へ行っていた。義実家には誰もいなかったらしく、義母から聞いた連絡先に救急隊が連絡し、連絡を受けた鈴木さんが救急病院へ向かうと、義母は警察に事情聴取されていた。

義父の死亡確認は鈴木さんが行った。医師が義父の目にライトを当て、「15時24分です」と言ったが、鈴木さんは目の前で何が起こっているのか、事態がのみ込めずにいた。

今から思えば、義父は少し前から「しんどい、しんどい」と言って、義母と畑仕事をしては横になっていた。お風呂から上がると、足元がふらついていることが多かった。「なんでもっと早く気付かなかったのだろう」と、後悔がこみ上げる。

しかし泣く時間はなかった。事情聴取されている義母の元へ行き、耳の遠い義母の通訳を最後まで果たした。

何時間ぐらいたったか。義父は検死が終わると霊安室に通されていた。事情聴取から解放された鈴木さんは、やっと義姉、義弟、義妹に連絡することができた。葬儀の手配をしなければならなかったが、鈴木さんは放心状態だった。

「こういう時、8年前に亡くなった跡取りの夫がいてくれたらなと思いました。世帯主の義父が亡くなってしまい、町内のことは誰もわからなくなりました。お嬢様育ちで世間知らずな義母は何もわかりません。私は、朝まで生きていた義父を亡くし、今はコロナでお葬式の仕方もわからない、わからない尽くしの状態なのに、案の定、外野である義姉や義姉婿、義弟がうるさく口ばかり出してくることに、うんざりしていました」

何とか葬儀の打ち合わせを行い、喪主は鈴木さんの長男(34歳)が務めることになった。8年前、父親の時にもわからないなりに初めて喪主を経験し、今回2度目の喪主だ。

「まだまだ若いし、田舎で後継者としてやっていくのは大変です。親としては『よく頑張っている!』と99点をあげたいのに、外野たちはそうは思わないのでしょうね。義父が亡くなったそばからゴタゴタが始まり、神経やられそうでした」

鈴木さんは母親の介護にも行けなくなった。姉たちは、「こっちのことはいいから心配しないで」と言ってくれているが、できれば義実家のことはすべて投げ出して、母親のそばに居たかった。

「いろいろな手続きなど、義母ができないので、嫁の私が全部やっているのですが、正直ヘロヘロです。相続の話も出ていますが、嫁の私には関係ありません。実家は協力体制バッチリなのに、義実家はみんな勝手なことばかり言っていて大変です」

落ち込んだ様子の義母は、「私が代わりに死ねば良かった」と何度も口にした。義父が亡くなった翌日から、義姉婿が毎日のように義実家に入り浸り始めた。

「義姉婿はほとんど毎日義母のところへ来て、自分がこの家の主のように振る舞い始めました。私は、義姉婿の車を見ただけで、動悸(どうき)がして血圧が高くなり、病院へ通うようになりました」

■母親の死

実母の在宅介護を担当するのが、鈴木さんと姉、姉の孫の妻、姉の末孫と複数人であるため、鈴木さんたちは介護ノートを用意。自分たちだけでなく、訪問看護師たちが見てもすぐに母親の状況がわかるようにした。

「私や孫ちゃんたちは、母を介護する時間以外は自分の時間を持てますが、姉は母と同じ部屋で生活していたため、母のゼーゼーしている音や咳、母の吸引の音などで睡眠もままならなかったと思います。でも、私たちはお互い、自分ができないことを4人の誰かがしてくれるという安心感があり、自然と支え合うことができていました」

2021年3月。その日はよく寝ていたので、鈴木さんは、口腔ケアは翌日にゆっくりしてあげようと思い、母親の横でウトウトして帰った。

翌朝の9時ごろ、姉から「お母さんの様子が変! 体温が35度もなくて、身体が冷たいような気がする!」と電話があり、すぐに実家へ向かう。その途中で、姉の末孫から、「おばあちゃん、心肺停止」とLINEが入った。89歳だった。

「いつかはこんな日が来ると覚悟を決めていましたが、悲しいものですね。前日は母とお昼寝をして、『また明日来るからね』と言ったら目を開けてうなずいていたのに……」

主治医は、「とても穏やかな優しい顔して、苦しまず、スーッと逝かれた感じがします。お母さんも今までよく頑張りましたが、家族の皆さんもよく頑張られましたね」と言った。

母親は、かねて姉と決めていた、家族葬で送られた。

■義母の死

義父が亡くなってからも、義母はワガママなままだった。義父が義母に相談なく、農家の後継ぎを鈴木さんの長男に決めたことに腹を立て、以降、鈴木さんの長男とその妻を毛嫌いしていた。2022年5月ごろは相変わらず頑なで、「自分に介護が必要になっても、見てくれんでもええ」とはっきり言い切っていた。

「あの頃は、夫が亡くなってから、田畑の後継者として頑張っている長男の悪口を言う義母を許せず、『誰が義母の介護なんかするか!』と思っていました」

当初は義姉婿が、「義母の面倒は義姉が見る」と言っていたため、「それならその方が義母にとって幸せだろう」と鈴木さんは思った。すると今度は義弟から、「介護しないならこの家から出て行ってほしい」と言われ、義母も一緒になって鈴木さんたちを追い出しにかかった。

ところが義父の死から2年後。もともと糖尿病や腎臓病もあり、92歳になった義母は、日に日に身体が弱っていった。要介護1から要介護4になり、8月には自分で歩くこともできず、人の手を借りなくては生活できない状態になった。

いつしか鈴木さんや鈴木さんの家族たちは、義母からさんざん嫌なことを言われてきたにもかかわらず、自然に義母をサポートしていた。

ある日、義母は鈴木さんたちに、「今までのことは悪かった。これからもこの家で自分を見てほしい」と頭を下げた。

「当時、義姉や義姉婿たちは、義母の通帳を勝手に持ち出して、内緒でお金を下ろしていました。義母の身体の心配よりも、お金の心配ばかりしているように見えました。私は義母がかわいそうになって、この40年間、本当に嫌な思いをさせられたし、良い思い出もないけれど、これからの何年間で、私が私のために納得いく介護をして、義母を夫や義父の所に送ってあげたいと思い、それを家族に伝えました」

通帳を確認する女性の手元
写真=iStock.com/west
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/west

鈴木さんの子供たちは全員、「おかんはそうするだろうなと思っていたよ。それならみんなで協力するよ。おかんひとりだったらおかんの身体が心配だよ』と言い、それぞれができることをしてくれた。

2022年6月。義母は入退院を繰り返すようになり、2023年4月には突然の高熱。検査をすると、敗血症だった。主治医の話では、「2〜3日が山だ」と聞いていたが、鈴木さんが毎日面会に行き、義母といろいろな話をしていると、だんだん元気を取り戻し、食欲も戻ってきているようだった。

主治医に確認し、義母が食べたいものを持って行くと、今まであまり自分の素直な気持ちを出したことのない義母が、「おいしい、おいしい」とうれしそうに食べ、鈴木さんに「ありがとう」と感謝の気持を言葉にできるようになっていた。

「亡くなる前日も、私から見て回復してきていると感じていたし、私の身体を心配してくれる言葉や、私が帰る時には、『また明日来てな〜、楽しみにしとる。気をつけて帰るんよ』という言葉をかけてくれました」

2023年4月17日の早朝、義母は息を引き取った。

「義母は、穏やかで、幸せそうな顔していました。それを見ただけで私も幸せな気持ちになれました。これで、私の介護生活が終わりました。最初は嫌だった下のお世話も、やってみると大丈夫でした。正直義母の在宅介護はしんどかったですが、今は、義母がかわいい義母に変わってくれたから、最期まで介護することができたのだと思い、感謝しています」

鈴木さんはこう言うが、筆者は鈴木さんや鈴木さんの子供たちが義母のかたくなな心をほぐしたのだと考える。

「義母の在宅介護をしたおかげで、今まで私の長男の前で笑ったことのなかった義母が笑い、その笑顔を長男が目にすることができました。家族みんなで協力し、義きょうだいたちと戦え、しんどいながらもたくさんの幸せを感じることができました」

約40年も意地悪をされ続けてきた相手を献身的に介護し、看取ることまでできる人はなかなかいない。ましてや、一度も感謝の言葉を口にしなかった相手の心を溶かすことができたのは、奇跡に近いことではないだろうか。

しかし、残念ながら鈴木さんの戦いはこれで終わりとはならなかった。むしろ始まりと言っても過言ではなかった。

■義きょうだいたちとの戦い

義父が亡くなったあと、一番近くに住んでいる義姉は、義姉婿(義姉の夫)をけしかけ、義母を言葉巧みにだまし、義父の通帳を持ち出し、貯金を下ろしていた。

「義姉は義父が亡くなった後も、仕事を言い訳にして、数えるぐらいしか義母に会いに来ていませんでした。もちろん私が義母の介護をしている最中も亡くなった後も、感謝の言葉なんて一度もかけてもらったことありません。義弟からも義妹からも何もありません。義母の貯金の世話はできても、義母の身体の心配なんて少しもしていなかったのではないでしょうか」

義きょうだいたちからは、二言目には、「ばあさんのお金を使うな!」ばかり言われていた。

鉛筆を持った手で通帳の引き落とし額を確認
写真=iStock.com/wing-wing
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/wing-wing

義母が入退院を繰り返すようになったとき、義姉婿は、「もうここまで生きたのだから、そろそろあっちの世界に行ってもいいよ」と、耳が遠くなった義母の前で言っていた。

亡くなる前日に義母は、

「あの子(義姉)は、私を全然介護せず、あんたにばかり見せた。あの子(義姉)は、あんたのようには介護できんかったと思う。あんたに感謝もせずに……あの子は阿呆じゃ!」

と鈴木さんにこぼしていた。

そう思うのであれば、もっと早く行動に移すべきだった。鈴木さんの夫が亡くなった時、義父は、「わしが死んだら絶対に長女夫婦が財産を取りに来る。だから遺言を作っておく」と言って司法書士のところに相談に行った。しかし義母に止められ、結局遺言書を作らないまま、義父は急死、義母も亡くなってしまった。

義母の死後、義姉夫婦は、義父母の通帳を持って口座がある金融機関へ行き、「義父が亡くなった後から現在までの、入出金の履歴を出してほしい」と依頼したようだ。

「私が義父母のお金を使い込んでいないか疑っているのでしょう。私が同居して義母の介護をしているのに、『家賃を払え!』なんて言われたこともあります。実際、夫の跡を継いで、田畑をわが家の長男が耕していますが、これも、義姉夫婦に言われて義母に借地料を払わされていました。義母の介護をプロや施設のお世話にならず、私が在宅で介護したらタダ……なんておかしいですよね?」

これから相続の話になる。

「下手したら私や子供たちがこの家を追い出されかねないと思って、一応話がこじれたときのために、弁護士さんに相談しています。なのでこの家に住み続けられるかどうかは、これからです」

自分たちの親にもかかわらず他人に任せきりで、ただひたすら遺産を多くもらうことだけを考えて暗躍し、介護して看取ってくれた人たちを長年住み慣れた場所から追い出そうとする義きょうだいたちのなんと浅ましいことか。

実直な人たちが割を食う社会であってはならない。鈴木さんにはぜひ、子供たちと一致団結し、義きょうだいたちとの戦いに勝利してほしい。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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